雨漏り奮闘記「東京オリンピック」
http://blog.with2.net/link.php?720512
上記アクセスをクリックしていただけるとブログ掲載の励みに成ります。宜しくお願いいたします。
昭和39年10月10日~25日に開催された東京オリンピックは日本を「戦後後は終わった」言わせたほど、日本人の心に深く刻み込まれました。
昭和35年内閣総理大臣池田隼人は、オリンピック開会式に参列して、閉会式の翌日辞任しました。
そんな彼が「貧乏人は麦を食え」と。
そして、佐藤栄作の長期政権が角福の両輪の中で誕生いたしました。
そんな世相の中で、オリンピックは昭和天皇の開会宣言・
小野喬選手の選手宣誓で15日間の幕を開けました。
前日までの雨が嘘のように絶好秋晴れでした。
オリンピックによって日本国民はひた走りに国際舞台にと踊り出ました。
当時私は多感な青年でした。
どうして、こんなに鮮明に東京オリンピックが記憶の中にあるのか?
それは6年前のアジア大会のむなしい思い出が重なるからです。
私の悪友福田と一緒に「アジア大会」を前売りチケットなしで出かけました。
高校生の世間知らずも、今から思えば程があったのでしょう。
競技場の周りをあきらめ顔で回り、観戦できなかった思い出にと、「揃いのアルバム」購入しました。
東京オリンピックはどうしても見たい。
その様な気持ちで、私はオリンピックを迎えました。
私はサラリーマン、会社は日米の合弁会社。
当時最先端の石油コンビナート・高圧ポリエチレンの会社員でした。
アメリカ人の役員も多数一緒に勤務しておりました。
会社で接待のために大量のチケットをまとめ買いをしており、人気の「陸上競技」「体操」「バレーボール」「ハンドボール」「水泳」などは招待客に配られました。
残ったチケットが抽選で社員に配布されました。
私が当たったチケットは「柔道」と「近代5種のクロスカントリー」でした。
当時柔道は勝って当たり前、そんな空気の中で広島の「姿三四郎」こと、中谷雄英選手は全ての試合を1本勝ちで勝ち進み、柔道で最初の日の丸を揚げ、厳粛の中に君が代が流れ、
IOC会長ブランデージ氏から金メダルを授与されました。
他の2階級も金メダルでしたが、無差別級の神永選手がオランダのヘーシングに僅差で敗退した時は、武道館に詰め掛けた15,000人の観客からため息が聞こえました。
そしてメデアも大きく「日本柔道敗れる」と報道しました。
別のメデアは「日本柔道、世界の柔道になる」と報道しました。
良い悪いは別にして「加納治五郎」が起こした柔道が柔術からスポーツ柔道として世界に広まった証でした。
柔道が世界での競技で正式種目に成った日でも有った訳です。
そして、世界柔道連盟は「柔道」を「加納治五郎により創設されたものを柔道と認める」と言う一文が規定されております。
私もTVで観戦し無差別級の試合に、ため息をついた記憶があります。
その他にも大松監督率いる「東洋の魔女」の回転レシーブを手に汗を握り、TVに噛り付いて観戦した記憶があります。
また、男子体操の個人総合の遠藤幸雄選手・男子団体総合での日章旗を心温まる思い出の中でTVを観戦しました。
心躍る東京オリンピックの映画(市川 崑監督)の撮影手法にも私は敬服、今、自分も知らぬ間に市川崑監督の撮影手法を真似ていることに気付く事があります。
それほど感銘を受けたものでした。
そして、なんといっても圧巻はエチオピアの軍人アベベ選手の
ローマ・東京と二度の金メダルでした。
アベベの「もう一度走ってこられます」の言葉に日本国民驚いたものです。
遅れること2位3位争いののデッドヒートで敗れ、代々木の陸上競技場に現れた円谷幸吉選手は、万感の拍手で迎えられました。
私はマラソンを、当時恋人だった金子さんと一緒に、調布の郵便局の折り返し地点で撮影しておりました。
その時の記憶では、マラソン選手の走行スピードは自転車で走るスピードであるのに驚かされました。
私の中では東京オリンピックは夢と感動の思い出でした。
それは、日本人が世界に羽ばたく瞬間だったのでしょう。
そして今の世相と違い、努力すれば誰でも夢が持て、希望に溢れ時代でした。
懐かしいあの頃と、青春を取り戻せたらと思いつつブログをアップしました。
雨漏り・屋根・瓦・漆喰・雨樋・屋根塗装の気なる方は
メール、TEL・FAXなんでも相談OKです。
新瓦博士




