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静御前と田舎教師(田山花袋)

2019.06.18 (火)

一件繋がらない遺跡の見学の話です。栗橋駅の近くの公園に静御前の墓が安置され、今は、栗橋街の街おこしに一役買っております。昭和の初めの町村合併まで「静ヶ村」の地名でした。静御前は、京から吉野の弘法大師が開祖した金剛峯寺まで身重の体でたどり着いたが、もうそこには鎌倉幕府の追手が延び、義経私従は陸奥の道を行者姿で藤原秀衡のもとたどり着いたのです。静御前は捕らえられ、鎌倉八幡宮の頼朝の御前に召し出され、当代随一の白拍子で舞を強要されたが、静は私は義経さま妾であると断ったのです。頼朝は、激怒し政子が取りなし、舞いは八幡宮の能舞台で披露されました。しかし、身籠っていた男子は出産ご殺されました。

田舎教師は羽生、行田、古河を舞台に実在の人物、羽生の小林秀三氏の日記を元に田山花袋が書いたものです。田舎教師は足利の呉服問屋に生まれ、父の道楽の骨董で身を崩し、熊谷の長屋に住み着き、その後、行田の旧忍城の城下の長屋に住んだのです。
 ㍾34年行田から4里道のりの弥勒高等小学校通ったのです。作家の田山花袋も館林生まれです。田舎教師の小林清三は熊谷中学を卒業して代用教員なったのです。今、当時の弥勒小学校は無く、私の不動岡高校の担任の法元六郎先生の建てた下駄履きに羽織姿のブロンズ像がたっています。
小林清三が恋心を抱いた北川美穂子(お種さん)の墓が近くの円照寺に記念碑が建っています。清三は21才の時に結核に架かり行田の斎藤医院で診療したのです。清三は行田の電電公社の近くの柳の湯にもらい湯だったのです。
北川美穂子さんは北袋の母の姉が住んでいた橋の袂のお店の娘さんのです。清三は娘さんが弥勒小に弁当を届ける事を心待ちしていました。
清三の給与は11円で船で古河の花街(中田宿)へ遊びにいったのです。益々貧乏なった清三は小林秀三の友人の住職に願い、羽生建福寺に転げ込んだのです。
当時の古河は花街がありましたが、4号線でき奥州街道の宿場街でしたが今は跡形も無く、静御前は古利根を渡れず病に倒れたのです。
清三も静御前も若くして失意の中で無くなり清三を知る人もいなくなったのです。
 話は違いますが田山花袋の兄、管原正敬の碑が鷲宮神社に多数あります。かれは、文筆家で急進的な新聞記者でした。

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