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記事一覧

血塗られた土曜日 鶴見列車火災事故&炭鉱の火災事故相次ぐ

2021.03.23 (火)

 汽車から電車に変わり時代は益々スピードを上げながら変わって行ったのです。
 「オー 猛烈!」などの言葉がはやり、ボウリング場もピンスポッターで手作業から自動化になり、誰もがボウリング場へ押しかけ3時間待ちの状況でした。ハイカラ気分を味わい味わったのです。

 しかし、鶴見で列車の火災事故が発生し、死者161名負傷者120名を出したのです。当時の列車は扉を開けることができず、上下に上げる小さな窓に押しかけ、東京大空襲の神田川に飛び込んだ心理とおなじです。
 私も能登へ行ったとき芳光が他人の後追いして、降りたとき窓から飛び降りようとしたが出来ませんでした。もし、飛び降りたら死んでいたかもしれません。光子も駅で停車したらホームがなく剣を背負って、目線3mから飛び降りたのです。相当怖かったそうです。
 能登の旅行は色々ありました。次の駅で急行列車で折り返し駅名忘れましたご夫婦で駅員やっていました方が泣き顔の芳光あやしておりホットのです。

 大牟田の三井炭鉱で458人が落盤で亡くなり新聞で「血塗られた土曜日」報じられたのです。

 3年ぐらい前、軍艦島に行ったときに思いを新たにしました。今は上陸もかないません。思った時に実行しないと観光でさへできないのです。小笠原の父島も同じようです。米軍の機銃掃射受けた座礁船は70年の歳月で海の中に消えてしまったんです。
 人間も同じで寿命で亡くなり、忘却促す為に戒名あるのです。
 私が屋根リフォームをした蓮田のAさんの奥さんは生前の名前にしてくれと遺言を残し亡くなったのです。遺族はどんな気持ちでしょうか。でも、忘却は訪れる事でしょう。

東武線謎の怪死事件続く三鷹列車暴発・小松川事件・朝鮮戦争

2021.03.14 (日)

 下山事件事件など戦後4年、世相があれて、何処にもぶつけられない嫌な事件が多かったのです。

 子供のせいかうわつっらは理解できても詳しは解りません。
 それでも、太陽は昇り、雨が降ったのです。
 昭和26年2月22CMの積雪、太平洋側では大雪で木柱電信柱が20本近く倒れ、復旧も遅れ、寒い日を過ごし、ランプ生活でした。私にとっては1ヶ月位復旧に懸かった記憶です。長くつの無い時代です。
 来る日も来る日もランプの火や(ほや)掃除をした記憶残っています。9歳だったんです。瓦干し場の雪は3輪車で江川の捨てた記憶です。

 10歳の時に、前述した洞爺丸海難事故、鉄腕アトム誕生です。好いこと、悪いこと良く重なりました。
 遅れる事、昭和50年北朝鮮と南は大韓民国(金日成:李承晩)
それで共産主義者の怪事件が多発したのですね。

 町中は美空ひばりの歌声で明るさを増したのですが、闇市が多く、スリ・かっぱらいは日常茶飯事、10円で女性のあそこマッチが消えるまで見えた話も聞こえてきました。

 韓国は北朝鮮の攻撃で首都ソウルソウル陥落、マッカサーが一時原爆使用を考えたのです。とこらが時の米大統領トルーマンがマッカサーを解任、有名な言葉に「老兵は去るのみ」。
 毛沢東も北京に引っ込んで大3次世界大戦は沫に帰して良かったのです。
 小学校の登校時にB29の編隊が南に飛行するのをよく見かけました。実家の渡辺ミシン工場も大量のボタンを縫製していたのを覚えています。

 母やすは鼻の穴真っ黒にして、5人を食べさせてくれたのです。
 啄木のように「働けど、働けど、楽にならざる。」でした。

白井義男と美空ひばり&君の名はの数寄屋橋は漁民がダルマ船が縦横無尽

2021.02.27 (土)

 昭和20年8月15日を境に、日本軍人だけでなく、日本の男子は自信喪失に陥ったのです。ましてや、日本生命ビル(アメリ総司令部)のマッカーサー元帥と小柄な昭和天皇の写真は世界を駆け巡りました。この映像は、米国大統領「ルーズベルト」への報告であって裏があったそうです。

 マッカーサーの回顧録だと思いまたが、実は逆でマッカーサーは足が震え、昭和天皇は凛としていたそうです。天皇の気持ちは固まっており、自分は死刑なっても良い「国民をの気持ちを尊重してくれ」と元帥にお願いしたそうです。1600年営々と続いた天皇家の君主としての重みなのです。

 世の中は貧困・飢餓・社会の混乱・自然災害の連続でした。
 そんな世相の中で、日本を沸かせた湯川秀樹のノーベル賞受賞(1949年)・白井義男のフライ級世界チャンピオン(1952年)の記事です。
 
 日本中を歌で明るくしてくれた笠木シズ子のブキウギ(1942~続く天才少女「美空ひばり」(1949年)の「リンゴ追分」等4000曲で日本国民に元気を取り戻しました。故人に成られて国民栄誉賞に輝きました。

 オリンピック水泳では古橋広之進の金メタル獲得し(昭和1947年)、日本のトビウオと呼ばれ、ヘルシンキ・オリンピックの水泳が丁度4時頃と思います。帰宅すると真空管の急型ラジオにスイッチを入れ、「古橋がんばれ‼.橋詰が2位付いけいました。もう、ラジオにかかじり付いて聞いたものでした。とってもかっこよかった。

 その後、少し経過し、冬季オリンピックで猪谷千春とトニーザイラーです。猪谷選手は銀メダル、ザイラーは金メタルでした。、真っ白いゲレンデを歌を歌いながらの大回転競技です。男も惚れるほどです。

 今では、数寄屋橋は何処にあるの探しても、標識し見当たりません。時代ごとに変化を遂げる銀座です。でも、ダルマ船の住民いて投網を打ったり、小さなアミ.子魚などで佃煮を造いたから佃島の名前付いたのです。そいえば、今から25年前に葺屋根葺き替えで仕事に行ったときです。3階だ建ての高欄のある家があり、すぐ芸者の置き屋と分かりました。今はソープランドです。
 横浜の河川ですが、ダルマ船は私が26~30くらいまではあったのです。

 銀座だけでなく、築地も豊洲なって行ってしまいまいた。
 あの汚水問題もちょっとキレイにしてうやむや、そんなのあるかと言いたいですね。小池のおばちゃん大分嘘つきのようです。
 強欲の塊です。総理になりたいのでしょう。

鉄腕アトムの誕生と鷲宮神社境内の鏡里(横綱)巡行

2021.02.27 (土)

 鉄腕アトムは私が小学4年生のころ雑誌「少年」に鉄腕アトムと小松崎茂の空想未来に憧れて、毎月のこずかいを持って久喜町(久喜市)の温古堂へ自転車で買いに行ったものです。
 毎月、発行日になると心をワクワクさせていのです。

 宝塚劇団100周年時のアトム鉄腕アトム記念館ある事を知り驚きました。きっと、Tさんも思ったことでしょう。
 宝塚劇団はもともとは温泉街で阪急電鉄の小林一三の知恵によって集大成し、関西商工会の不動のモノにしたのです。

 小林一三の系譜錚々たるものです。サントリーの創業者の鳥居一族親戚関係なのです。
 小林一三は今の戸建て建売を考えて、土地の沿線土地を買い、開発したそうです。のどかな時代だったのです。誰もきずかない時がチャンスです。いつの時代もそうなのです。今も、イノベーションを巻き起こすもの言動がそうですね。GAFやテスラの社長の言動が世界を動かしています。

 話は変わりますが、太鼓腹の横綱鏡里一行が鷲宮神社で巡行興行をやったのです。今では考えられないことと思います。よく覚えていないのですが多分鳥居の横の駐車場だと思います。昔は部屋単位の巡業で地元の興行師が呼んだのでしょう。私の小学生時代の話ですが。子供でお金を持っていないのです。仕方なくテントで張られた隙間から覗いたのですが何も見えなった記憶しかありません。

 今は、四回地方地方巡行がありますが本場所同然でTV中継もやっております。時代の変遷です。当時の鷲宮村は800戸位の寒村です。1戸5人家族として4000人の人口なのです。隔世の感があります。まだ、釣べ
井戸の家もあった時代です。戦後の復興期で精米所・酒屋・各商店威勢がよく、魚さんが御用利きを雇っていた時代です。

小学校に入学して

2021.02.01 (月)

戦中生まれの私達は貧しさのどん底でした。
 まだ、農耕馬が砂利道をのんびり歩いて、長閑な時代です。江川の脇に竹藪があって相沢馬喰(バクロウ)があって馬の爪を切ったり、馬蹄を打ち込んだらしていた時代です。

 毎朝、太田さんのおじいさんが藁ズトに入った納豆を笛を吹きながら売りに来たものです。

 私と言えば、毎日、母からこずかいを10円もらって、やっと口に入るっ鉄砲玉と金太郎飴とガラスの入れ物に入った手焼き煎餅、そのほか数点でした。しかし、子供にとって悩みながら買ったものです。
 今みたいに並んで登校する事なかったのです。でも、ガキ大将がまとガヤガヤ話しながらまめたものです。

 東武線の踏切あって、黄色・黒のバー上げ下げしていた物です。

 踏切の脇に相沢商店があって消しゴム・ノートを買ったものです。

 まだまだ下駄の時代です。下駄は中学卒業まで履いていました。
雪が降ると大変です。高下駄の歯の間につまり、取ろうと思って砂利道に突っかえると歯が折れて歩けないのです。仕方ないですが足袋で歩くと冷たくて泣きたくなります。

 校内は今みたいにスリッパがなく草鞋でした。そして、長い廊下を雑巾がけしたのです。私は寒がりで手・足にしもやけができ、私にとって廊下の雑巾がけは「地獄」でした。

コークスのダルマストーブは冬の教室のロウソクの明かりのようでした。周りを囲んでおしゃべりでした。
 小春日和の時は、西風避けて温もりを楽しんだのです。校庭はすぐにつむじ風巻き込みクルクル回り赤ちゃんの竜巻がアチコチ発生したのです。

 私たちの担任は関根先生と言って女性でした。4年に入って大学受験に失敗した。詰襟の高校生の先生でした。大熊先生と言って翌年は再受験で退職の時に私・小暮君・伊藤安子・間下紀久子さん誘って久喜町に行き、林写真館で記念写真撮ったのです。生存しているのは私と小暮君だけです。その時、初めてウオルトデズニーのカラー映画『ダンボ・禿山の一夜』驚きながら見てきまいた。

 当時は、ナトコと言って、視聴覚教育の一環と言って学校の校庭に筵が敷かれ白黒の映画でした。

 当時の学校は、木製でドイツ下見の近代建築です。屋根はひし形の天然スレートの感じです。

 校長は土屋先生です。写真を見ると下駄にモンペ姿です。

遠足は歩いて2キロくらいの大輪の松原です。お弁当を作ってもらって楽しんだのです。遠くに東北線の汽車が走って、陸奥(みちのく)への夢を膨らませたのです。旅が実現したのは21歳ドイツのワンダーホーゲルのお蔭です。国鉄で周遊券を発売したのです。

 いろいろ友と出会い・別れ味わい楽しっかった時代です。
 北海道の佐久間さん、京都の松本さん、まだ、電話もない時代に実家は東京の瓦屋と取引あったのです。
 しかし、相手と繋がるのに2間以上かかったものです。昭和36年ユニーに就職した当時でさへ電話交換士は花形の職業でした。

 お米は米穀通帳持っていかないと買えない時代です。結婚しても続いたのです。今では考えられない時代です。

 のどかな時代は20歳頃まで続き、法隆寺の5重の搭も登れたのです。中尊寺の秘仏・中尊寺も上屋もなく周りのガラスの囲いもない時代で須弥壇の天女の転写もでき、黄金文化を築いた藤原3代の仏像もまじかに見ることができ、上野の寄席は撮影OKです。柳谷金五郎・一龍齋亭鳳・お笑い3人組屋・森山加代子の写真も撮影しました。

 まだ、戦後の名残もあり、浮浪児がヒューム管で寝泊まりあったようです。(昭和30年代)上野で傷痍軍人がアーコデヨン引いいたんです。義兄の泉瓦店の近くの神田川の思影橋の袂に3m位の不発の不発弾があったのです。今は、撤去されました。

 東京の至る所に電気トロリーバスが走り、交通の足に成っていたのです。その後、地下鉄ができ、車の急速に普及し撤去されました。時代の流れですね。
 

私とカスリーン台風

2021.02.01 (月)

 昭和22年9月8日(1947年)マッカーサー統治下の元、英国風に台風名称が女性名でした。

 私は小学校上がる前の出来事です。私は井戸と釜土のの中庭に居ました。天気秋晴・快晴ででした。突然サイレンがけたたましくなり、大人たちは大水だ直感したらしく、東京に行った泉が「見てくる」と言って自転車で砂利道を飛ばしたのです。もちろん栗橋方面です。

 1時間くらいたって帰り、堤防が切れた。と言って、「まず水の確保」と言って風呂にを飲料水を張りました。蓋を閉め、板金やの作った温水器(太陽光)にも上げました。

 七輪、炭を二階の廊下荷揚げ、慌ててていました。仁平たちは中二階に仏様を上げたのでしょう。もちろん、茶器、布団もです。日用品を含めてです。
 泉さん夫婦は鷲宮小学校に避難したのかもしれません。

 食べる物がない。翌日当りと思うのですが、大木町長と母の弟『永田嘉平」が田船でおにぎり配ってていた記憶があるのですが、鷲宮と水深の境の川の「中川」で大水は止まったのです。
 子供だった私は戸板を縄で縛り、船頭気分で遊んでいました。
 水が引けて前沼の魚がいなくなり、雑排水の溝で魚が逃げ場を失い、捕まえた記憶があります。

 久男兄から聞いた話ですが、急いでさつま芋の収穫したのですが水につかった薩摩芋は「がりがり」です。でも、食べる物がないのです。

 大水は、ナイヤガラ滝のように1mくらいの高さで押し寄せるそうです。
 靑毛堀で一時間の余裕がができるそうです。

私の幼いころの思い出

2021.01.31 (日)

 私の母なる実家。
 それは広い土地でした。母は3反壱畝(1100坪)あると言っていました。町道から江川までと言っていました。
 向かい側にかって永田嘉平の家(母の弟)あり、当時の日本は長男相続でした。

 田口常次・江川の橋のたもとに鈴木庄店ありました東武線の鷲宮駅まで貨車で東京・鎌倉あたりまで瓦を出荷していたのです。瓦工場多かったために瓦耕地とも呼ばれておりました。
 実家(母やす)は永田嘉平が父熊太郎の死の間際に子供が多いからと言って、長兄の扇谷音二郎から相続財産をもらったそうです。

 後で判ったのですが、大正時代・半分は高橋医院より騎西から来町した時に借り受けたのです。良くは解らないのですが戦後、仁平は3文弁護士頼んで東側(現砂原小側)の渡辺ミシン工場と自宅を退去させたそうです。

 私達が寝起きしていた2階は、30坪くらいと階下が土練る工場があり、階段の突き当りにボトンのトイレがあり、階段上は3畳くらいの板の間・階下にモミ殻敷き込んだ「室」がってサツマ・ジャガイモ・玉ねぎが収納されていました。

 2階の踊り場は3畳ほどで布団の収納と茶器等があった記憶です。母やすは松崎文子さんという捨て子を育て、起居を共にしていました。
 無学ですが頭が良く私は勉強を教わりました。

 2階の奥は北側に2畳くらいの廊下・南は6~8畳部屋でした。そこに6人寝起きしてたのです。中二階の家と2階建ての間に物置と卓球台・風呂が有り、当時としてはこれでも良い方だったのです。

 仁平の住まいは、北西に仏様があって長兄が毎朝仏様を拝んでおt利ました。次が食堂で東側が土間の釜場でした。
 南西はトイレ・床の間付きの客間・上がり鼻・叩きののコンクリート床・電話がありました。ロボットのような大きい代物でした。境に神棚が祀ってありました。

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