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小学校に入学して

2021.02.01 (月)

戦中生まれの私達は貧しさのどん底でした。
 まだ、農耕馬が砂利道をのんびり歩いて、長閑な時代です。江川の脇に竹藪があって相沢馬喰(バクロウ)があって馬の爪を切ったり、馬蹄を打ち込んだらしていた時代です。

 毎朝、太田さんのおじいさんが藁ズトに入った納豆を笛を吹きながら売りに来たものです。

 私と言えば、毎日、母からこずかいを10円もらって、やっと口に入るっ鉄砲玉と金太郎飴とガラスの入れ物に入った手焼き煎餅、そのほか数点でした。しかし、子供にとって悩みながら買ったものです。
 今みたいに並んで登校する事なかったのです。でも、ガキ大将がまとガヤガヤ話しながらまめたものです。

 東武線の踏切あって、黄色・黒のバー上げ下げしていた物です。

 踏切の脇に相沢商店があって消しゴム・ノートを買ったものです。

 まだまだ下駄の時代です。下駄は中学卒業まで履いていました。
雪が降ると大変です。高下駄の歯の間につまり、取ろうと思って砂利道に突っかえると歯が折れて歩けないのです。仕方ないですが足袋で歩くと冷たくて泣きたくなります。

 校内は今みたいにスリッパがなく草鞋でした。そして、長い廊下を雑巾がけしたのです。私は寒がりで手・足にしもやけができ、私にとって廊下の雑巾がけは「地獄」でした。

コークスのダルマストーブは冬の教室のロウソクの明かりのようでした。周りを囲んでおしゃべりでした。
 小春日和の時は、西風避けて温もりを楽しんだのです。校庭はすぐにつむじ風巻き込みクルクル回り赤ちゃんの竜巻がアチコチ発生したのです。

 私たちの担任は関根先生と言って女性でした。4年に入って大学受験に失敗した。詰襟の高校生の先生でした。大熊先生と言って翌年は再受験で退職の時に私・小暮君・伊藤安子・間下紀久子さん誘って久喜町に行き、林写真館で記念写真撮ったのです。生存しているのは私と小暮君だけです。その時、初めてウオルトデズニーのカラー映画『ダンボ・禿山の一夜』驚きながら見てきまいた。

 当時は、ナトコと言って、視聴覚教育の一環と言って学校の校庭に筵が敷かれ白黒の映画でした。

 当時の学校は、木製でドイツ下見の近代建築です。屋根はひし形の天然スレートの感じです。

 校長は土屋先生です。写真を見ると下駄にモンペ姿です。

遠足は歩いて2キロくらいの大輪の松原です。お弁当を作ってもらって楽しんだのです。遠くに東北線の汽車が走って、陸奥(みちのく)への夢を膨らませたのです。旅が実現したのは21歳ドイツのワンダーホーゲルのお蔭です。国鉄で周遊券を発売したのです。

 いろいろ友と出会い・別れ味わい楽しっかった時代です。
 北海道の佐久間さん、京都の松本さん、まだ、電話もない時代に実家は東京の瓦屋と取引あったのです。
 しかし、相手と繋がるのに2間以上かかったものです。昭和36年ユニーに就職した当時でさへ電話交換士は花形の職業でした。

 お米は米穀通帳持っていかないと買えない時代です。結婚しても続いたのです。今では考えられない時代です。

 のどかな時代は20歳頃まで続き、法隆寺の5重の搭も登れたのです。中尊寺の秘仏・中尊寺も上屋もなく周りのガラスの囲いもない時代で須弥壇の天女の転写もでき、黄金文化を築いた藤原3代の仏像もまじかに見ることができ、上野の寄席は撮影OKです。柳谷金五郎・一龍齋亭鳳・お笑い3人組屋・森山加代子の写真も撮影しました。

 まだ、戦後の名残もあり、浮浪児がヒューム管で寝泊まりあったようです。(昭和30年代)上野で傷痍軍人がアーコデヨン引いいたんです。義兄の泉瓦店の近くの神田川の思影橋の袂に3m位の不発の不発弾があったのです。今は、撤去されました。

 東京の至る所に電気トロリーバスが走り、交通の足に成っていたのです。その後、地下鉄ができ、車の急速に普及し撤去されました。時代の流れですね。
 

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