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記事一覧

昭和の横浜のとっておこの風景

2012.06.09 (土)
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    ファイル 864-1.jpg
    今は懐かしくなってしまった井戸、しかも、竹ざおでくみ上げる
    井戸が横浜の磯子区にあったのです。
    当時でも、井戸は珍しかったので撮影しときました。
    今でもあったらいいなあ。とひとり悦に入っています。

    ファイル 864-2.jpg
    京浜急行で横浜から特急で1つ目の駅の「上大岡」駅から歩いて5~7ぐらいの最戸町のの風景です。
    遠方に見えるビルはプラントメーカー大手の日揮です。
    拡出してご覧ください。看板に株式会社イセサキと読めますよ。
    今は横浜上大岡郵便局があってすごい発展です。
    子供がザリガニ釣りをしていた時代です。
    忘年会時期になると「日本ユニカー」の社員が大声で歌を歌ったり、吠えたり、叫んだりしてうっぷんを晴らせた時代でした。
    私が神奈川大学の夜間に通っていたころの風景です。
    50年も前の風景です。
    駅前はリオというカレー屋さんと床屋さんとパチンコ店があるぐらいでした。

    ファイル 864-3.jpg
    横浜中華街の風景です。
    ざわざわしている風景は似てますが、通行人の足元をよく見てください。
    サンダルを履いております。
    ビルらしいビルはありません。
    よく見ると、時代を反映しております。

                               
    ファイル 864-4.jpg
    東京オリンピックの2年前の、性風俗の自粛された一コマです。
    この頃は、赤線・青線などの言葉場も残り、外国向けに
    セックス産業が徹底的に締め付けられ、今の「前菅総理の恩師市川房江」が健在でした。
    私なんか、貧乏学生のせいもあって、40円のラーメンを頼んで
    女性のヌードを見に行ったものでした。
    4~5人のヌードの女性が、テーブルの通路を踊りながら、
    注文を取りに来て、ウエイトレス宜しく運んできました。
    鼻の下を長くして、1時間ぐらい粘って、寮に帰ったものでした。
    性のはけ口のなかった時代です。
    その後オリンピックが終わって半年ぐらいたって、「売春防止法」も緩和され、「トルコ風呂」が現れてきました。

    ファイル 864-5.jpg
    横浜港の写真です。
    確か、韓国に旅行に行ったとき、飛行機の窓から撮影したものです。
    まだ、日本の海の表玄関が閑散としていた時代です。
    八幡製鉄と富士製鉄が合併して新日鉄になり「稲山社長」が「鉄は国家なり」と豪語した時代です。
    まだ、三池炭鉱、石狩炭田、常磐炭鉱などがストライキで労働組合が力を持っていた時代です。

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日本で原油が出た&昭和37年の秋田県の写真

2012.06.07 (木)

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昭和38年5月のゴールデンウークに周遊券の学割を利用して
東北周遊の旅に出た時のものです。
戦後13年しか経ていないときの写真です。
日本が欧米に追い付き追い越せと無我夢中で頑張った時代
なのです。
「貧乏人は麦を食え」と池田隼人首相が唱えていた時代なのです。
今こんなこと言ったら、内閣がすぐつぶれる時代ですよね。

日本が貧しく、1億総国民が耐乏生活に耐えた時代なのです。
東北地方から集団列車で就職に来た時代です。
「ああ、上野駅」はこんな時代を反映していたのです。

上野駅不忍口のところに集団就職の記念碑がありますよ。
一度日本の姿を見直す機会と思ってご覧になってください。

この時代は大学生はまだ100人に1人の時代でした。
日本人が希望にあふれていた時代です。
でも、こんな時代でも縁故就職が盛んだったんです。

60年安保からまだ後遺症の残る騒然とした時代だったのです。
三菱本社ビル爆破事件などのテロ事件がどこかで発生していた時代です。

また、一方ではオリンピックに向けて国民がつっぱした時代でもあるのです。

ファイル 863-1.jpg
日本も昭和40年ごろまで産油国だったんです。
秋田県に八橋油田が田んぼの中から石油が出たのです。
この写真が証明しております。

ファイル 863-2.jpg
原油の櫓が刈り取った稲田のあちこちに乱立しておるのがわかるでしょう。
こんな写真今では撮影不可能です。

ファイル 863-3.jpg
この写真がなぜ珍しか解りますか。ビデオでなくて8mm映写機なんです。
ズームレンズがなくて、固定レンズをカチャカチャと回して撮影するのです。映画のフイルムで8mmの幅の映画と思ってください。
映写機がないと見られないんです。
私が20歳の時の写真です。50年前の写真です。
                           
ファイル 863-4.jpg
男鹿半島の寒風山を降りた所にいた漁師さんです。
お願いして一緒に撮影させてもらいました。
今、こんな漁師さんいませんよね。
釜みたいなものでひっかけての原始的な漁法なんです。
解りますか。

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雨漏り奮闘記 あなたならどうする。ギリシャの金融危機を

2010.05.01 (土)

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  雨漏り奮闘記 あなたならどうする。ギリシャの金融危機を
   他山の石と思いますか。 
今、日本の国民はギリシャの金融危機を他山の石のようにほとんどの方が思っている。

此処に4/27付けの元経済企画庁長官を務めた、堺屋 太一氏の寄稿文を掲載致しました。
この寄稿文をお読みになってどう思うかは自由ですが、この状況下で日本は長期プライムレート上がり、国債の償還がますますおぼつかなくなるのです。

今、日本の預貯金高1400兆円に支えられて、国債金利は1%台に押さえられておりますが、我々(小生68歳の老人です)の年代の預金残高が減少して、海外の資金を受けなければならなくなった時、
ギリシャのように金融危機が訪れるのです。

現実に日本であった戦時国債の話を致します。
償還期日が昭和30年代戦時債の事です。 
戦時国債は戦争で財政危機に陥った政府は昭和17年から終戦の昭和20年まで大量の国債を発行したのです。
額面の金額は15円です。しかし、購入当時の庶民の月給は8円と聞いています。
我が家の妻の祖父がせっせと貯めたお金を、妻、子供、孫の為を思って、あるいはお国の為と思って購入したことでしょう。

戦争に負け。終戦を境にして、日本経済は、今でいうハイパーインフレに見舞われ、国民の生活は困窮し、スリ、カッパライ、米泥棒、そして、この鷲宮町、いや、近所で強盗があったのです。

自殺者、電車の飛び込み、入水者なども多発し、今と同じく『大学は出たけれど』の歌謡曲が流行したものでした。

とくに、この地方は昭和23年カスリーン台風に見舞われ、利根川の決壊で、大水に見舞われ(栗橋から八潮市までの全域が水害にあった)
その時の悲惨さは幼子心の片隅に記憶しています。

おふくろが言っていた。今の換算ですが、闇米60KG(1俵)150,000円になったそうです。
いくら高くても、食糧はかわなければ飢えてしまいます。
今みたいに「何でも売っている」わけだはなく、蔣油、油、お米
なんでも配給です。
『米穀通知書』を持参しないと安いお米は買えなかったのです。
配給で支給量が決まっていて、ヤミ米を購入しないと生きていけなかったのです。
都会のサラリーマンは特に公務員は生活が困窮して、正直な裁判官は、自分は法を守るものとして、法を犯すことはできないと言って
『飢え死』をした方がいたくらいの世の中です。
想像できますか。私たちが結婚した当時は、まだ、『米穀通知書』が生きていました。

当時、私の実家の家族は3所帯で、乳飲み子を含めてですが、10人の家族です。
当時の食事は粗末で、おかずは味噌汁、香の物、それに納豆ぐらいで、病気になってやっと卵が食べられるくらいでした。

当然お米はどんぶり2杯から3杯でした。
お米のヘリが想像できるでしょう。

もうひとつの記事を読んでください。空恐ろしくなるくらいです。

私たちの年代、つまり昭和18年以前の生まれ(実は私は昭和17年生まれ)の国民は生涯で年金、医療費等で4,875万円の税金の還付、つまり国からお金がもらえるのです。

ところが、昭和60年以降に生まれた、今25歳以下の若者は、
子供手当は結婚して子供が誕生すれば、月額26,000円支給されます。(2人の子供で15歳までに936万円支給されます)生涯に返済する国債の借金は、なんと、4,585万に膨れ上がっているのです。

若い世代の国民は、なぜ、国民に優しい、つまり、欺瞞に満ちた『民主党政府』を支持するのだろう。

我々は、得をする年代が心配して、損をする年代が政府に対して 怒りを爆発させなければならないのです。
そう思いませんか。このブログをお読みになっている方からのコメントを受け付けます。

どうする日本!。 このままでいいのか。                                           
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平成天皇ご成婚50周年を祝して

2009.04.11 (土)

おめでとうございます
ご成雨漏り奮闘記 平成天皇誕生からご成婚
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はるかな私の記憶の中から探しました。
古びた箱の中に「皇太子ご結婚記念特集」という読売新聞社発行の
新聞の号外冊子を見つけ、その写真をスキャナーで取り込み
掲載することにしました。

それはそれは、明るいびっくなニュースでした。
国民のみんなが喜び、春4月10日桜の花も祝福し、それまで散るのを堪えていたかのように、当日は春満開の桜の花の祝福も受けているようでした。

当時高校生だった私達は、授業をそっちのけで、ラジオのアナンサーの実況放送に聞き入ったものでした。

明るい、温かな春の絵巻物でした。

美智子さまの清楚なテニスフアッションがブームを起こし
テニスのブームが起こりました。
高校生のあいだでテニスを始めた人も多かった記憶がわいてきました。

帽子のお似合いの美智子さまにならって、ミッチーブームが起こり
美智子さまのフアッションが雑誌のグラビアを飾ったものでした。

当時ご実家の正田家で初任給が7000円から10,000円の時
ご結婚の支度で一億円かかったといわれております。

私たちの記憶では美智子さまは皇太子さまの心にほだされ
ご結婚を決意為された、国民の祝福に彩られたご結婚でした。

ご成婚を祝して
    皇太子殿下に捧げる詩    サトウ・ハチロウ

皇太子殿下
ひたむきなあなたでした
一筋に思いを込められたあなたでした
そうして それをつらぬき
今日の喜びの日を
おむかえになられたあなたでした
ボクはあなたに
お喜びを申し上げると同時に
拍手をおくります
拍手といっしょにおめでとうを言います
大きな声でもうしあげます

皇太子殿下
ボクはあなた方のこのよき日をお祝いして
いくつかの詩をつづりました
「一人でいるより二人は楽しい」とか
空のコバルト 緑の松が
映るお堀にスワンが二つ という詩句で
はじまる「お二人音頭などがそれです
それはいま又ここで
歌をささげることができる幸せでいっぱいです
僕はこの国の永遠の栄を
いつも心から願っているものです

ファイル 180-1.jpg
お馬車から祝福の国民にお手を振られる皇太子ご夫妻

ファイル 180-2.jpg
賢所・結婚の儀を終えられ古式盛装の皇太子さま

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厳かな結婚の儀を終えられ十二単衣もみやぶやかな美智子さま

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朝見の儀を終えられた皇太子ご夫妻 宮内庁玄関前にて

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皇太子様・浩宮様とご一緒に館林市のご実家の正田家に里帰りの美智子さま

結婚50周年、美智子さまも正田家より嫁がれご苦労様でした。
太陽光を推進しよう会の「 新瓦博士」

コメント一覧

kizaki URL (06/15 09:53) 修正

若いときの働く様子 新しい機器の導入と紹介
皇室の写真 京都でのだんらんの様子 よくわかりました
私の励みにもなりましたよ
 ずいぶん精力的に活動していますね
 今後も続けると思いますが 健康には注意して
生活してください お便り度々受け取りました
 木崎より 埼玉県 騎西町外田ヶ谷929-3
          0480 73 4827 

平成天皇誕生からご成婚

2009.04.11 (土)

平成雨漏り奮闘記 平成天皇誕生からご成婚
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皇太子様(平成天皇)満1歳の誕生日

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成人式を迎えられた平成天皇

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みっちブームを起こした私が16歳(高校2年4月10日)美智子さま
帽子がお似合いの美智子さま。すごいブームでした。

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軽井沢でテニスがご縁の美智子さま
民間から皇室に嫁がれて、当時すごい景気の推進役になり、
ご実家の館林市までの国道122号線は美智子道路といわれました。
砂利道だった122号が舗装されたのを覚えております。

テニスのファッションがブームを起こしたのを高校生の私は
鮮烈な記憶がよみがえっております。

ファイル 179-5.jpg
皇居前の祝福に訪れた大観衆の国民にお馬車より笑顔でお手を振る
皇太子ご夫妻。
このご結婚をTV(白黒TV)で見ようとTVが爆発的に売れ、日本の
戦後の自信喪失に新しいうれしい風を起こした出来事でした。

*****************************
日本の天皇家、我々より上の方、80歳以上の方にとっては
畏敬の存在でした。

もし、あの終戦のとき
天皇陛下は東京を離れることなく
労苦を共にされ、マッカサーとの会見の時も
自分の身を顧みず、日本国民を助けていたでけるよう
当時、現神であった己を「人間天皇に宣言」され
刑の執行さえも顧みませんでした。

そんな時代の昭和27年11月10日現在の平成天皇は
立太子礼・成年式が国家をあげてのお祝いを受けられました。

私10歳の時でした。
皇太子さまの成年式・立太子礼記念「皇太子さま写真大画報」
妙義出版社発行「太陽少年」12月号の特別付録から掲載致しました。

自分ながら57年前の写真集をよくこんなにも
保存していたものと感心しております。

この物持ちが良いのが、なんでも鑑定団に出した密おれ人形かもしれません。

また、先にアップした「私は貝になりたい」の「フランキー堺」の
映画のチケットの半券かもしれませんね。

子供のころ、時代が貧しく、何でも取っておけば
「いつか世に出る」そんな教えを、泣きお袋から自然に
会得したのかもしれませんね。

子供のころ、鼻水たらして遊んだ記憶が
今脳裏をかすめております。

話はかわりますが、平成天皇は誕生日がくるたびに
戦争を意識させられております。

アメリカは残酷なまでに天皇家を戦争と結びつけました。

東条英機をはじめとする1級戦犯を皇太子誕生の日に合わせ
「極東軍事裁判所」のキーナン判事は絞首刑を確定したのです。

時、昭和23年12月23日皇太子様(現平成天皇)15歳の誕生日に永久戦犯の絞首刑が確定した日でした。

そして、翌昭和24年4月29日元天皇誕生日に絞首刑が執行されました。

絞首刑とは本人から、人間としての威厳・尊厳を剥奪した
刑に執行です。

このブログを書いてる時に日本では「田母神氏」の論文を無視、
ところがアメリカ在住の日本人3世、2世が彼を招聘して
講演をすることが決まったと報道されました。

日本人は本当に侵略戦争と思っているのですか?
当時20代の若い青年が志願して戦争に行きますか。

大東亜戦争という言葉がアメリカのマッカサーの命令一つで
教科書から消えたこと知っていますか。

昭和20年前半までアジアはアメリカ、欧州の植民地だったこと知っていますか。

大東亜戦争は田母神さんの言うように植民地解放の戦争でした。
私の同級生に「建亜さん」がいます。
お父さんは「正義の戦争」を信じてお付けになったと思います。

私の妻のお父さんんも「正義の戦争」を信じてフイリッピンで
戦死しています。

戦争は悲惨で辛いものです。
平和は大切にしなくていけません。

真実を知ることも必要かともいます。

もちろん、先の戦争がすべて正義とは思っておりません。
統治した台湾・朝鮮・インドネシア・マレー半島の国々に
心まで支配しようと言語・宗教まで強要した事実は忘れてはいけません。

少し書きすぎました。
申し訳ありません。
この不況をがんばりましょう。


太陽光を推進しよう会の「 新瓦博士」
天皇ご成婚50周年をお祝いして

東京オリンピックの追憶

2008.12.09 (火)

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雨漏り奮闘記「東京オリンピック」
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昭和39年10月10日~25日に開催された東京オリンピックは日本を「戦後後は終わった」言わせたほど、日本人の心に深く刻み込まれました。

昭和35年内閣総理大臣池田隼人は、オリンピック開会式に参列して、閉会式の翌日辞任しました。              
そんな彼が「貧乏人は麦を食え」と。
そして、佐藤栄作の長期政権が角福の両輪の中で誕生いたしました。

そんな世相の中で、オリンピックは昭和天皇の開会宣言・
 小野喬選手の選手宣誓で15日間の幕を開けました。
前日までの雨が嘘のように絶好秋晴れでした。

オリンピックによって日本国民はひた走りに国際舞台にと踊り出ました。
当時私は多感な青年でした。

どうして、こんなに鮮明に東京オリンピックが記憶の中にあるのか?
それは6年前のアジア大会のむなしい思い出が重なるからです。

私の悪友福田と一緒に「アジア大会」を前売りチケットなしで出かけました。
 高校生の世間知らずも、今から思えば程があったのでしょう。

競技場の周りをあきらめ顔で回り、観戦できなかった思い出にと、「揃いのアルバム」購入しました。
東京オリンピックはどうしても見たい。

その様な気持ちで、私はオリンピックを迎えました。

私はサラリーマン、会社は日米の合弁会社。
当時最先端の石油コンビナート・高圧ポリエチレンの会社員でした。

アメリカ人の役員も多数一緒に勤務しておりました。
会社で接待のために大量のチケットをまとめ買いをしており、人気の「陸上競技」「体操」「バレーボール」「ハンドボール」「水泳」などは招待客に配られました。

 残ったチケットが抽選で社員に配布されました。

私が当たったチケットは「柔道」と「近代5種のクロスカントリー」でした。

 当時柔道は勝って当たり前、そんな空気の中で広島の「姿三四郎」こと、中谷雄英選手は全ての試合を1本勝ちで勝ち進み、柔道で最初の日の丸を揚げ、厳粛の中に君が代が流れ、
IOC会長ブランデージ氏から金メダルを授与されました。

他の2階級も金メダルでしたが、無差別級の神永選手がオランダのヘーシングに僅差で敗退した時は、武道館に詰め掛けた15,000人の観客からため息が聞こえました。

そしてメデアも大きく「日本柔道敗れる」と報道しました。
別のメデアは「日本柔道、世界の柔道になる」と報道しました。

 良い悪いは別にして「加納治五郎」が起こした柔道が柔術からスポーツ柔道として世界に広まった証でした。

柔道が世界での競技で正式種目に成った日でも有った訳です。
そして、世界柔道連盟は「柔道」を「加納治五郎により創設されたものを柔道と認める」と言う一文が規定されております。

私もTVで観戦し無差別級の試合に、ため息をついた記憶があります。

その他にも大松監督率いる「東洋の魔女」の回転レシーブを手に汗を握り、TVに噛り付いて観戦した記憶があります。

また、男子体操の個人総合の遠藤幸雄選手・男子団体総合での日章旗を心温まる思い出の中でTVを観戦しました。

心躍る東京オリンピックの映画(市川 崑監督)の撮影手法にも私は敬服、今、自分も知らぬ間に市川崑監督の撮影手法を真似ていることに気付く事があります。

それほど感銘を受けたものでした。

そして、なんといっても圧巻はエチオピアの軍人アベベ選手の
ローマ・東京と二度の金メダルでした。
アベベの「もう一度走ってこられます」の言葉に日本国民驚いたものです。

 遅れること2位3位争いののデッドヒートで敗れ、代々木の陸上競技場に現れた円谷幸吉選手は、万感の拍手で迎えられました。

私はマラソンを、当時恋人だった金子さんと一緒に、調布の郵便局の折り返し地点で撮影しておりました。

その時の記憶では、マラソン選手の走行スピードは自転車で走るスピードであるのに驚かされました。

私の中では東京オリンピックは夢と感動の思い出でした。
それは、日本人が世界に羽ばたく瞬間だったのでしょう。

そして今の世相と違い、努力すれば誰でも夢が持て、希望に溢れ時代でした。

懐かしいあの頃と、青春を取り戻せたらと思いつつブログをアップしました。

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