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甦る後鳥羽上皇の水無瀬離宮建物跡か

2010.04.02 (金)

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  雨漏り奮闘記 、『たかが瓦の破片、されど時代の考証人 瓦の破片』

平成22年1月23日付けの新聞から、『たかが瓦の破片、されど時代の考証人 瓦の破片』 後鳥羽上皇が造営されたといわれる、鎌倉時代前期の(12ー13世紀)物とみられる瓦の破片が600点大阪府島本町の広瀬遺跡あとで出土した。

我々、瓦屋の職業柄、蓮華紋を想像する。連弁はどうだろうかと思いをはせる。

日経新聞には、瓦の瓦当の直径が小さいことから、瓦は部分的に使われていたのではないか。
おおかたは、鎌倉の禅寺五台同じく茅葺が主体で、下屋根に使われていたものと論評してます。

あの新古今和歌集撰者の藤原定家も招いた水無瀬離宮跡と発表している。

瓦の瓦当は時代によって文様が違い、また平部に使われる桟瓦は、櫛引、布目、剥離剤の種類によって時代を細分化できるものです。

だから、私にとって瓦は切っても切れない想いの一つかもしれない。

幼いころから、瓦の中で育ち、瓦の中で勉強をし、九九を覚えたのも瓦を細工する作業場の火壺と呼ばれる周りでしたものだった。

そして、いろいろな大人の話も瓦職人と一緒に入る湯船の中で教えられた。

そして、今の自分があるのだと思う。                                           
ファイル 413-1.jpg


                           

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 雨漏り奮闘記 火事と喧嘩は江戸の華 瓦どんな役割をしただろう?。

2010.03.24 (水)

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  雨漏り奮闘記 火事と喧嘩は江戸の華 瓦どんな役割をしただろう?。

安土桃山時代、信長の安土城、秀吉の建立した大阪城、伏見城なども権勢の誇示の為に金色瓦が葺かれた。

そして、家康が江戸に幕府を築き、各大名に江戸屋敷を持たせた。
しかし、戦国時代普及した、瓦を財力をつけた、豪商たちが瓦を葺くようになった。

そんな中、幕府は瓦を使用することを禁止した。
豪商たちを権力で抑える目的と、『一国一城令』だし、諸大名の権勢を抑える政策に出た。

そして、『武家諸法度』『参勤交代』などの制度を発布して、
その参勤交代による消費活動で、商家も増え、江戸の人口も
世界有数の人口を有するまでになっていった。

瓦禁止令の為、広大な屋敷を持つ、大名屋敷は森に囲まれ、
江戸の大火といわれる明暦の振袖火事などを除いて、さほどの被害はなかった。

ところが、庶民のしもた屋、商家は家がひしめき、いったん火事になると、大きな被害を出し、また、消火活動の時、重い瓦の落下塔のため、被害が拡大した。

そんな中で、火災を防ぐ目的で、わら葺き、カヤ葺きの屋根の上に粘土などを置いて、燃えにくくしたが、本来の屋根の目的の、雨漏りは拡大した。

禁止令の中で、板葺・杉皮の屋根が増えていった。
庶民の知恵が、今でいう民活によって、平部の瓦のみを使用した、
『火除け瓦』普及していった。

これにより、火事と雨漏りが減っていった。
近江の瓦工人『西村五兵衛』その噂を聞いて、江戸に赴き
当時一般的だった本葺き瓦(現在神社・仏閣に使用されている重厚な瓦)より、軽くふきやすい瓦は出来ないかと、考えた末、
現在私たちが使用している瓦の原型の桟かわらを考案した。
                                            
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社寺仏閣で使用されている、重厚な本葺き瓦
大名屋敷の屋根はは本葺きで施工されていました。

ファイル 403-2.jpg
お城の代表格、姫路城
5人の大名の定紋が見受けられます。

ファイル 403-3.jpg
現存している金箔瓦(軒瓦が燦然と輝いています)
広島県の安芸の宮島の千丈閣。秀吉の死後完成することはなかった。
現在重要文化財です。内部は未完成。


                           
ファイル 403-4.jpg
近江瓦工人『西村五兵衛』が考案した現在の桟がわらで施工されたちょっと変わった瓦です。
飛騨の高山で見かけたので撮影してきました。
楠木 正成の菊水の紋が見受けられます。

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雨漏り奮闘記 たかが瓦紋・でもバカにできないね

2009.08.12 (水)

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  雨漏り奮闘記 たかが瓦紋・でもバカにできないね                                                                       
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瓦当(軒巴)に羽を広げた下向きの鶴が描かれ鐙瓦          雉と思われる文様が刻まれた軒平瓦(韓国 慶州)

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良く分かりませんがシンメトリーの鐙がわらと何か威厳のある  軒平瓦の文様(韓国 水原)

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秀吉が建立した安芸の宮島の千畳閣の瓦。
良く見ると「王」の字が刻まれています。
関白として権勢をふるった秀吉が「明国」を意識して瓦当に
刻ませたとしても不思議ではないと思われます。
秀吉は後世に「日本国」のを王は自分であると伝えたかったのかもしれません。

瓦が語る面白い推理ですが、あながち外れているともいえないと思っております。

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雨漏り奮闘記 瓦の文様「こんなにあるとは」

2009.08.12 (水)

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  雨漏り奮闘記 瓦の文様「こんなにあるとは」

瓦の文様、皆さんは今まで瓦について気にも留めなかったことと
思います。

ところがです。見上げてごらん。屋根がわら。
捨てたもんじゃございません。

まず学術的に価値があるものが非常に多いものです。
古事記・日本書紀などの古代のの書物に記載されている
事実の最初のきっかけは、お百姓さんたちが 
農耕の邪魔な瓦の破片をどかしていて
「おやっ」と思う変わった欠片の発見から始まり
書物、口伝の情報集めになるのです。

そして、歴史の先生、博物館の職員、考古学者、そんな順序に
噂が伝播して、思いもかけない発掘と成ることがしばしばです。

日本書紀によれば百済より4人の瓦博士(麻奈父・奴陽貴・文陵貴・文昔麻帝弥)が渡来した。
また、2人の寺工も渡来した。

そして曲尺も一緒に渡来して伽藍の造営が蘇我寺の建立をきっかけに平城京のあちこちに伝播したのでしょう。
仏教文化の開花と共に瓦の生産も向上したはずです。

「天平の甍」と言われるように華やかな都大路を作ったことでしょう。

そこでです。我が国の軒先を飾る瓦を「瓦当」とか軒瓦と言いますが、日本の「瓦当」は蓮の花をデザインしたものが非常に多いです。

なぜ、この疑問がわいてきます。
きっと、それは仏教文化と二人三脚で伝播した由来と考えられます。

蓮の花「蓮華」は仏教ではお釈迦さまが蓮華の上で瞑想する
絵が多く、極楽浄土を表していと思われます。

時代が遡ると蓮華紋は
一重の花びらが描かれている単弁の文様が多く、
時代が下るにつれて連弁の蓮華紋が多くなります。

同じ蓮華紋でも、木型による制作なものでしたので、
すぐ擦れヘリ、需要が多くなると粗製乱造になっていったのです。

職人の意地よりいつの時代のお金が先だったのでしょう。
仏教文化の貴族社会から武士の台頭とともに
神道文化(例えば八幡太郎義家の八幡社)の浸透で
瓦当も蓮華紋から巴紋に移行していったのです。                                                                  
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常陸の国の国分寺出土の鐙瓦と瓦当

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武蔵の国分寺の単弁の蓮華紋(上)
武蔵国分寺の素弁の蓮華紋(下)

ファイル 275-3.jpg
我が家の軒瓦紋
(上)単弁と思われる蓮華紋
(中)我が家で一番年代物の瓦当
 昭和41年韓国慶州の土産物屋さんで購入した連弁の蓮華紋
 まぎれもない出土品です。高杯・須恵器は釜山の税関で没収されました。残念・・・・・。
中山競馬場の所にある法華経寺の桔梗紋(軒瓦)

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梵字の刻まれている瓦当と花模様と思われる鐙がわら

ファイル 275-5.jpg
蛇の目と言われるシンプルな文様
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雨漏り奮闘記 瓦の文様「こんなにあるとは」

2009.08.12 (水)

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  雨漏り奮闘記 瓦の文様「こんなにあるとは」
                                                                       

唐獅子と思われる瓦当紋に蜂の文様と思われる鐙瓦
四川省成都の武師候にて

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天を仰ぐ鶴の瓦当と龍の鐙瓦

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2種類の花模様にある慶州で見た幻の入母屋の屋根
韓国慶州にて。
どちらか修理のため補足したものです。

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 雨漏り奮闘記 瓦は応仁の乱で見直された。

2009.08.11 (火)

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  雨漏り奮闘記 瓦は応仁の乱で見直された。
室町幕府・8代将軍足利義政の時、守護大名畠山氏の家督争いの調停に失敗した幕府の力が弱まり、その紛争が細川氏と山名氏の守護大名の争いになり、全国に波及して行った。          
いわゆる「応仁の乱」「文明の乱」の拡大が端を発して、戦国時代にと入って行った。

戦乱で焼けた京の都の再建に、都から戦火逃れて旧都奈良に逃れた
貴族たちが、租界をきっかけに瓦の良さを見直し、茅葺き・板葺きから瓦屋根に移っていった流れも自然の流れっだのでしょう。

そして、今日に残る京の町屋の風景の基礎が少しずつ形成されたのでしょう。

そして、瓦は火災に強く、耐久性があることが実証され、遷都後営々と受け継がれた瓦の技術が復活した。

戦国時代は城という戦国大名にとって必要不可欠な要塞の性格がまして、火災に強いことが求められ、瓦の需要が急増した。

各地に建立された国分寺・国分尼寺の瓦職人たちも、研さんを重ね瓦の技術と良質な粘土も開発されたことでしょう。

信長の安土城は瑠璃色の瓦が天守閣に輝いていました。
その事実は出土の瓦の破片からもうかがわれます。

そして、城は戦火の拡大と共に日本全土に築城され、技術移転も拡大したのでしょう。                                                                                                                                                                   
ファイル 274-1.jpg
夏目漱石の坊ちゃんで有名な松江城

ファイル 274-2.jpg
桜の名所 弘前城

ファイル 274-3.jpg
確か鵜城と呼ばれている岡山城

ファイル 274-4.jpg
一時織田信長の厳父信虎も居城にした言われている犬山城
昭和30年代まで個人所有のお城だった。
ファイル 274-5.jpg
天下一の名城「姫路城」・一名白鷺城ともいわれております。

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雨漏り奮闘記 消えた瓦がなぜ甦ったのか?

2009.08.09 (日)

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  雨漏り奮闘記 消えた瓦がなぜ甦ったのか?

平安京から消えた瓦がどうして甦ったのか。
平安時代、瓦は暗黒の時代を迎た。              もちろん 平安時代は日本と中国の交流も           
消えてしまった時代でもあったのです。

鑑真和上の話を記憶からたどって頂くと、
お分かりになると思いますが、日本と朝鮮半島の交流が
無くなり、また、鑑真和上のように、当時の海上交通は
危険極まりない状況で、命を落としてまで、
中国の先進技術、文化を吸収せずとも
日本の政治体制、技術・文化が非常に高い
水準に達したことを意味したのでした。

平城京・平安京の律令国家、条理の都市建設・仏教文化
どれをとっても日本は高い水準の国作りが
完成しかかっていたのでした。

阿部中麻呂のように、望郷の念に駆られながらも
かの地にて官職を得て、帰国がかなわぬ事態も発生した。

膨大な国家予算と優秀な人材を、嵐によって海に飲み込まれた
例は数限りなくあったのでしょう

そして、遣隋使、遣唐使と引き継がれた朝貢的な交流は
無くなっていったのです。

このような状況下で、国分寺、国分尼寺で花開いた瓦も
自然消滅したのでしたが、
東大寺などの技術者集団と地方の良質な粘土に
恵まれた地域にのみ、細々と瓦の技術は残ったのでした。

頼朝幕府を開いた鎌倉では、禅寺五山と言われた
武家の寺々も、古刹を訪れてみると
茅葺の本堂、鐘楼、庫裏が眼に入ってきます。

しかし、良質の粘土に恵まれた、武蔵の地に瓦は伝承され
現在に行ったて居ります。 
それが現在の武州瓦の起源になったのでしょう。                                                                     
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茨城県坂東市の平将門を祀った国王神社
鎌倉で撮影した写真がフイルムなので、仕方なく挿入致しました。
今から三五年ぐらい前に撮影したものです。
茅葺きで屋根は施工されています。

ファイル 272-2.jpg
大河ドラマ「風と雲と虹」の舞台となった平将門ゆかりの
お寺です。

ファイル 272-3.jpg
妻光子、長男芳光、次男剣、三男晋の幼かった頃の国王神社にて撮影
今、三人の子供たちも家庭を持ち、子宝に恵まれています。
幸せ万歳。

太陽光を推進しよう会の「 新瓦博士」

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