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ダモルテスの駅舎の木製の椅子

2017.09.30 (土)

ダモルテスはマニラか220km離れた駅の終点で、日本軍は兵站・陸軍兵のほとんどをマニラ港から輸送したのです。
逆にリンガエン湾から野砲、高射砲、弾薬などは搬入されたのです。
バギオに司令部を置いた山下奉文はリンガエン湾を利用し、馬車を使い陣を敷いたのです。
ダモルテスは、ラウニヨン州にあって、スペイン統治時代いかに重要な都市だったか駅舎のすごさから読み解くことができます。スペインは室町時代末期から江戸時代の安政・嘉永などアメリカが日本にやってきて通商条約を迫っていた時代まで統治していたのです。
同時にアメリカは、ミクロネシアの島々と同じく、フイリッピンの統治に手を伸ばしたのです。
マゼランは世界一周の航海で「胡椒」の島として、欧米に宣伝されのです。
そして、マゼランはフイルッピンの滞在中、フィリッピンの部族長を欺き、スペイン王のキリスト布教拒否され、殺害されたそうです。
世界一周の航海で、脚気、食料不足、航海放棄、マゼランの死、同僚同士の争いで、スペインまで帰還した船はたったの2隻だったのです。

ダモルテスの駅舎は屋根は第二次大戦の機銃掃射で飛ばされたものの、DAMORUTESU文字や橋脚はアーチを描き素晴らしいのです。このダモルテスの駅舎も今はフイリッピン政府から払い下げられ、数人が修復して暮らしていました。
線路は取り除かれ、元駅舎の頑丈な椅子に座りながら、秀子さん
が住居人のひげを生やした初老の話しによれば、宗春も、もしかしたらこの椅子に座り、一時の休憩をしたかもしれないと言うことでした。
すごく頑丈な椅子を光子は、買い求めて、自宅に置き父の思い出にしたかったと帰宅してから私に話したのです。
光子にとって、父の思い出は、父自身が彫った「判子の朱肉を入れ容器」しか今は残っていないのです。
秀子さんの説明によれば、日本からの戦友の遺骨収集団、慰霊の旅に訪れた戦友達が立ち寄ると「これだ、これだ。変わってない」しみじみ思い出にふける光景が目にされたそうです。
私たちが訪れたダモルテスの駅舎は、夏草が生い茂っておりましたがそれは素晴らしく絵になっていました。
このような姿を凛としているというのでしょう。
秀子さんが私たちにプレゼントした、宗春の思い出にひったった「心に残る慰霊の旅」のでした。

慰霊の旅で知った義父宗春とダイエー創業者中内功氏

2017.09.29 (金)

日本軍は石油を求めて、インドネシア、仏印(フランス領インドシナ)
マレー半島に進出するためには、どうしてもシーレーンを確保しなければならなっかったのです。
日本軍は、本間中将指揮下の兵士とアメリカのマニラ市の無防備都市宣言で、無血開城の状況でした。
アメリカは、マニラ市内の市民に対する被害を最小限に抑えるために、総督マッカサーの選択した軍事作戦でした。
日本軍は、最初の思惑以上に戦況は良く、マッカサーが司令部を置くバターン半島沖のコレヒドール島に戦闘は移ったのです。
米軍は飢えとマラリア、脚気、赤痢に悩まされ、ついにマッカサーは「アイ・シャル、リターン」の言葉を残して、再起を図ったのです。
このような戦争の中で、義父宗春は体が弱く丙種入隊、ダイエーの創業者「中内功」氏は普通の人と違い心臓が右側にあったので「内臓逆位」と診断され、陸軍2等兵として入隊し、フイリッピンにおいて、第4大重砲隊に配属されたのです。
。多分、呉軍港から輸送船に乗船したのでしょう戦況が差し迫った昭和19年に戦地に赴いたのです
母幸子は光子を連れて、2等列車に乗って、2日間かけ呉に行ったと聞いております。
母にとって、夫宗春との長女「光子」抱かせる最後のひと時だったと思います。そして、宗春は帰らぬ人となったのです。
私たちが、2010年8月訪れたのです。
宗春は昭和20年1月に米軍の艦砲射撃には助かったものの3週間足らずで病死または機銃掃射の前に戦死したのです。
ダイエーの中内氏は非常に強運の人です。
もう20年以上前に読んだ「松下とダイエー」の本の中でロシアンルーレット(拳銃に1発の銃弾込めて引き金を引く命を懸けた「懸け」をやった人物です)をやったのです。
また、当時松下は販売店、消費者、メーカーが皆幸せになることを常に意識した人物です。一方やダイエーは豊富な物流、安さを売り物に当時の流通革命を起こしたのです。そして、日本人が豊かになった実感を持ったのです。その後、日本は価格破壊と進み、今になっては豊かさが薄れてきたのです。そして最近なって松下とダイエーは和解したのですが、今はイオンの傘下に入り名前まで消滅したのです。
フイリッピンの戦闘において、中内氏は最後まで戦い、高射砲が破壊され、陸軍と海軍の混成部隊に再編成され、歩兵部隊と合流したのです。山下奉文大将が9月3日降伏文書に調印までバギオの山岳で中内氏は歩兵部隊のみんなと日本のために生きて期せずと武士道を貫いたのです。

バターンの死の行軍。マッカサーの見せしめ。

2017.09.29 (金)

マニラの空港から市内の繁華街を抜け、大西中将が、最後の日本を救う死をもって、立て直す神風特攻隊基地、マバカラマットの特攻基地があったのです。少し車で走ると国道沿いにバターン「死の行軍」のブロンズの大きな像があるのです。
サンフエルナンドからマリベレス捕虜収容所までの88km傷病兵まで、行軍を真夏のフイリッピンで強行させたのです。
ブロンズ像は、アメリカの捕虜兵隊を銃剣の銃把でコズク姿、土足でけるしぐさを表しているのです。
賛否両論ありますがマッカサーのタテ籠るコレヒドール要塞が陥落し、マッカサーは米兵に対し決して降伏するなと言い残し、アイ・シャルリターンといって去っていったのです。
米兵は飢えとマラリアと傷病でさんさんたるものでした。
日本の指揮官たちは投降兵は25,000人と見込んでいたのですが、米兵の投降兵は75,000に膨れたのです。日本軍には投降兵の人数の見合うだけの運送手段がなく、徒歩の行軍しかなかったのです。1時間3キロの行軍として1泊しているのです。戦後日本のジャーナリストが歩いたのです。そんなに無理な行軍でなかったそうです。傷病兵や体力が衰弱した米兵と違いますが。
これも、アメリカのプロバガンダという人もいます。私には事実は解らずじまいで添乗員の秀子さんも教えてくれませんでした。
もちろん、マラリアに掛かった米兵・衰弱した米兵にとっては死んだ兵もいます。
それで、バターン「死の行軍」と私たちは教えられたのです。
マッカーサーは私たちが思うほど人情家ではありません。
それは、日本兵が最後まで集団で戦ったバギオ戦の700人を超える投降兵の扱いです。正に「目には目をです」
マッカサーの復讐はフイリッピンにおいて、父親「アーサーマッカサー」「ダグラス・マッカサー」と2代にわたるフイリッピン総督者です。その恨みもあったのでしょう。
もう一つの「死の行軍」です。山下奉文総司令官が投降し、降伏調印した昭和20年9月3日がフイリッピン部隊の終戦なのです。
フイリッピンの最高峰ポログ山2300m周辺を死守していた700名あまりの将兵にバターン「死の行軍」と同等の55km(山岳地帯の険しい山道)マラリアの傷病兵、機銃掃射の負傷兵、飢えで衰弱した兵まで、水一滴、食料も与えず、9月の熱帯フイリッピンを歩かせたのです。
しかも、寝ずの行進です。死者が出ようとお構いなしの行軍です。
戦争の残酷さ、非情さなのです。
そして、戦後昭和49年マバラッカト生まれのデイソン画伯が神風特攻隊の偉業を誇りに日本人の元航空飛行隊長や元航空艦隊隊長の協力を得ながら自宅に特攻兵の肖像画書き上げ、美術館にして後世の記憶に残したのです。
当時の世界観は、白人優位の世界でした。日本人がロシアに勝った有色人種を恐れたのです。
欧米列強は帝国主義の破壊を恐れ、日本人を黄禍と洗脳していたのです。
東条英機は、東京会議を開き、孫文(中国)、チャンドラポーズ(インド)、他植民地の指導者が戦時の東京に参集したのです。
かの画伯は白人の横暴に日本人が戦争、特攻隊としてぎりぎりの抵抗だったのです。彼は、日本人が統治国に対し教育を行った結果として今のアジアの繁栄があることを結んだと言われたそうです。
いかに、教育が大切なことを戦争で蹂躙されても国の人でさえも分かっているのです。
そういえば、インドネシアのスハルト大統領が、国賓として来日した時戦争当時の上官にあって、握手して喜んでいる写真を見た記憶がよみがえってきました。
また、台湾総統の蒋介石も戦争の賠償を求めなっかったのです。
学徒出陣で出兵した李登輝総統も死線をくぐっても親日派です。
日本の教育がおかしい様な気がしてならない一人です。

学徒出陣と穴掘り(防空壕)とサンフェルナンド岬

2017.09.26 (火)

私たちが訪れた時のリンガエン湾の長閑な風景でした。
秀子さんの話を聞くうちに、日本軍の壮絶な戦いがどれほどか、義父宗春が砲弾と機銃掃射の前に苦しみ亡くなっていったか想像しました。
米軍の艦砲射撃で3週間を待たずして死んだのです。
サンフェルナンド岬の突端に、今は中国風の東屋があるのです。
このフイリッピンでも、中国人のインバウンドの爆買いに期待しているのでしょう。
夏になれば、遠浅のリンガエン湾と山下奉文が指揮するバギオ避暑地(距離にして55KM)に地元のフイリッピン人たちが避暑に訪れるのです。
このサンフェルナンド岬は風光明媚な街で、近くの庁舎の前庭に、
今でも第二次世界大戦の塹壕保存されております。
その塹壕は、横穴、竪穴、そして通信兵などが連絡でき、しかも司令官の塹壕は6帖ほどの広さになっているのです。1ッ所の塹壕に数十人おり、米兵と戦っていたのです。
その塹壕を、素手や棒きれで学徒出陣者たちが来る日も来る日も掘ったそうです。
私と妻は湿気とひやりとする横穴の奥に、百合と菊の花を手向け、お線香あげて、死者の霊に手を合わせたのです。
学徒出陣者は、戦況が悪化する中、兵力不足を補うために昭和18年10月21日、秋雨降る神宮外苑で、関東地方の周辺の(国立大理系、東大全学生を除く)70,000人の学徒出陣者の壮行会が行われたのです。
学徒出陣者は日本国内だけでなく当時占領地の満州(ハルピン、新京)台湾(台北市)朝鮮(ソウル)上海市などからも20歳以上の大学生が各戦場に出兵していったのです。
学徒出陣者の多くは、裕福な家庭で育ち、頭脳明晰者でした。そのため、航空隊の操縦者として、訓練され、特攻隊に配属され、撃墜され帰らぬ人になったのです。
また、通信兵として、最前線に立ち、ほとんどが知能を必要とする部署に配属され、入隊当初から将校として前線に立ったのです。
学徒出陣者として、帰還したのもの中から戦後の日本を戦争体験を通じて国政に係り、日本を引っ張り、20年間でオリンピック、万博そして、世界の中で日本が戦勝国のソ連・中国・イギリス・フランスよりも発展したのです。
学徒出陣者の中に、竹下登、宇野宗祐、村山富市のなどの総理大臣が出たのです。
東条英機の訓示にたいし、答辞を呼んだ江橋慎四郎は東大の教授になり、鹿屋体育大学の学長になったのです。
そのほか、台湾の李登輝総統も学徒出陣者の生還者なのです。
しかし、彼らは「生還を期せず」の言葉通り、戦後の中傷、デマにも言い訳せずと物も言えない戦死者に対し、沈黙を守ったものが多かったのです。
そのほかにも,渡辺美智雄、塩川正十郎や俳優の西村晃、茶道の千玄室もいたのです。
当時の大学生は、日本の人口の5%にも満たない知識層だったのです。最後は、ほとんどが最後の砦、フイリッピン戦線で戦闘した者が多かったのです。
20万近い兵士が70,000人までになるほど飢えと病気と機銃掃射、艦砲射撃の前に戦死したのです。最初は日本人に好意を抱いていたフイリッピン人まで、食料の調達に軍票(日本軍が発行した紙幣)の価値が5分の一に下落したのです。この事実は1ヶ月の日本兵の給料が1日で無くなってしまうのです。
映画で見たのですが、まさか事実だと思えないようなことがあったのです。
生存者の日本兵の中には、戦死者の靴,皮のベルトを3日かけて、煮て食べたそうです。
もちろん、青いバナナはもとより、多くの兵がバナナの幹まで空腹に耐えられず食べたのです。
そういえば、柏の廃寺を親からの80,000円近くの相続と宝くじの高額当選で購入し、戦友の為に供養した住職の依頼で鐘つき堂の瓦施工したのです。彼の自費出版の本の中で、戦友の人肉を食べた話をしてくれたのです。
フイリッピンの戦いは最後は、自給自戦をしいれれたのです。

マッカサーのリンガエン湾そしてアイ・シャール・リターン

2017.09.25 (月)

私の妻「光子」父「宗晴」の一粒種です。妻の知らな義父が壮絶な死、、そして、空腹とスーコルに叩かれ、病に倒れたと思うのです。
義父は体が弱く,丙種入隊でした。本来であれば入隊のできな体躯だったのです。戦線が南方から、制海権を無くし、日本軍は転進と偽りながら山下奉文指揮下「捷一号作戦」と呼ばれる防衛に試みたのでが連日の負け戦でした。
リンガエン湾はフイリッピン・ルソン島中部のサンチャゴとフェルナンド岬の湾の中にあって、波静かな遠浅の海でした。
日本のお盆に胆管癌を患った私にとって、神の与えた休暇だったのです。市役所・厚生省援護局、フイリッピン日本大使館等々電話したのです。なかなからちが明かず、大使館が教えてくれた「慰霊の旅」を専門に扱うフイリッピンの旅行会社に電話をしたのです。
慰霊の旅をする年代の人たちが年々を取ってしまい、これが最後でしょうと言われ申し込んだのです。
個人旅行で金額的には多少高かったのですが、このチャンスを失えば生涯後悔するだろうと思ったのです。成田を飛び立ちマニラ・アキノ国際空港降りったのです。出迎えの旅行会社の添乗員はフイリッピン人と結婚した秀子さんという長身の女性でした。すっかり安心しました。
大本営はフイリッピンの反撃で敗れれば、講和条件も厳しいものである認識を持っていたのです。
マッカサーはアイシャル・リターンの言葉通り昭和19年10月20日戻ってきたのです。
そして、義父の護るリンガエン湾に侵攻したのです。それが、正月松の内明けやらぬ20年1月7日でした。迎え撃つ日本軍287,000人は最初の2日間の艦砲射撃で3割近い兵器と兵士を失ったのです。
日本軍は山の頂上に高射砲を据え付け応戦したのです。
日本の高射砲の飛距離は2K、米軍の艦砲射撃の飛距離は10K、まさか弾丸が山頂まで届くとは思ってみなかったのです。
義父は大西中将率いる「混成第4重砲大隊」に所属していました。日本軍は反撃どころか応戦にも失敗し、艦砲射撃にと火薬庫の自縛によって、密林の木々は日本兵の人肉の塊が散乱し、近くを流れる川は鮮血で真っ赤に染まったと秀子さんが教えてくれたのです。
米軍は何台ものブルトーザーを上陸させ、木々をなぎ倒し、どこと構わず進軍したのです。
秀子さんが米軍の戦闘記録の本を出して説明してくれたのです。
また、オシベの長い小さな赤い花の根元には、必ず死体があることも教えてくれました。
1月の戦いで80%が玉砕したのです。もし、8月15日終戦が遅れ、暮れまで戦争を継続していたら、一人も日本の大地を踏むことはなかったでしょうと教えてくれたのです。
リンガエン湾はセブ島より美しく、昔ながらの漁法で一日の糧を投網と引き網のようなで方法を行う、どかな風景のリンガエン湾でした。
途中、アイスクリームのおいしいお店や大砲のある小学校や市場、教会を挟んだレストランに大阪兵舎廠の昭和18年文字が刻まれた大砲などを見学したのです。
いま、日本では、広島と長崎の平和公園に戦争の悲惨さを込める遺跡しかないのは残念です。
リンガエン湾にマッカサー率いる米軍の艦船は700艘を超えるものでした。
真っ黒になるほどでリンガエン湾の日本の歩哨は、あまりの多さに小便を漏らす程だったと秀子さんは言っておりました。
マッカサーはリンガエン湾の上陸をカメラマンに3回撮影さえ、世界のメデアに流し、勝利宣言をしたのです。
日本軍は、クラーク飛行場から神風特攻隊を編成し、皆、撃墜され、海の藻屑になって散ったのです。もちろん、制空権も失ってしまったのです。学徒出陣で見送られた若者は、戦うことなく、塹壕堀の毎日だったのです。
また、べニア板を黒く塗り爆弾を積み,戦艦に体当りしたのです。
初戦は成功を収めたのですが、すぐばれて海の藻屑になったのです。
そんなことは知らない奥さんやお母さんは桐の空箱を渡されただけなのです。しかも、遺骨があっても小指の納骨で誰のかもわからいのです。
そんな話を、生前の義母から聞かされました。フイリッピンのタングラッタに行って良かったと思います。
日本人の戦死・戦病死者はフイリッピンの戦いで430,000が野辺に散っていったのです。
私たちは、戦場で花束と線香と牛と馬の藁人形を添えて、行きと帰りにも成仏の手を合わせたのです。

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