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有珠山噴火瓦問屋三喜と行く

2019.07.05 (金)

 かれこれ40年前の1980年ころですか、よく覚えていないのですが、洞爺湖の花火祭りにオオギヤの社員と瓦問屋「三喜」の社長さんと社員の運転手さんと8人で近ツリのツアーに参加したのです。

 有珠山が爆発して観光客が激減したのです。洞爺湖河畔のホテル、旅館が知恵を絞った結果1年中、宴会をしながら打ち上げ花火を堪能できるアイデアを打ち出したのです。
 各ホテル宴会場の正面で台船上から打ち上げる花火は贅沢で迫力満点です。

 3度目の洞爺湖は理化学部の友人夫婦の旅行でした。有珠山は落ちついていました。初めの旅は男三人の放浪旅でした。1970年代は昭和新山に薄煙の上がり、温もりする赤茶けた山肌を登ってきたのです。
 今ではロープが張られ登山不可です。昔は観光客もすくなく自己責任だったのです。お土産屋もなかったのです。

 洞爺湖の起始再生を図ったのは「洞爺湖」サミットです。北海道全体の経済がサミットによって回り始めたのです。
 その陰で「ザ・ウインザーホテル洞爺」の女支配人の奮戦努力の結果なのです。

 ザ・ウインザーホテル洞爺が4星ホテルになるまでには、労力、厳しい現実、環境への配慮があったのです。
 
 洞爺湖温泉、壮瞥市などの町の連携があったことと思います。
 火山の噴火で火山灰で覆われ死の街並みになったこと思います。私が小学校の時、浅間山が爆発して天日干しの瓦に灰がつもり、箒で履いた思い出があります。

 宝永年間、富士山が爆発した時1.8mも小田原は火山灰が積もったのです。ポンペイのベスビオ火山の噴火は火山灰が7mにもおよび市内を埋め尽くしたのです。しぜんの自然の恐ろしさを見せつけられた思いです。

 鹿児島県南の市町村は豪雨の被害で山崩れニュース連日のように流れています。7/4参議院選の告示もされます。17日間の連呼です。

小樽~余市ニッカウイスキー~積丹半島の男旅

2019.07.05 (金)

 男3人、不精旅の話ですみません。
 1970年代の小樽は、今のような活気はなく申し訳ない都市でした。故照さん、塚田君、私の3人の旅です。
 当時は、石狩炭田の積出港とニシン漁の漁港でした。いつ頃から今の様な裕次郎や運河の倉庫群、海鮮丼の居酒屋はなく観光自体行った記憶がありません。

 当時は、私の青春真っ盛りでTVから森進一の「襟裳岬」やピーナツ姉妹の歌声が流れていったけ。こんなノスタルジアも喜寿の爺になったせいですか。

 夜の函館本線を、余市の駅頭に降り立ち木賃宿でまで行き一泊し、夕餉を取り、朝飯を頂く、女将が照さんを見て「家のせがれによく似てるね」とのです。そして「洗濯物があるだろうからニッカの工場でも見てきな。その間に洗っといてやるよ」と言って尻をたたかれニッカの蒸留所を見学に行きました。
 あいにく、その日は日曜日で工場は見学できたのですが、工場内は見学できず帰ってきました。
 連続ドラマで有名になった「マッサン」のドラマの舞台です。マッサン事、竹鶴政孝氏は威の養子に入り京都大学のエリートです。
 今は、蒸留所の全面に糸杉やヒマラヤ杉の巨木が生い茂り、以前のような美しい赤い屋根と石積蒸留所が撮影できないのは残念です。

 宿に帰ると洗濯物は洗って畳んでありました。昼食を済ませて積丹半島に出かけました。
 岩内駅に降り、路線バスで雷電海岸に行って降り、フクロウのような岩やU字型の岩のトンネルを抜け、ろうそくの様な岩を右手に見ながら凄いなの気分でした。
 バスの乗客は5~6人で大丈夫ですかと思い、海岸通りを歩き雲丹の殻が積みあがってるそばまで来ると汐の香りが強烈でした。
 そう言えば、チョット先の寿都町の原野を私は230,000円で1000坪くらい購入したのです。
 光子には、金策で苦労かけたなと思っております。よく私を支えてくれたなと思っております。今の230,000円ではありません。当時の月給は40,000円くらいだと思います。
 こんなことも、若き日の良い思い出です。
 人生いろいろですね。