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私の幼いころの思い出

2021.01.31 (日)

 私の母なる実家。
 それは広い土地でした。母は3反壱畝(1100坪)あると言っていました。町道から江川までと言っていました。
 向かい側にかって永田嘉平の家(母の弟)あり、当時の日本は長男相続でした。

 田口常次・江川の橋のたもとに鈴木庄店ありました東武線の鷲宮駅まで貨車で東京・鎌倉あたりまで瓦を出荷していたのです。瓦工場多かったために瓦耕地とも呼ばれておりました。
 実家(母やす)は永田嘉平が父熊太郎の死の間際に子供が多いからと言って、長兄の扇谷音二郎から相続財産をもらったそうです。

 後で判ったのですが、大正時代・半分は高橋医院より騎西から来町した時に借り受けたのです。良くは解らないのですが戦後、仁平は3文弁護士頼んで東側(現砂原小側)の渡辺ミシン工場と自宅を退去させたそうです。

 私達が寝起きしていた2階は、30坪くらいと階下が土練る工場があり、階段の突き当りにボトンのトイレがあり、階段上は3畳くらいの板の間・階下にモミ殻敷き込んだ「室」がってサツマ・ジャガイモ・玉ねぎが収納されていました。

 2階の踊り場は3畳ほどで布団の収納と茶器等があった記憶です。母やすは松崎文子さんという捨て子を育て、起居を共にしていました。
 無学ですが頭が良く私は勉強を教わりました。

 2階の奥は北側に2畳くらいの廊下・南は6~8畳部屋でした。そこに6人寝起きしてたのです。中二階の家と2階建ての間に物置と卓球台・風呂が有り、当時としてはこれでも良い方だったのです。

 仁平の住まいは、北西に仏様があって長兄が毎朝仏様を拝んでおt利ました。次が食堂で東側が土間の釜場でした。
 南西はトイレ・床の間付きの客間・上がり鼻・叩きののコンクリート床・電話がありました。ロボットのような大きい代物でした。境に神棚が祀ってありました。