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第2次世界大戦で解読された日本の暗号とアメリカの暗号

2017.12.12 (火)

日本も戦争終結から70年が経過し、戦争の痕もなくなり経済も豊かです。太平洋戦争も日本は緒戦のみ華々しい戦果を挙げたのですが、実は米国は真珠湾攻撃を知っていて、不意打ちを装ったのです。
当時の日本の経済は、破綻寸前だったのです。石油が枯渇し、当時の石油採掘やトラッキングする能力がなかったのです。また、陸軍と国民は米国の物量と経済の豊かさを知らなかったのです。
そのため、インドネシアの原油と満蒙の豊かな開拓地が欲しかったのです。
しかし、フイリッピンを植民地支配していたアメリカが、海上封鎖をし、日本はインドネシアの油原を採掘できず、世界恐慌後の経済の立てなをせず、また、米国の和解案の最後通告の「ハルノート」は日本人として、受け入れらない条件でした。松岡洋介大使も国際連盟を脱退する意見に傾いたのです。もちろん、天皇も東條英機首相も戦争回避を模索したのですが、チャーチルとトルーマン大統領の密約に米国も舵を切ったのです。そして、日本の連合艦隊は、陽動作戦と穏密行動で真珠湾攻撃を決意したのです。ヒトカップに集結し、北南へと別れ、その後は一切打伝せず、緒戦での攻撃は大成功に終わったのです。私たちがラスベガスからモニュメントバレーに行ったときに、インデアンの村の記念館に立ち寄ったのです。アメリカの暗号がインデアンのナホバ族の言語を乱数表にし、文字は英語を使用していることとは思いもしなかったのです。
日本では今でも知られていないことでした。それにしても、日本軍の暗号は開戦7日前に解読されていたのです。ヒトカップ湾を出港した連合艦隊、および南仏印(ベトナム、カンボジヤ)の陸軍にも連絡取れず、解読されたまま大東亜戦争に突入したのです。
これでは、経済的格差だけでなく負けるべきして負けた戦争だったのです。
これも、アメリカのルート66に行って解ったのです。
個人旅行だったから知りえた事実です。通常のツアー旅行では行くことのない小さな記念館に立ち寄ったからです。
もし、日本軍もアイヌ語を乱数表にしてら、でも、日本は敗戦によって、平和憲法でき、貿易の振興と湾岸地帯に経済の拠点を設けることが今日の発展につながったのです。

インドの添乗員の自宅で歓迎されて。

2017.12.08 (金)

2017年4月8日インドに、ベンガルトラを求めて10年前に、黄金のトライアングルに旅行に行った時、名刺をやり取りしたのを思い出し、早速、名刺のメールの宛名にベンガルトラ見に行きたい旨の想いを送ったのです。こんな経緯でシャルマさんの自宅訪問になったのです。彼の自宅はデリー市で、私たちのデリー市の宿泊日に合わせ訪問したのです。
彼の自宅は、マンションでした。家族全員で歓迎してくれたのです。
しかも、自宅の中まで見せ頂いたのです。ヒンズー教のお祈りの神様が安置してあり、カレンダーもヒンズー歴がありました。
また、シャルマさんが、日本での日本語の勉強をして帰国す時お土産として、買い求めた日本人形も飾ってありました。シャルマさんの両親、叔父さん、ご子息、みんな集まって、お母さんの手料理で食事をしたのです。
ご子息たちとシャルマさんの通訳で会話が弾み、わたくしが、これから10年後の45%の既存の職業が失われれる話をしたところ、娘さんが今、舞踊の勉強をしているのですが大丈夫ですかと聞いて来たので[大丈夫です。」と私は日本の歌舞伎を思い出したのです。
また、娘さんが習っている古典舞踊と近代のモダン舞踊を披露したい旨を仰ったので是非とお願いしたのです。音楽に合わせて踊りだしたのを見て、びっくりしたのです。踊りは指先と爪先のしぐさ、そして目が命なのです。私は彼女を見て私はどちらも行く決まっていたからです。彼女が何曲を披露していただいたので、日本に帰ったらメールで送ること伝え、そろそろと言ってシャルマ邸を後にしてホテルにもでったのです。なかなか体験できない体験と個人旅行でしたので体験できたインドへの旅でした。
その後日本に帰って九州を旅した時に妻が博多人形をシャルマさんに送りお礼の電話を頂いた旅でした。

マサイ族の知られざる日本人

2017.12.05 (火)

マサイ族はケニア・タンザニアに20~30万人が住んでおります。もともとは、タンザニアに住んでいた先住民族をことを言うのです。
私たちが、2010年8月にあるアフリカ専門のツアー会社でケニアに行った時です。ジープで国道らしき道路をマサイ・マラの国立公園に向けて飛ばし、原っぱに座って、雑談している女性たちのカメラを向けて撮影したのです。そうすると怒ったように、手を横に振ってお金をせびる振りをしたのです。
撮影代をよこせと言っているのでしょう。車は疾走しどうにもならないとあきらめた様子です。ホテルにつきました。コーテージにプールまであるのに驚きました。洒落たホテルです。花壇にはサボテンの様な植木が一面に植えられ、花をつけているものもあって、日本の豪華なホテルを想像させるのです。
各コーテージには、風呂まであるのです。夕方6時ごろサファリの時間になったので、香港で合流した5人が迎えのジープに便乗し出発です。
田村さんの話を聞くうちにこの人は何だと思ったのです。国会議員や都の行政の人々を、彼らは馬鹿そろいとか、くせ者とかけなすのです。
自分は天才と自慢するのです。それも、我々初対面なのです。
恐る恐る田村さんに探りを入れたところ、小池百合子さんが環境大臣時の諮問機関を拝命しているそうです。また、栃木県で8社を経営している社長で、日本カメラ協会に副校長も歴任していることが解り納得したのです。
そんな話をしているうちに、シマウマ、ダチョウ、オリックス、インパラが目の前に姿を現し、妻と二人で驚きの連続です。ジープは屋根が開閉式でカメラの撮
影に恰好でした。
しかし、ケニアは国全体が2000mくらいの高地にあって、8月というのに風を切ると寒いのです。乾燥していて、気候は快適そのものです。
チーターが現れたのです。運転手があそこあそこと指をさすのですが、ミツコが双眼鏡を覗くのですが見えません。木の上に2頭いて、周囲を見渡しているのですが。
驚くことにマサイ族は裸眼で4.0の視力だそうです。これには驚きました。やっと見つかりましたが、400mmの望遠レンズでやと撮影できる距離です。田村さんは、コネクターをつけて、撮影です。
やっと、撮影できて、ジープは移動しました。象の群れが通り過ぎようとした時です。ヌーの群れの1頭が突然走り出したのです。時間が止まり、あたりの空気が一変したのです。ヌーは安全な場所に行って止まり、チーターはブッシュに肩を落とし、元の時間に戻ったのです。象の群れは、何もなかったように小象を囲み何も無かったように隊列組消えていったのです。
日が暮れ、今日のサファリを終え、興奮冷めやらぬまゝホテルに帰りました。
ロビーにアフリカの画集が何冊かおかれており、パラパラと除きました。そこにはマサイ族の戦士と結婚した永松真紀さんの写真集がありびっくりしました。
マサイ戦士はジャクソンというのです。真紀さんは、一目惚れしたそうです。
マサイ族はほとんどの人が出生日を知らないそうです。時間の感覚がなく、子供、戦士、大人、長老そんなくらいの時間感覚なのです。
彼らは、牛、ヤギの所有頭数で貧困が決まり、また、どれだけ高く飛べるか、またはライオンの脳天割をどれだけしたかで、決まるそうです。
マサイ女性のファッション感覚は素晴らしくびっくりするぐらいです。
また、子供たちは目が済んでいて、無邪気です。また、驚くことに英語のできる
部族の青年がホテルに自分の来村するように営業に来るのです。
しかも、契約が決まると携帯電話で村の人とやり取りするのです。
村に太陽光発電で携帯電話を充電するそうです。貧しい村は、歩いて1時間かけて充電所があって、そこまで行って充電するのです。各家庭は電機はなく、土と牛糞を練り固めた1間の10畳くらいの住まいに5~7人ぐらいが住んでいるのです。
また、頭脳明晰のマサイ族はホテルに勤務し、私たちに食事を運んできた女性は、教えた日本語をすぐに覚えたのです。どこにも頭脳明晰な人はいるのだと感心させられたのです。

貧しさも観光資源。カンボジアのトンサップ湖         

2017.11.30 (木)

アジア最大の湖「トンサンップ湖」そこには貧困にあえぐカンボジア人が、水上生活を営んでいます。
私が大学生の時、韓国いったのです。その頃の韓国は、まだ仏教人が数多くいました。釜山の近くの梵魚寺にって驚いたのです。土下座のカンボジア人と同じく、韓国も土下座の仏教でした。
カンボジアのアンコールワットも同様でした。
アンコールワットから、トンサップ湖いく途中、車窓から眺めた風景は、内戦の傷跡が残る風景と蟻塚の景観でした。ガイドさんの説明では、電線が引かれている家は富裕層なのです。
貧困層は、葦で日陰を作り、昼間は、縁台で寝転がっているんです。
働く職場もなくその日暮らしの生活だそうです。また、内戦で地雷をあちこちに埋め、足のない人、手のない人が5.6人で音楽を奏でたりしながら観光客に恵んでもらって極貧の生活に耐えているのです。
日本でも昭和20年前半に、傷痍軍人が上野公園などに見かけたのです。
トムサップ湖までの道すがらよく見る風景でした。戦争の悲惨さを否応なしに刷り込まされのです。
トムサップ湖に行ってまた衝撃を受けました。パンツも履いてない6歳くらいの子供が遊んでいるのです。しかも、小学生くらいの子供が木造船を操り、大人がお金を集金していたのです。ネパールと同様で小学校は頭のよい子が1人代表で行くのす。現実に働く子供が多いのです。働き手でない女の子は医者にもかかれ
ず生きることさへ叶わないのです。ネパールのエベレストに行ったとき、女医の
生越さんが教えてくたのです。そのことを思い出思い出しました。また、お兄さんが路上のカーバイトの灯の中で勉強を教えていたのです。船がランチのレストランへ行く途中です。10歳くらいの女の子が3m位の錦蛇をマフラーのように首に巻き付け、写真を撮らせ、お金をめぐんでもらっているのです。
毒蛇でないことは解っているのですが、私にはできません。このトムサップ湖には何千人という水上生活者共存しているのです。湖の水は飲料水になったり、洗濯場であったり、トイレの役割(厠)もしているのです。また、水上生活者は観光客に日用品・土産まで売り物しているにです。
まさに、貧困を売り物にして、経済サイクルがなりたっているのです。内戦による被害者なのです。

アンカレッジのタワーホテルと越後屋

2017.11.27 (月)

1964年3月27日アラスカ大地震が発生、マグニチュード9.2と計測さえたのです。
東日本大震災は、マグニチュードは9.0でした。アラスカの大震災は、人口密度が低いので被害は死者131人に止まったのです。震度では0.2上回ったのです。この地震で、アンカレッジのタワーホテルは被害がなっかたのたのです。
私たちは、今回もインターネットで予約して、息子と落合い、宿泊したのえす。
余談ですが、アラスカ鉄道は、黄色とブルーの列車で、食堂車は、ガラス張りでデナリ山がよく見えるのです。
また、車掌さんは、カッコよくて、ハンサムで女性なら一目ぼれをするほどです。
1日1往復のためデナリ山がよく見えるところで30分も写真撮影のため、停車するのです。
アンカレッジのタワーホテルはキッチン用品や電子レンジがあって自炊ができるのです。また、キャンドルがあらゆるところのあって、北極のホテルの雰囲気がとっても良いのです。
また、徒歩5分位のところに、越後屋という日本のスーパーがあって、生け簀にカニや北の海魚介類泳いでいるのです。
店内には箸や紙の皿、醤油、みりん、お酒、お米は何種類も所狭しとあるのです。
生け簀の蟹、魚を指定すると料理や茹でてくれるのです。私たちは蟹を茹でてもらい。みりん、醤油などで食したのです。
生きたカニをその場でゆでて頂いて食べるおいしさは格別です。
最後に軽飛行機をチャーターし、デナリ山々や氷河、雪原また、断崖絶壁に生息するヤギの群れや点のような海の生き物のラッコ、シーライオン、パフィン、トナカイを機上から垣間見たのです。
3人で、アラスカの大自然を満喫したのです。
息子と過ごした幸せの時間でした。

アラスカ、カトマイの豪快な鮭釣り

2017.11.23 (木)

凍てつく大地アラスカは、野生動物をはぐくみ、そこの繰り広げられる植物・動物の連鎖は、アリューシャン・マジックと呼ばれます。
アリューシャン・マジックはプランクトンが大発生して、南の海で子育てを終えたクジラがなん百頭と集まり、また魚群集まるのです。
小魚を求めて、ハシボソミズナギ鳥が何万羽と集まり、最後に南鳥島から阿呆鳥が飛んでくる壮大なドラマです
私たちが、知り合ったトラッパー伊藤さんは、5月の連休にフェアバンクスの駅頭に降り立ち、みぞれ交じりの天候で、寒さを堪え乍ら駅のベンチで一晩明かしたのです。それでカトマイに向かったそうです。
私たちも、息子とともに、ヒグマが鮭とる瞬間が見られると、昨年の旅行でアンカレッジの旅行案内所で聞いたのです。
フェアバンクスから、アラスカ鉄道に乗って、さらに軽飛行機でカトマイに乗り継いだのです。途中の軽飛行機を乗り継ぎ、2度目の飛行場に降立ったときです。無数のカモメが騒いでおりました。見るとヒグマがいたのです。
突然ヒグマが、湖沼の鮭の群れに飛び込んだのです。鮭を咥えて出てきました。望遠レンズで撮影できたのです。一瞬の出来事でした。
アラスカは、ほとんどの家庭で軽飛行機(価格は中古機は250万円くらい)を所有しているのです。
なぜかというと、アンカレッジから北極海に抜ける国道が1本しかないのです。
この広大な大地で、1500kmを超える東西の移動は、飛行機に頼らければならないのです。軽飛行機はフロートのついた軽飛行機です。
また、湖沼の数のほうが人口より多いのです。湖沼が飛行場にかわるのです。
また、乗り継いでカトマイにつきました。もう、降り立った場所からクマに注意
の標識があるのです。説明文には鈴や話し声でクマが近づか無いように書いてありました。
飛行場には私たちのほか3、4人が釣りの道具を持っていまた。案内人がやってきて、ジープに乗って釣り場に行き、私たち3人もモーターボートに乗って、ポ
イントに行ったのです。
鮭があちこちで跳ねていました。気持ちは早く釣りたいと焦るばかりです。ポイ
ント変えながら、2時間ぐらいルアーフィッシングをしました。息子は、70CMくらいの鮭を釣り上げました。私は何度かの引きがあったのですが、ルアーフィッシングは、初めてで取り逃がしました。
キャビンに行き、釣り上げた鮭と一緒に撮影したら、キングサーモンも釣れるので72cmの鮭もメザシに見えてしまいました。いかに大物が釣れるかです。
モーターボートを運転していた方が、鮭を3枚におろしドライアイスを発泡スチ
ロールのボックス入れて日本まで持ち帰られるようにしてくださいました。
彼は、大学の教授で休みの時に、趣味で案内をしたり、モーターボートの運転手
をしてるそうです。私たちは、カトマイの近くのヒグマのいる国立公園にいった
のです。レンジャーの案内で、4mくらいの木製の展望台に行ったのです。
桟橋に差し掛かった時です。紅サケが、群れを成して泳いでいたのです。
撮影しようとカメラを構えました。すると女性のレンジャーが飛んできて、100
~150mのところでヒグマが昼寝をしていたのです。
ヒグマは、寝ていても匂いで襲ってくるから危険です。指定されたところ以外は
危ないです。」言ったのです。息子とレンジャーの話ではバンガロウに泊まったお客さんが、夜中に、トイレに行こうとしたらドアの向こうにヒグマがいて、一晩中トイレを我慢した話をしてくれたのです。
公園内といえど、ヒグマは野生の動物ですからいつ襲うかわかりませんと息子
言ったそうです。
インホメイションセンターで、聞いたヒグマの餌場に行ったのです。高低差が5
mから6mくらいの滝があって、釣り人がいました。鍵がかかり入れません。レ
ンジャーに聞くと、鮭をを求めて朝早くクマが集まるそうです。ところが一般の
人は、時間でしか入場できないそうです。入場許可証が必要で、プロカメラマン
などの特殊な人以外は無理なそうです。
でも、カトマイのあちこちで.クマは見られるのです。この滝のあるカメラのポ
イントは諦めることにしました。帰りの時間になったので軽飛行機を乗り継いで
ホテルの戻りました。鮭釣りの面白さを味わった1日でした。

アラスカの大自然の白熊に消えた星野道夫さんの話

2017.11.20 (月)

最初(2010・8月)にアラスカを旅した時、光子は足を捻挫してどうしようかを悩んでおりました。私は、[チャンスは後ろ髪のない美人だよ」ど無理やり連れだしたののです。
成田に行って、その悩みが吹っ切れたのです。広い飛行場の中で、杖をついて歩いておりました。スチアーデスさんと思われる、美人の方が「足は大丈夫ですか。車いすをご用意させていただきます。」近づいてきました。光子に車椅子を「どうぞ」と言って、税関の通関を、乗務員用の窓口まで案内してくださたのたのです。それからアンカレッジの空港まで全部連絡行き届き、車椅子が行くところ、全部手配されていたのです。
それだけではないのです。アラスカの列車、デナリ公園内のバスまで行所は全部、車椅子または補助具が手配済みだったのです。先進国の旅は、何不自由なく快適に過ごすことができました。
2人旅でしたので時間的余裕が有りとっても助かりました。
アンカレッジの旅行案内所で、どんなスケジールにしようかと立ち寄りました。
そこには、素敵な写真集が置いてありました。20万頭のカリブー(トナカイ)の移動の写真です。
早春の壮大なドラマです。見てみたい。そんなたわいもないことを妻とつぶやいていると、アラスカのガイドさんのような方が「星野道夫」さんといって、命がけで白熊の写真を撮影された日本人ですと教えて下さいました。いろいろ質問すると白熊の撮影に命を落としたそうです。
私は、厳冬期のマッキンリー散った植村直己さんを思い出していたのです。
日本人は、命がけで自分の人生をかけた人たちが、百年も前からいたことを思い
出したのです。南極点を目指した白瀬中尉もそうでした。
どうしてなんだろう。自分の脳裏にかすめたのです。遥か20万年前に日本人の
祖先が、命がけで丸木舟(?)や葦船に乗って何千と言う古代人が黒潮をに乗っ
て、あるいは、厳冬期の氷結したサハリンから海をわったって来たそうです。日
本人のDNAが冒険心を描きたてのでしょう。
アラスカには大自然が手付かずのまま残っているのです。私たちが、アラスカ鉄
道に乗り、バスを乗り継いでデナリ公園に着いたのです。
空がどんより曇り、太陽が見えません。これは、半年前に自然発火の煙が雲のよ
うになり、曇天模様に見えるのです。
米国人は自然に発火したものは、自然に任せ、消えた後に芽吹いた植物は、また、別の生態系を作り、自然の循環に任せるのが一番良いと考えているからです。
日本人には考えられない思考です。アラスカの広さがどれ程かわかるような気が
します。
アラスカには、幽霊林といわれる火災で真っ黒に焼けただれた森林地帯があるの
です。
翌朝、デナリ公園の観光に出かけました。トイレ休憩の時です。ガイドさんが面
白い話をしたのです。
トイレに寄った時です。ヒグマが現れ、みんな驚いて、トイレも行けずバスに駆
け寄ったのです。一番先に逃げた人が男性だったそうです。もうこうなると恐ろ
しさが先に立って、レディーファーストどころでないそうです。「いつクマがで
るかわかりません。終わった方からバスへ戻ってください」とのことでした。
バスの車窓から、間近にグズリー、カリブ、ヘラ鹿、ドールシープいろいろな動
植物を見て回りランチです。ボリューム満点のステーキでした。
私たちと一緒のバスに、膝枕を持った2人のお相撲さんのようなおデブさんが乗
り込んでいました。ランチの後、山小屋に着き英語での説明に意味不明でした
が、2組に分かれ3時間の自由行動でした。まあいいやと思いながらついていく
と、清流があって、浅いざるみたいな道具を渡されました。昔、砂金が採取され
たらしく、他の人の真似をしてやってみました。砂金は取れなかったけれど、採
種した石をハンマーで割ると銅の混入した黄銅鉱という石でした。佐渡島の砂金
採りと違い、大自然の中での砂金採りは豪快でした。雄大なデナリ山やコケモモ
の自生する雄大な景観に圧倒されました。バスで公園の出発点につき、回遊バス
でキャビンに戻り、楽しかった一日に思いふけりました。
星野道夫さんの命日は昭和42年8月8にです。なぜ、彼は、白熊に追いかけられ
たか。ちょうどこの頃が、冬眠をする白熊にとって脂肪を蓄えなくてならない時
期なのです。白熊にとっては、人間も他の動物も餌にしか見えないのです。また、写真家魂がうずいて、より感動するシャッターチャンスを、狙っていたも
のと自分と比較して思わざるにいらえません。
私も写真家田村さんと、ケニヤに行った時のことです。朝日で輝くキリマンジャ
ロを狙って、ホテルのゲートを出て、200mくらい行った時です。ホテルのガードマンが、駆け足で飛んできて猛獣は遠くにいても、すぐ人間に追いつき危険で
すからホテルに戻ってくださいと叱られた経験があるのです。星野道夫さは、夢中になりすぎて、望遠レンズを覗いてライフルを手にする暇もなかったのだと思
います。
星野道夫さんのご冥福をお祈りいたします。
また、写真家田村寛一さんが夕日に逆光なった樹木に鷲が泊まり、ジープの運転手に90cm右と指図されていた事を思い出し、プロは違う視点で撮影されたことを思い出しました。

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