Calendar

<< 2010/9  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

記事一覧

雨漏り奮闘記 あなたならどうする。ギリシャの金融危機を

2010.05.01 (土)

 http://blog.with2.net/link.php?720512

上記アクセスをクリックしていただけるとブログ掲載の励みに成ります。宜しくお願いいたします。
連絡は0120-58-9901 または0480-58-0301
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  雨漏り奮闘記 あなたならどうする。ギリシャの金融危機を
   他山の石と思いますか。 
今、日本の国民はギリシャの金融危機を他山の石のようにほとんどの方が思っている。

此処に4/27付けの元経済企画庁長官を務めた、堺屋 太一氏の寄稿文を掲載致しました。
この寄稿文をお読みになってどう思うかは自由ですが、この状況下で日本は長期プライムレート上がり、国債の償還がますますおぼつかなくなるのです。

今、日本の預貯金高1400兆円に支えられて、国債金利は1%台に押さえられておりますが、我々(小生68歳の老人です)の年代の預金残高が減少して、海外の資金を受けなければならなくなった時、
ギリシャのように金融危機が訪れるのです。

現実に日本であった戦時国債の話を致します。
償還期日が昭和30年代戦時債の事です。 
戦時国債は戦争で財政危機に陥った政府は昭和17年から終戦の昭和20年まで大量の国債を発行したのです。
額面の金額は15円です。しかし、購入当時の庶民の月給は8円と聞いています。
我が家の妻の祖父がせっせと貯めたお金を、妻、子供、孫の為を思って、あるいはお国の為と思って購入したことでしょう。

戦争に負け。終戦を境にして、日本経済は、今でいうハイパーインフレに見舞われ、国民の生活は困窮し、スリ、カッパライ、米泥棒、そして、この鷲宮町、いや、近所で強盗があったのです。

自殺者、電車の飛び込み、入水者なども多発し、今と同じく『大学は出たけれど』の歌謡曲が流行したものでした。

とくに、この地方は昭和23年カスリーン台風に見舞われ、利根川の決壊で、大水に見舞われ(栗橋から八潮市までの全域が水害にあった)
その時の悲惨さは幼子心の片隅に記憶しています。

おふくろが言っていた。今の換算ですが、闇米60KG(1俵)150,000円になったそうです。
いくら高くても、食糧はかわなければ飢えてしまいます。
今みたいに「何でも売っている」わけだはなく、蔣油、油、お米
なんでも配給です。
『米穀通知書』を持参しないと安いお米は買えなかったのです。
配給で支給量が決まっていて、ヤミ米を購入しないと生きていけなかったのです。
都会のサラリーマンは特に公務員は生活が困窮して、正直な裁判官は、自分は法を守るものとして、法を犯すことはできないと言って
『飢え死』をした方がいたくらいの世の中です。
想像できますか。私たちが結婚した当時は、まだ、『米穀通知書』が生きていました。

当時、私の実家の家族は3所帯で、乳飲み子を含めてですが、10人の家族です。
当時の食事は粗末で、おかずは味噌汁、香の物、それに納豆ぐらいで、病気になってやっと卵が食べられるくらいでした。

当然お米はどんぶり2杯から3杯でした。
お米のヘリが想像できるでしょう。

もうひとつの記事を読んでください。空恐ろしくなるくらいです。

私たちの年代、つまり昭和18年以前の生まれ(実は私は昭和17年生まれ)の国民は生涯で年金、医療費等で4,875万円の税金の還付、つまり国からお金がもらえるのです。

ところが、昭和60年以降に生まれた、今25歳以下の若者は、
子供手当は結婚して子供が誕生すれば、月額26,000円支給されます。(2人の子供で15歳までに936万円支給されます)生涯に返済する国債の借金は、なんと、4,585万に膨れ上がっているのです。

若い世代の国民は、なぜ、国民に優しい、つまり、欺瞞に満ちた『民主党政府』を支持するのだろう。

我々は、得をする年代が心配して、損をする年代が政府に対して 怒りを爆発させなければならないのです。
そう思いませんか。このブログをお読みになっている方からのコメントを受け付けます。

どうする日本!。 このままでいいのか。                                           
ファイル 446-1.jpg

ファイル 446-2.jpg

ファイル 446-3.jpg


                           
ファイル 446-4.jpg

ファイル 446-5.jpg
太陽光を推進しよう会の「新瓦博士」
当社ホームページはhttp://www.ogiya.co.jp です。
クリックしましょう。

連絡先は
FD 0120-58-9901 TEL0480-58-0301
ご連絡お待ちしております。

鉄道の駅舎は町の中心に有るの?

2009.12.23 (水)

 http://blog.with2.net/link.php?720512
上記アクセスをクリックしていただけるとブログ掲載の励みに成ります。宜しくお願いいたします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  雨漏り奮闘記 
鉄道の駅舎は町の中心に有るの?
駅のターミナルは朝晩大勢に人が行きかいます。
今は町の中心を形成し、土地の価格も駅を中心に
価格が決まっているようなものですね。

でも、ちょっと待って下さい。本当に古くからある
駅舎は町の中心なのでしょうかね。
こんな疑問を持って鷲宮町の付近の駅を見てみると
古い駅舎は町と町・村と町の中心から外れていますよね。

東武伊勢崎線の鷲宮駅は鷲宮町と加須市の境にあるし
宇都宮線の栗橋駅も大利根町の境にありますね。

買っての宿場町の大宮駅も大宮の中心部ではないですね。
どちらかというと上尾市近い場所にありますね。

熊谷駅は市街地の中心から離れた荒川の堤防近くにありますね。
なぜだろう。

まして、明冶の初期の行田は10万石の城下町でした。
それが本来高崎本線を通すことを住民が反対したそうです。

そんな市町村は日本全国たくさんあります。

住民の考えが古く拒否をして、今歴史の繁栄から取り残された
市町村、加須市の隣の騎西町もそうです。

私の父熊太郎も大正時代、鉄道に目を付けた一人です。

今でこそ鉄道は経済・流通の中心です。
しかし、鉄道が敷設された明治のころは違います。

建物の屋根は草葺き屋根で火災に弱く、汽車の掃き出す
煙に混じった火の粉を極端に嫌がったものです。

それは、ひとつ間違うと自宅が火災にあうからです。
その結果、村の外れ、街のはずれの集落の少ないところを
選んだ結果だったのです。

それと当時の流通の主役は馬車でした。
馬車引きも自分たちの競争相手として嫌い
しぶしぶ村はずれで妥協したものです。

これで納得。                                                                      

太陽光を推進しよう会の「 新瓦博士」

雨漏り奮闘記 知っているようで知らない話2

2009.06.02 (火)

 http://blog.with2.net/link.php?720512
上記アクセスをクリックしていただけるとブログ掲載の励みに成ります。宜しくお願いいたします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

雨漏り奮闘記 知っているようで知らない話2

面白い話をしましょう。
昭和16年12月8日~昭和20年8月15日
つまり、太平洋戦争。

でも、第2次世界大戦とも歴史の本に書いてあるよ。
待てよ、「大東亜戦争ともいうね」

どうちがうの?
でも・・・・・。

第2次世界大戦は、皆さんも知っているように、ドイツ、イタリア、日本を中心とした枢軸国対イギリス、フランス、アメリカ・オランダを中心とした連合国のアジア、ヨーロッパ、アメリカを含む世界戦争の呼称ですね。

太平洋戦争は日本・アメリカ・インドネシア・オーストラリア・中国・インドシナ半島・ソ連を含む環太平洋の戦争を刺しております。

ところで、大東亜戦争は、
私の友達に、列強によるアジアの植民地化に反対し、
アジアの大東亜共栄圏建国を意味した名前の友人もいたよ。

私の友人には勝子・勝男・洋子・洋など戦争に関係した名前が多かった。
「名前は時代を反映する」その通りだね。

ところで「大東亜戦争」はどうして使われないのでしょう。
まず、大東亜戦争の呼称は昭和16年12月10日大本営政府連絡会議に提出され、決定され、12月12日の閣議で決定された。

でも、これは陸軍の案で海軍は戦争中も「太平洋戦争」と呼んでいたらしい。

しかし、太平洋戦争と大東亜戦争の決定的違いは
当時アジア諸国はタイ、日本を除いてほとんどが植民地、
または、国土を租借させられていた。
その植民地からの解放を意味した「正義」の戦争でした。

もちろん、戦争の過程でアジア諸国を思想的、物理的、国土を侵略したことは否めません。

若き英霊たちは少なくとも、妻、父、母、子供たちのために
戦ったのです。

そして、その言葉は、GHQによって使用禁止になって
今に至っています。

しかも、日本のマスコミはこぞってGHQを賛美し
自虐史観に日本国民を貶めたのです。

その結果、最近までアメリカ・ヨーロッパの舶来信奉がある観がします。

大東亜戦争は正義の戦争です。
インドネシアのスハルト元大統領は日本に感謝し、
来日の時、元上官と会われ感謝の意を表明したそうです。

日本がアジア諸国に統治の3~4年の間に義務教育性を施行したことは今のアジアが躍進したことにつながっているのも事実です。

大東亜戦争は決して悪いことばかりしたのではありません。
良いことも沢山しております。

もう一度言わしていただきます。
大東は戦争は正義の戦争です。

ファイル 217-1.jpg
今は珍しい大東亜戦争の戦費調達のために発行された昭和17年発行の戦時国債
ファイル 217-2.jpg
「私は貝になりたい」初回のフランキー堺主演のものと50年記念の復刻の「私か貝になりたい」のチケット。
比較してください。50年前の物価を推測できますよ。
ファイル 217-3.jpg
戦争の張本人はこの男だ! こんな読み物も戦争中はあったのです。
時代の流れを感じさせます。
ファイル 217-4.jpg
陸軍の暴走を招いたといわれる「満州帝国」誕生の朝日新聞
ファイル 217-5.jpg
開戦記念日にあたって高村光太郎作の若者を戦場に駆り立てる
エッセイ

太陽光発電を推進しよう!海の中に国道16号かあるの分かりますか

2009.04.06 (月)

太陽光発電を推進しよう!国道って何だろう 2
 http://blog.with2.net/link.php?720512
上記アクセスをクリックしていただけるとブログ掲載の励みに成ります。宜しくお願いいたします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
国道は天皇と帝国陸軍が迅速に移動できるように
制定されたものでした。

そういえば、徳川幕府は関所を設け、また、わざと
橋は船,蓮台、肩車などで渡るようにして、幕府の安泰を図っておりました。
大名行列は大河の場合、船橋といって木船を横に並べ、その上に足場という幅広の板を敷き渡ったものでした。(「国内旅行編 大凧製作と古き江戸川風景」をご覧下さい。船橋の写真を掲載)

明治になって国道ができました。
昔はトンネル・橋を作る技術なく
人と馬に頼って移動していました。

山をぐるぐる回り、大河には船橋を浮かべておりました。

山間(やまあい)の道は登山道しかなかったのです。
其の旧道が今、点線国道として残っています。

現在10本の点線国道が存在しております。
中には廃道になり、苔むして沢になり人の通行不能な場所さえあるという。

それは、国道13号(万世大路)・17号(中山道)・140号(秩父往還)・152号(塩の道)305号(幻の北陸道)256号(秋葉街道)289号(八十里越街道・国道登山道)291号(人も通行不可の国道・清水国道)371号(苔の道)422号(旧街道を結ぶ古道)です。

国道17号も点線国道があるとは思っていませんでした。
17号は首都県の大動脈ですから。

津軽半島の階段国道は339号で佐渡へいってる海上国道は350号でしたね。

海上国道は全部で28本もあるそうです。

16号もそうですよ。千葉県富津港から横須賀までが16号です。

現在フエリーの航路がある所はすべて海上国道です。
北海道函館~大間の279号から沖縄那覇~宮古島まであります。
驚いたでしょう。
海の中に国道があるなんて。

でもいたって簡単。先入観で国道は大型自動車が通行できる道と思っていただけなんですね。

国が管理している陸上、海上すべてと考え直していただけたら嬉しいです。

太陽光を推進しよう会の「 新瓦博士」

バイクも人も通行できない国道しってますか? 雨漏り奮闘記

2009.04.04 (土)

雨漏り奮闘記 太陽光発電を推進しよう!国道って何だろう?
 http://blog.with2.net/link.php?720512
上記アクセスをクリックしていただけるとブログ掲載の励みに成ります。宜しくお願いいたします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

国道って何だろう? そんな疑問を持ったことありませんか?
ずっと以前、佐渡島に行ったとき
佐渡汽船のカーフェリーの船の全容と佐渡島と新潟県の地図があり、佐渡島と新潟を結ぶ航路に国道道350号と記載
びっくりした経験ありました。

また、私の友人で地理の斉藤君がおります。
彼と話をしていて、面白いことを教えてくれました。

尾瀬沼の中を縦断している木道も国道なんだと聞かされ
驚きました。

そんな中で最近津軽半島の突端の竜飛崎の階段国道が有名になっています。

竜飛崎の波打ち際まで下りてみました。          
波濤寄せる断崖にコンクリートで作った道が、ところどころ
分断されていますが周遊していました。
どこに続いているのだろう。

先日、ホームページを新しくしたとき、ひょんなことから
「国道で車もバイクも人の通ることのできない所知ってますか」・・・・
そんな話から「是非この話、ブログに アップしてください」
となって・・・・・。

国道って、道路法に基づいて国が政令で指定したものです。
国道は明治9年明治政府によって定められ、
もともとは1等国道、2等国道、3等国道と区別され
道幅で決まっていた。

国道の起点は日本橋が起点で1等国道は東京と各海港場 結んでいた。
2等国道は伊勢神宮と東京・京都・大坂の陸軍の司令部のあった各鎮台を結ぶものであった。
3等国道は都道府県の県庁所在地と各府と各鎮台を結ぶものであった。

国道のことの始めは、陸軍の移動と天皇の御幸のために制定されたようですね。
こんなことしらなかったでしょう。
この続きはまたにします。

太陽光を推進しよう会の「 新瓦博士

屋根工事報告書 陶器瓦屋根補修・雨樋掃除を工事2

2009.02.17 (火)

屋根工事報告書 陶器瓦屋根補修・雨樋掃除を工事2

 http://blog.with2.net/link.php?720512

上記アクセスをクリックしていただけるとブログ掲載の励みになります。
宜しくお願い致します。

 さいたま市で陶器瓦屋根の雨漏り補修・雨樋掃除工事をしました。
平成20年12月18日から4日間でした。

ファイル 132-1.jpg雨漏り箇所の桟瓦と谷樋を解体しました。

ファイル 132-2.jpg雨漏り箇所に防水紙(ゴムアスルーフィング)を施工しました。

ファイル 132-3.jpg谷樋(ガルバリウム鋼板)を施工しました。

ファイル 132-4.jpg谷樋に谷面戸を施工しました。

ファイル 132-5.jpg谷部を完成。

続く

今回の工事も天井に雨漏りが数箇所発生した事がきっかけでした。お客様のご希望により、補修工事を致しました。

屋根工事職人ルーフ

ページ移動

  • << PREV
  •   NEXT >>