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第2次世界大戦で解読された日本の暗号とアメリカの暗号

2017.12.12 (火)

日本も戦争終結から70年が経過し、戦争の痕もなくなり経済も豊かなりました。太平洋戦争も日本は緒戦のみ華々しい戦果を挙げたのですが、実は米国は開戦前に真珠湾攻撃を知っていて、ルーズベルト大統領は不意打ちを装ったのです。
 当時の日本の経済は破綻寸前だったのです。石油が枯渇し、当時は石油採掘やトラッキングする技術がなかったのです。また、陸軍と国民は米国の物量と経済の豊かさを知らなかったのです。そのため、インドネシアの原油と満蒙の豊かな開拓地が欲しかったのです。

 しかし、フイリッピンを植民地支配するアメリカが、海上封鎖をし、インドネシアの原油を採掘できず、日本は世界恐慌後の経済の立てができず、米国の和解案の最後通告の「ハルノート」は日本人として、受け入れらない条件でした。松岡洋介大使も国際連盟を脱退する意見に傾いたのです。
 もちろん、天皇も東條英機首相も戦争回避を模索したのですが、チャーチルとルーズベルトの密約に米国も舵を切った事実を知らなかったのです。そして、日本の連合艦隊は、陽動作戦と穏密行動で真珠湾攻撃を決意したのです。ヒトカップに集結し、北南へと別れ、その後は一切打伝せず、緒戦での攻撃は大成功に終わったのです。
 私たちがラスベガスからモニュメントバレーに行ったときに、インデアンの村の記念館に立ち寄ったのです。アメリカの暗号がインデアンのナホバ族の言語を乱数表にし、文字は英語を使用していることとは思いもしなかったのです。
 日本では今でも知られていないことでした。それにしても、日本軍の暗号は開戦7日前に解読されていたのです。ヒトカップ湾を出港した連合艦隊、および南仏印(ベトナム、カンボジヤ)の陸軍にも連絡取れず、解読されたまま大東亜戦争に突入したのです。これでは、経済的格差だけでなく負けるべきして負けた戦争だったのです。

 これも、アメリカのルート66に行って解ったのです。個人旅行だったから知りえた事実です。通常のツアー旅行では行くことのない小さな記念館に立ち寄ったからです。もし、日本軍もアイヌ語を乱数表にしてら、でも、日本は敗戦によって、平和憲法でき、貿易の振興と湾岸地帯に経済の拠点を設けることが今日の発展につながったのです。

マサイ族の知られざる日本人

2017.12.05 (火)

 マサイ族はケニア・タンザニアに20~30万人が住んでおります。もともとは、タンザニアに住んでいた先住民族をことを言うのです。
 私たちが、2010年8月にアフリカ専門のツアー会社[道祖神」でケニアに行った時です。ジープで国道らしき道路をマサイ・マラの国立公園に向けて飛ばし、原っぱに座って雑談している女性たちにカメラを向けて撮影したのです。そうすると怒ったように、手を横に振ってお金をせびる振りをしたのです。撮影代をよこせと言っているのでしょう。車は疾走しどうにもならないとあきらめた様子でした。
 ホテルにつきました。コーテージにプールまであるのに驚きました。お洒落なホテルです。花壇にはサボテンの花が大小植木の様に一面に植えられ、花をつけて日本の豪華なホテルを想像させるのです。
各コーテージには風呂まであるのです。
 夕方6時ごろサファリの時間になったので香港で合流した5人が迎えのジープに便乗し出発です。ジープの中で宇都宮市の田村さんの話を聞くうちに、この人は何だと思ったのです。国会議員や都の職員人々を、彼らは馬鹿揃いとか曲者と「けなす」のです。
 自分は天才と自慢するのです。それも我々は初対面同志なのです。恐る恐る田村さんに探りを入れたところ、小池百合子さんが環境大臣時代に諮問機関の1人だったそうです。
 栃木県で8社を経営している社長さんで、日本カメラ協会の副校長も歴任していることが解り納得したのです。

 そんな話をしているうちに、シマウマ、ダチョウ、オリックス、インパラが目の前に姿を現し妻と二人で驚きの連続でした。ジープは屋根が開閉式でカメラの撮影に恰好です。ケニアは国全体が2000mくらいの高地にあって、8月というのに風を切ると寒いのです。乾燥していて、気候は快適そのものです。
 チーターが現れたのです。運転手があそこあそこと指をさすのですが妻が双眼鏡を覗いても見えません。木の上に2頭いて、周囲を見渡しているのです。驚くことにマサイ族は裸眼で4.0の視力だそうです。これには驚きました。やっと見つかりましたが、400mmの望遠レンズで撮影できる距離です。田村さんはコネクターをつけて撮影です。
 撮影ができジープが移動しました。象の群れが通り過ぎようとした時です。ヌーの群れの1頭が突然走り出したのです。時間が止まり、あたりの空気が一変したのです。周りのインパラ、ダチョウ、オリックスなども金縛りにあったように呼吸を止め一瞬周り全体に静寂の時間が過ぎたのです。
 ヌーは安全な場所に行って止まり、チーターは、ブッシュに肩を落とし元の時間に戻ったのです。象の群れは、何もなかったように小象を囲み元の隊列のまゝ森に消えていったのです。日が暮れ、今日のサファリを終え興奮冷めやらぬまゝホテルに帰りました。
 ロビーにアフリカの画集が何冊かおかれており、パラパラと除きました。そこにはマサイ族の戦士と結婚した永松真紀さんの写真集がありびっくりしました。彼氏はマサイ戦士でジャクソンというのです。真紀さんは、一目惚れしたそうです。
 マサイ族は、ほとんどの人が誕生日を知らないそうです。時間の感覚がなく、子供、戦士、大人、長老そんなくらいの時間感覚なのです。
彼らは、牛、ヤギの所有頭数で貧困が決まり、また、どれだけ高く飛べるか、戦士になってライオンの脳天割をどれだけしたかで男の価値が決まるそうです。
 マサイ女性のファッション感覚は、素晴らしくびっくりするぐらいです。また、子供たちは目が済んでいて無邪気です。驚くことに英語が日常会話なのです。西欧の帝国主義の影響受けたのでしょう。
 マサイ族も、豊かな生活を求めて英語と営業力で青年がホテルにて営業をし、多くのマサイ部落から自分の村に観光してもらいたく促すのです。入村料や撮影代、むしろに広げたお土産を女性たちが売っているのです。しかも、ホテルで契約が決まると携帯電話で村の長老とやり取りするのです。
 村では、太陽光発電で携帯電話を充電するそうです。豊かな村は1件に1枚のソーラーがあるのです。貧しい村は、歩いて1時間程かけて充電所に行って充電するのです。
 各家庭に電気はなく、土と牛糞を練り固めた1戸建てに10畳くらいの広さの住まいで5~7人ぐらいが一緒に住んでいるのです。
また、ホテルに勤務するマサイ族の「アケミさん」と日本女性の名前に似た女の子が私たちに食事を運んで来たのです。
 彼女に日本語で話しかけ、すぐに日本語を覚え翌朝に日本語で語りかけてきたのです。凄いと驚き日本のTVで見たのですが、この名前の由来は明治・大正の文豪川端康成氏が小説に西洋の名前を日本人流に使用したのが始まりとか聞いたことあり、その時も驚くやら納得するやでした。
 旅をして分かったことです。旅は知識の泉です。

貧しさも観光資源。カンボジアのトンサップ湖         

2017.11.30 (木)

 アジア最大の湖「トンサンップ湖」そこには貧困にあえぐカンボジア人が水上生活を営んでいます。
 私が1960年代の大学生の時、海外旅行で韓国に行き、当時はまだ仏教徒が数多くいました。釜山近くの梵魚寺にって驚いたのです。仏様に土下座の恰好での礼拝しておりました。
 カンボジアのアンコールワットを旅行した時も同様でした。アンコールワットから、トンサップ湖いく途中、車窓から眺めた風景は、内戦の傷跡が残る風景と蟻塚の景観でした。ガイドさんの説明では電線が引かれている家は富裕層なのです。貧困層は、葦で日陰を作り昼間は縁台で寝転がっているのです。
 働く職場もなく、その日暮らしの生活です。また、内戦で地雷があちこちに埋められ、足のない人、手のない人が5~6人で音楽を奏でたりしながら観光客に恵んでもらって極貧の生活に耐えているのです。
 
 日本でも昭和20年前半に傷痍軍人が白衣とゲートルに軍靴姿で上野公園などでギターやアコーディオン弾き、戦闘帽に小銭を恵んでもらう姿を見かけたのです。トムサップ湖までの道すがらよく見る風景でした。内戦の悲惨さがどれ程か日本の平和の大切さを感じました。。
 トムサップ湖に行ってまた衝撃を受けました。パンツも履いてない6歳くらいの子供が遊んでいるのです。しかも、小学生くらいの子供が私たちの観光船を操り大人がお金を集金していたのです。
 ネパールもチベットも同様で、小学校すら頭のよい子が一家で1人代表して行くのす。現実に働く子供が多いのです。働き手でない女の子は、医者にもかかれず生きることさへ叶わないのです。エベレストに行ったとき、女医のO女医さんがアジアの現状を教えてくたのです。そのことを思い出しました。また、カトマンズでのことです。お兄さんが路上のカーバイトの灯の下で弟に勉強を教えていたのです。
 船がランチのレストランへ行く途中です。10歳くらいの女の子が3m位の錦蛇をマフラーのように首に巻き付け、写真を撮らせチップをめぐんでもらっているのです。毒蛇でないことは解っているのですが私にはできません。このトムサップ湖には何千人という水上生活者が共存しているのです。湖の水は飲料水になったり、洗濯場であったり、トイレの役割(厠)もしているのです。
 また、水上生活者は観光客に日用品・土産物を売り生活しているのです。まさに、貧困を売り物にして、経済のサイクルがなりたっているのです。すべて内戦による被害者なのです。

 日本でも有楽町の数寄屋橋界隈(銀座)に焼夷弾で焼け野原になった戦後、水上生活者が外堀や33間堀川(現在は見えません)を行き来するタイル写真が数寄屋橋に残されています。そこには米兵が闊歩する姿が克明に写され日劇も写っておりました。
 どの国も同じ道をたどるのです。日本の戦後復興は世界に類を見ない速さで進んだだけです。日本人に生まれたこと自体が幸せなことと再認識しました。

教訓:戦後2~3年数寄屋橋の銀座にも水上生活者が存在し、日本人は知恵と労働力、女性の活躍で復興を成し遂げたのです。

アンカレッジのタワーホテルと越後屋

2017.11.27 (月)

 1964年3月27日アラスカ大地震が発生、マグニチュード9.2と計測されたのです。
 東日本大震災は、マグニチュードは9.0でした。アラスカの大震災は、人口密度が低いので被害は死者131人に止まったのです。震度では0.2上回ったのです。この大地震でさへ、アンカレッジのタワーホテルは被害がなっかたのたのです。
 私たちは、今回もインターネットで予約して、息子と連絡を取りながら宿泊したです。
 余談ですが、アラスカ鉄道は、黄色とブルーの列車で、食堂車の天井・屋根部分はガラス張りでデナリ山がよく見えるのです。しかも、車掌さんは揃えたようなハンサムです。女性なら一目ぼれをするほどです。
 この列車は1日1往復のためにデナリ山がよく見えるところで30分以上も写真撮影のため停車するのです。
 話は変わりますがアンカレッジのタワーホテルはキッチン用品や電子レンジがあって自炊ができるのです。しかも、照明用のキャンドルがあらゆるところにあって、北極のホテルの雰囲気がとっても良く演出されているのです。
 しかも徒歩5分位のところに越後屋という日本のスーパーがあって、生け簀にカニや北極海の魚介類が泳いでいるのです。
 店内には箸や紙皿、醤油、みりん、お酒、お米は何種類も所狭しと並んでいるのです。生け簀の蟹、魚を指定するとその場で茹でてくれるのです。私たちは、蟹を茹でてもらいみりん、醤油などで食したのです。
 生きたカニをその場でゆでて頂いて食べるおいしさは格別です。最後に軽飛行機をチャーターし、デナリ山々や氷河、雪原そして断崖絶壁に生息するヤギの群れや海の生き物のラッコ、シーライオン、パフィン、トナカイを機上から追いかけるのです。私たち3人でアラスカの大自然を満喫したのです。息子と過ごした幸せの時間でした。でも、このアラスカの大地を軽飛行機の足元から冷気が侵入するのを見ている翼をの隙間から見たり、風防を通してみる冬のデナリ山(マッキンリー)人間を飲みこむ牙を持っていることが、夏山を見ても納得するくらい恐ろしいほど、翼をぶるぶる震わせ、もぎれるような音を立てて稜線すれすれに接近するのです。
 アッツと声を上げたくなるぐらいのパイロットはこれでもかと3人を冷や冷やさせるのです。我々が驚く様を喜んでいるようでした。アラスカのパイロットの腕前は世界一でそうです。飛行機が操縦できないと買い物行けないのです。

アラスカ、カトマイの豪快な鮭釣り

2017.11.23 (木)

 凍てつく大地・アラスカは、野生動物をはぐくみ、そこに繰り広げられる動物連鎖は、アリューシャン・マジックと呼ばれます。アリューシャン・マジックはプランクトンが大発生して、南の海で子育てを終えたクジラがなん百頭と集まり、またプランクトンを求めて種々の魚群が集まるのです。小魚を求めて、ハシボソミズナギ鳥が何万羽と集まり、動物連鎖の過程で最後に南鳥島から阿呆鳥が飛んでくる壮大なドラマです
 私たちが知り合ったトラッパー伊藤さんは、5月の連休にフェアバンクスの駅に降り立ち、みぞれ交じりの天候で、寒さを堪え乍ら駅のベンチで一晩明かしたのです。寒さに震えながらアリューシャン列島の付け根カトマイに向かったそうです。
 私たちも、息子とともにヒグマが鮭とる瞬間が見られる事の情報を昨年の旅行でアンカレッジの旅行案内所で聞いたのです。
 フェアバンクスから、アラスカ鉄道に乗って更に軽飛行機でカトマイに乗り継いだのです。軽飛行機を乗り継ぎながら2度目の飛行場(ただの広い空間)に降立ったときです。無数のカモメが騒いでおりました。見るとヒグマの姿を目撃したのです。突然ヒグマが湖沼の鮭の群れに飛び込んだのです。鮭を咥えて出てきました。望遠レンズで撮影できたのです。一瞬の出来事でした。
 アラスカは、ほとんどの家庭で軽飛行機(価格は中古機は250万円くらい)を所有しているのです。なぜかというと、アンカレッジから北極海に抜ける国道がブルーベイまで1本しかないのです。
 この広大な凍てつく大地と湖沼群は、東西1500kmを超える移動には飛行機に頼らければならないのです。軽飛行機はフロートのついた軽飛行機で湖が係留場所なのです。
 このアラスカは、湖沼の数のほうが人口より多いのです。湖沼が飛行場にかわるのです。私たちは軽飛行機を乗り継いで目的地のカトマイにつきました。もう、降り立った場所からクマに注意の警告板です。
 説明文には鈴や話し声でクマが近づか無いようにする旨が書いてありました。飛行場には私たちのほか3、4人が釣りの道具を持って待っていました。案内人がやってきて、ジープに乗って釣り場に行き、私たち3人もモーターボートに乗って釣り場に行ったのです。
 鮭が「早く釣って」とあちこちで跳ねていました。気持ちは早く釣りたいと焦るばかりです。私たちはポイント変えながら、2時間ぐらいルアーフィッシングをしたのです。息子は、72CMの鮭を釣り上げました。私も何度かの引きがあったのですが、ルアーフィッシングは初めてで、私と妻は失敗の連続で釣り逃がしました。
 キャビンに行き、釣り上げた鮭と一緒に撮影したのです。キングサーモンも釣れるとの事で鮭もメザシに見えてしまいました。いかに大物が釣れるかです。
 モーターボートを運転していた方が、釣り上げた鮭を3枚におろしドライアイスの発泡スチロールのボックス入れて日本まで持ち帰られるようにしてくださいました。彼は、大学教授で休みの時に趣味で案内をしたり、モーターボートの運転手をしてるそうです。私たちは、カトマイの近くのヒグマの棲息する国立公園に行ったのです。別のレンジャーの案内で、4mくらい高さの木製の展望台に行った時です。
 水面すれすれの桟橋に差し掛かった時、紅サケが群れを成して泳いでいたのです。撮影しようとカメラを構えました。すると女性のレンジャーが飛んできて、その時100~150mのところでヒグマが昼寝をしていたのです。
 ヒグマは、寝ていても匂いで襲ってくるから危険です。指定されたところ以外は危ないです言ったのです。息子とレンジャーの話ではバンガロウに泊まったお客さんが、夜中にトイレに行こうとしたらドアの向こう側にヒグマがいて、一晩中トイレを我慢した話をしてくれたのです。
 当然、公園内といえどヒグマは野生の動物ですからいつ襲うかわかりませんと息子に言ったそうです。
 インホメイションセンターで聞いたヒグマの餌場に行ったのです。高低差が5mから6mくらいの滝があって釣り人がいました。鍵がかかり入れません。
 レンジャーに聞くと、鮭をを求めて朝早くクマが集まるそうです。ところが一般の人は時間でしか入場できないそうです。入場許可証が必要で、プロカメラマンなどの特殊な人以外は無理だそうです。
 でも、カトマイのあちこちでクマは見られるのです。この滝のあるカメラのポイントは諦めることにしました。帰りの時間になったので軽飛行機を乗り継いでホテルの戻りました。鮭釣りの面白さを味わった1日でした。
息子も今では昭和大学で准教授なり教鞭を執っておりますが 、私たちにとっては息子です。そう言えば熊は峰の30km以上離れた死体の肉をかぎ分け、死体の置き去られた場所を見つけ、その日と空腹から守るのです。それは、直線距離ですので 、我々の道路移動間隔ですと50km優に超えることです。途方もない嗅覚の動物です。麻薬犬、災害時の救助犬も人間の60倍の嗅覚で救助したり、捜索しているのです。昆虫や動物プランクトンの生態系の解明を急いで訳なのです 。

アラスカの大自然の白熊に消えた星野道夫さんの話

2017.11.20 (月)

 最初(2010・8月)にアラスカを旅した時、妻が足を捻挫してどうしようかを悩んでおりました。私は、[チャンスは後ろ髪のない美人だよ」ど無理やり連れだしたのです。
 成田に行ってその悩みが吹っ切れたのです。広い飛行場の中で、杖をついて歩いておりました。スチアーデスさんと思われる方が「足は大丈夫ですか。車いすをご用意させていただきます。」近づいてきました。妻に車椅子を「どうぞ」と言って、通関手続きも乗務員専用の窓口まで案内してくださたのたのです。それからアンカレッジの空港まで全部連絡行き届き、車椅子が行くところ全部手配されていたのです。
 それだけではないのです。アラスカの列車、デナリ公園内のバスまで全工程を車椅子または補助具が手配済みだったのです。先進国の旅は、何不自由なく快適に過ごすことができました。
 2人旅でしたので時間的余裕が有りとっても助かりました。
アンカレッジの旅行案内所で、どんなスケジールにしようかと立ち寄りました。
 そこには素敵な写真集が置いてありました。20万頭のカリブー(トナカイ)の移動の写真です。早春の壮大なドラマです。見てみたい。そんなたわいもないことを妻とつぶやいていると、アラスカのガイドさんのような方が「星野道夫」さんといって、命がけで白熊の写真を撮影された日本人ですと教えて下さいました。いろいろ質問すると白熊の撮影に命を落とされたそうです。
 私は、厳冬期のマッキンリー散った植村直己さんを思い出していたのです。
 日本人は、命がけで自分の人生をかけた人たちが百年も前からいたことを思い出したのです。南極点を目指した白瀬中尉もそうでした。また、今も若者が南極点を単独で走破して、白瀬中尉の足跡を辿る若者の話をTV見る機会がありました。
どうしてなんだろう。自分の脳裏にかすめたのです。遥か20万年前に日本人の祖先が、命がけで丸木舟(?)や葦船に乗って何千と言う古代人が黒潮をに乗って、あるいは、厳冬期の氷結したサハリンから海をわったって来たそうです。
 日本人のDNAが冒険心を描きたてのでしょう。アラスカには大自然が手付かずのまま残っているのです。私たちが、アラスカ鉄道に乗り、バスを乗り継いでデナリ公園に着いたのです。空がどんより曇り太陽が見えません。これは、半年前に自然発火の煙が雲のようになり曇天模様に見えるのです。
 米国人は自然に発火したものは、自然に任せ、消えた後に芽吹いた植物は、また別の生態系を作り、自然の循環に任せるのが一番良いと考えているからです。
 日本人には考えられない思考です。アラスカの広さがどれ程かわかるような気がします。アラスカには、幽霊林といわれる火災で真っ黒に焼けただれた森林地帯があるのです。
 翌朝、デナリ公園の観光に出かけました。トイレ休憩の時です。ガイドさんが面白い話をしたのです。トイレに寄った時です。ヒグマが現れ、みんな驚いて、トイレも行けずバスに駆け寄ったのです。一番先に逃げた人が男性だったそうす。もうこうなると恐ろしさが先に立って、レディーファーストどころでないそうです。「いつクマがでるかわかりません。終わった方からバスへ戻ってください」とのことでした。
 バスの車窓から、間近にグズリー、カリブ、ヘラ鹿、ドールシープいろいろな動植物を見て回りランチです。ボリューム満点のステーキでした。私たちと一緒のバスに、膝枕を持った2人のお相撲さんのようなおデブさんが乗り込んでいました。ランチの後、山小屋に着き英語での説明に意味不明でしたが、2組に分かれ3時間の自由行動です。まあいいやと思いながらついていくと、清流があって浅いざるみたいな道具を渡されました。昔、砂金が採取されたらしく、他の人の真似をしてやってみました。砂金は取れなかったけれど、採種した石をハンマーで割ると銅の混入した黄銅鉱という石でした。
 佐渡島の砂金採りと違い、大自然の中での砂金採りは豪快でした。雄大なデナリ山やコケモモの自生する景観に圧倒されました。バスで公園の出発点につき、回遊バスでキャビンに戻り、楽しかった一日の思いふけりました。
 星野道夫さんの命日は昭和42年8月8日です。なぜ、彼は、白熊に追いかけられたか。ちょうどこの頃が、冬眠をする白熊にとって脂肪を蓄えなくてならない時期なのです。白熊にとっては、人間も他の動物も餌にしか見えないのです。また、彼は写真家魂がうずいて、より感動するシャッターチャンスを狙ったのでしょう。
 自分の撮影に対する気持ちと比較して思わざるにいらません。私も写真家田村さんとケニヤに行った時のことです。朝日で輝くキリマンジャロを狙って、ホテルのゲートを出て、200mくらい行った時です。ホテルのガードマンが、駆け足で飛んできて猛獣は遠くにいても、すぐ人間に追いつき危険ですからホテルに戻ってくださいと叱られた経験があるのです。
 星野道夫さん。も、夢中になりすぎて、望遠レンズを覗いてライフルを手にする暇もなかったのだと思います。星野道夫さんのご冥福をお祈りいたします。
 また、写真家田村寛一さんが夕日で逆光なった樹木に鷲が泊まり、ジープの運転手に90cm右と指図されていた事を思い出し、プロは違う視点で撮影されたことを思い出しました。 

東條英機・ヒットラーそしてスターリン

2017.11.16 (木)

 地球1周の旅で見聞した東條英機そしてヒットラー・スターリンのポツダム会談の舞台裏の話です
 この3人ほどいろいろな情報が交錯し真実が見えてきません。私は、ポツダム、モスクワ、サンペテロスブルグ、ベルリン、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ミュヘン、パリ、ロンドン、ウイーン「ゼーグロッテ」の地底湖を旅してみて、私は昭和天皇、東條英機がいかに戦争回避に努力したか知ったのです。
 日本の官僚の悪弊は責任を誰かに擦り付ける印象があり、その策にはまったのです。東條英機の東京会談での大東亜共栄圏の構想は、インドのチャンドラポーズを初め、アジアの植民地の首脳が戦争のさなかに植民地解放を願って参集したのです。
 東條は、近衛内閣の総辞職と天皇の依願受け組閣を引き受けざるを得なかったのです。私は社会の授業でドイツがヨーロッパの列強国から第一時世界大戦の賠償額が天文学数字で学校の学費さえも、ボストンバックに一杯に詰めこまなければ払えない状況を歴史で学んだのです。
 イタリアは、植民地がなく世界恐慌のインフレに経済が破綻していたのです。日本も満蒙を属国にしなければならないくらい経済が破綻寸前でした。石原莞爾、板垣征四郎が1個師団で1月足らずで満洲国を併合したのです。2人の構想は、日ソ不可侵条約の下で黒竜江の国境を越ず、日本の併合国朝鮮から満洲を侵攻したのです。しかし、日本陸軍は、タブーを破って超えてしまったのです。
 その為、スターリンは昭和20念8月8日、ポツダム宣言を受諾した日本に野村大使通じ宣戦布告したのです。その前の事ですが、ヒットラー率いるドイツ軍が破竹の勢いでモスクワに侵攻したのです。
 日本陸軍は、有頂天になってドイツ軍はシベリアの黒龍江省まで攻め入ると誤認したのです。ところがスターリンは、モスクワ市に火を放ち3日3晩で街のすべてを焼き尽くしたのです。
 ドイツ軍が厳冬中で食糧補給を絶たれ、凍死するもの相次ぎナポレオンの二の舞をしたのです。戦意、戦力をなくたドイツ軍は、おそらくナポレオン軍と同じく10分の1の戦力になりベルリンに敗退したのです。
 日本軍は、そのことを知らず国境の黒竜江を超えてしまったのです。
この事実は、宣戦布告なしにソ連を侵害し戦争の緒を作ってしまったのです。
 また、スターリンはレーニンを追い落とし独裁体制を引き、戦時中の食糧不足、また、反スターリン派を殺し100万人以上といわれる人命を奪ったのです。
 ヒットラーもまた何百万人といわれるユダヤ人、ホローコーストをアウシュヴィッツやビルケナウの殺人工場で毒ガスによる殺害したのです。
 話は変わりますが、日本軍は南京事件の南京城の解放の時、中国人を1人も殺害してないのです。
しかし、中国の捏造記事は30万人以上中国人を虐殺したと中国国民と世界のメディア騒ぎ立てているのです。
それどころか、日本軍は南京市民に対し食料を分け与えたのです。
 これは、昭和天皇の御心と東條英機そして松井大将「皆同胞」の寛容と慈悲の現れだったのです。南京の市民は、数日のうちに20万市民が25万人膨れ上がのです。この南京大虐殺は、外国の従軍記者の間にさへも虐殺の記録がないのです。
 杉原千畝氏は、ユダヤ人を満洲に安住地を与えたわけです。そこには天皇、東條英機もビサ発給に協力していたのです。
 ところが陸軍が暴走し、黒竜江を越境をしてしまい、東條・杉原・松井大将の努力を水泡に期したのです。ヨーロッパ戦線で、ヒットラーが第2次世界大戦の発端を作ったのです。
ドイツは古くからユダヤ人・ホローコーストを国家レベルで、異常なほど罪のない人々まで迫害したのです。
 東條はいま語られている人物像でなく、近衛内閣、天皇の推挙があって内閣を組閣したのです。東條は、最後まで戦争回避に尽力したのです。しかし、米国大統領ルーズベルトがハル・ノートといわれる日本国の飲めない条件を出したのです。しかも日米開戦を一番望んだのはイギリスのチャチールです。
 答えは、当時のロンドンは、ドイツ・メッサーシュミットの空爆に陥落寸前であったのです。しかし、アメリカはモンロー主義を貫き、他国に対し干渉せず、干渉されずの思想でした。ウオール街に始まった世界恐慌はニュデリー政策で解消に向かっていたのです。ヨーロッパ各国も植民地支配のよってどうにか切り抜けていたのです。
 ところがドイツは天文数字の賠償金で、国民はインフレに喘いでいたのです。日本はハル・ノートを突き付けられて、石油・ゴムの禁輸政策によって生存権さえも奪われかねない状況下でした。
 まして、日本の暗号は解読され、尾崎・ゾルゲの国際スパイ事件によって真珠湾攻撃までソ連を通じて、米国大統領に報告されていたのです。
 また戦勝国はポツダム会談でソ連は北海道の分割(釧路、留萌の北側)望んでいたのです。
 アメリカのルーズベルトはこれを拒否しアメリカ1国の占領下に日本を置たのです。
 ミュヘンは、ヒットラーの若かりし頃、画家を志したか場所で軍事参謀本部があったところです。今、観光客や市民に時を知らせるからくり人形があります。ベルリンも第2次世界大戦のベルリンの壁などの遺跡がたくさんあります。
 パリは、ヒットラーによってすぐ陥落したためフランスは戦勝国から外されたのです。私たちが行ったゼーグロッテの地底湖は、戦況悪化した時にメッサーシュミットの秘密工場として利用されたのです。
 余談ですが、イタリアのムッソリーニは同盟国のヒットラーを信用してなっかたのです。ヒットラーまた、日露戦争で勝利した日本人を黄禍(黄色い猿)として信用していなかったんです。
あの有名な極東軍事裁判は、皇太子の誕生日に東条英機7人の絞首刑が確定し昭和天皇の誕生日に4月29日(現みどりの日)に絞首刑が執行されたのです。
しかも、交際法上は全員無罪ですが、アメリカによって見せしめの極東軍事裁判だったのです。

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