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記事一覧

屋根職人のたわ言と屋根の文化論

2017.12.13 (水)

今でこそ屋根さん、瓦屋さんと呼ばれますが、今から1400年前、、板葺きの都「藤原京」から平城京遷都にあたって多分火事で焼けない西安の都を模したのでしょう。
今の韓国から3人の瓦を製造する人たちを招聘にあたって、瓦博士の称号でした。戦後間もないころ、東京が戦災から復興にあたって瓦屋根を施工する人を葺き師さんと呼ばれていたのです。
瓦屋根が一般化するに従い瓦屋さんになってしまったのです。
全瓦連の役員やブロック長の中には紫綬褒章受章者や国宝級の屋根の復元にあたる屋根工事を進める人々の中には、学者級の人材もたすう存在します。
薬師寺の西搭の復元にあたった文化勲章受章者「西岡常一」氏は職人はなのもないところから原寸お越しをして、建立するのや、学者は我々が作ったものを評論するるだけだ、西搭は300年後に東搭と木のやせ蟇股の隙間のチジミが止まった時に合うのだと言っていたそうです。1300年の歳月はこの姿を保つのだと述べていたそうです。
このように職人の中には、物つくりが好きでたまらない人たちもいることを脳裏に納めていただきたいののです。
こんなたわ言も、ここだけだと思うと寂しいのです。世界遺産を守り受け継ぐのは職人なんです。
東京駅も初めの姿に戻したのも職人たちなのです。残念なのは正面の駅長室の出入り口は、ラストエンペラー「愛新覚羅溥儀」を昭和天皇が御出向かいした場所であり、2.25事件の銃墟がある歴史の生き証人の場所が新しくなってしまったのは残念です。
ところで、私が日本、世界の屋根を見渡して、和形棟を飾る文化は、日本独特のものです。だんだん和風の住宅が洋式に変化していく姿に寂しさを覚えるのです。特に東日本大震災を境に軽い屋根を求める姿は、日本の故郷が消滅の危機にさらされているのです。
スイスで天然スレートの村落、上丸・下マルのスペインの街並み、フランスなどの平らな、石灰岩の豊富なスペインンの白い住宅、みな統一した町並みを形成し、美しさを誇っているのです。
外国人にとって、茅葺屋根は、奇異に感じまた、美を感じることでしょう。川越の蔵作り誰の目から見ても美しいのです。京都の二年坂、三寧坂の町屋は瀟洒に映ることでしょう。また、清水寺や出雲大社や厳島神社の檜波葺きの建物は日本人にも美しさを感じさせることでしょう。
皆、屋根屋の仕事です。ところがです。私たち職人を見る目は全員とは言いませんがさげすんだ目で見ることが多いのです。だけど「たかが屋根や、されど屋根や」のです。私たちが受け継がなければ、日本の故郷は破壊され、世界遺産も消滅するのです。日本の各地に、いろいろな祭りがあります。祭りの衣装は職人の作業着姿なのです。
皆さんが使う言葉にどんぶり勘定というのは、職人が前がはだける着物姿を覆う為に帯の代わりに袋のついた前掛けを見ると思います。あれを下どんぶりと言って、袋からお金を出し入れしたりしていたのです。それからどんぶり勘定が来ていたこと知ってましたか。

第2次世界大戦で解読された日本の暗号とアメリカの暗号

2017.12.12 (火)

日本も戦争終結から70年が立とうとしております。日本は緒戦のみ華々しい戦果を挙げたのですが、実は米国は真珠湾攻撃を知っていて、不意打ちを装ったのです。
日本の経済は、破綻寸前だったのです。石油が枯渇し、当時の石油探査と重石油をトラッキングする能力がなかったのです。また、陸軍と国民は米国の物量と経済の豊かさを知らなかったのです。
そのため、インドネシアの原油と満蒙の豊かな開拓地が欲しかったのです。
しかし、フイリッピンを植民地支配していたアメリカが、海上封鎖をし、日本のインドネシアの油原を採掘できず、世界恐慌の経済の立てなをせず、また、米国の和解案の最後通告の「ハルノート」は日本人として、受け入れらない条件でした。松岡洋介大使も国際連盟を脱退する意見に傾いたのです。もちろん、天皇も東條英機首相も戦争回避を模索したのですが、チャーチルとトルーマン大統領の密約に米国も舵を切ったのです。そして、日本の連合艦隊は、陽動作戦と穏密行動で真珠湾攻撃を決意したのです。ヒトカップに集結し、北南へと別れ、その後は一切打伝せず、緒戦での攻撃は大成功に終わったのです。私たちがラスベガスからモニュメントバレーに行ったときに、インデアンの村の記念館に寄ったのです。アメリカの暗号がインデアンのナホバ族の言語を乱数表にし、文字は米国の文字を使用していることとは思いもせず、日本では今でも知られていないことでした。それにしても、日本軍の暗号は開戦7日前に解読されていたのです。ヒトカップ湾を出港した連合艦隊、および南仏印(ベトナム、カンボジヤ)の陸軍にも連絡取れず、解読されたまま大東亜戦争に突入したのです。
これでは、経済的格差だけでなく負けるべきして負けた戦争だったのです。
これも、アメリカのルート66に言ったおかげであり、個人旅行だったから知りえた事実です。通常のツアー旅行では行くことのない小さな記念館に立ち寄ったからです。もし、日本陸軍もアイヌ語を乱数表にしてら、でも、日本は敗戦によって、貿易の振興と湾岸地帯に経済の拠点を設けることが今日の発展につながったのです。

インドの添乗員の自宅で歓迎されて。

2017.12.08 (金)

2017年4月8日インドに、ベンガルトラを求めて10年前に、黄金のトライアングルに旅行に行った時、名刺をやり取りしたのを思い出し、早速、名刺のメールの宛名にベンガルトラ見に行きたい旨の想いを送ったのです。こんな経緯でシャルマさんの自宅訪問になったのです。彼の自宅はデリーあったので、デリーの宿泊日に合わせ訪問したのです。
彼の自宅は、マンションでした。家族全員で歓迎してくれたのです。
しかも、自宅の中を見せ頂いたのです。ヒンズー教のお祈りの神様が安置してあり、カレンダーもヒンズー歴がありました。
また、シャルマさんが、日本での日本語の勉強をして帰国す時お土産として、買い求めた日本人形も飾ってありました。シャルマさんの両親、叔父さん、ご子息、みんな集まって、お母さんの手料理で食事をしたのです。
ご子息たちとシャルマさんの通訳で会話が弾み、わたくしが、これから10年後の45%の既存の職業が失われれる話をしたところ、娘さんが今、舞踊の勉強をしているのですが大丈夫ですかと聞いて来たので[大丈夫です。」私は日本の歌舞伎を思い出したのです。
また、娘さんが習っている古典舞踊と近代のモダン舞踊を披露したい旨を仰ったので是非とお願いしたのです。音楽に合わせて踊りだしたのを見て、びっくりしたのです。踊りは指先と爪先のしぐさ、そして目が命なのです。私は彼女を見て私はどちらも行く決まっていたからです。彼女が何曲を披露していただいたので、日本に帰ったらメールで送る旨を
伝え、そろそろと言ってシャルマ邸を後にしてホテルにもでったのです。なかなか体験できない体験と個人旅行でしたので体験できたインドへの旅でした。

マサイ族の知られざる日本人

2017.12.05 (火)

マサイ族はケニア・タンザニアに20~30万人が住んでおります。もともとは、タンザニアに住んでいた先住民族をことを言うのです。
私たちが、2010年8月にあるアフリカ専門のツアー会社でケニアに行った時です。ジープで国道らしき道路をマサイ・マラの国立公園に向けて飛ばし、原っぱに座って、雑談している女性たちのカメラを向けて撮影したのです。そうすると怒ったように、手を横に振ってお金をせびる振りをしたのです。
撮影代をよこせと言っているのでしょう。車は疾走しどうにもならないとあきらめた様子です。ホテルにつきました。コーテージにプールまであるのに驚きました。洒落たホテルです。花壇にはサボテンの様な植木が一面に植えられ、花をつけているものもあって、日本の豪華なホテルを想像させるのです。
格コーテージには、風呂まであるのです。夕方6時ごろサファリの時間になったので、香港で合流した5人が迎えのジープに便乗し出発です。
田村さんの話を聞くうちにこの人は何だと思ったのです。国会議員や都の行政の人々を、彼らは馬鹿そろいとか、くせ者とかけなすのです。
自分は天才と自慢するのです。それも、我々初対面なのです。
恐る恐る田村さんに探りを入れたところ、環境大臣の小池百合子さんの
諮問機関を拝命しているそうです。また、栃木県で8社を経営している社長で、日本カメラ協会に副校長も歴任していることが解り納得したのです。
そんな話をしているうちに、シマウマ、ダチョウ、オリックス、インパラが目の前に姿を現し、妻と二人で驚きの連続です。ジープは屋根が開閉式でカメラの撮影に恰好でした。
しかし、ケニアは国全体が2000mくらいの高地にあって、8月というのに風を切ると寒いのです。乾燥していて、気候は快適そのものです。
チーターが現れたのです。運転手があそこあそこと指をさすのですが、ミツコが双眼鏡を除くのですが見えません。木の上に2頭いて、周囲を見渡しているのですが。
驚くことにマサイ族は裸眼で4.0の視力だそうです。これには驚きました。やっと見つかりましたが、400mmの望遠レンズでやと撮影できる距離です。田村さんは、コネクターをつけて、撮影です。
やっと、撮影できて、ジープは移動しました。象の群れが通り過ぎようとした時です。ヌ~の群れの1頭が突然走り出したのです。時間が止まり、あたりの空気が一変したのです。ヌ~は安全な場所に行って止まり、チーターはブッシュに肩を落とし、元の時間に戻ったのです。象の群れは、何もなっ方ように小象を囲みかえって行きました。
日が暮れ、今日のサファリを終え、興奮冷めやらぬまゝホテルに帰りました。
ロビーにアフリカの画集が何冊かおかれており、パラパラと除きました。そこにはマサイ族の戦士と結婚した永松真紀さんの写真集がありびっくりしました。
マサイ戦士はジャクソンというのです。真紀さんは、一目惚れしたそうです。
マサイ族はほとんどの人が出生日を知らないそうです。時間の感覚がなく、子供、戦士、大人、長老そんなくらいの時間感覚なのです。
彼らは、牛、ヤギの所有棟数で貧困が決まり、また、どれだけ高く飛べるか、またはライオンの脳天割をどれだけしたかで、決まるそうです。
マサイ女性のファッション感覚は素晴らしくびっくりするぐらいです。
また、子供たちは目が済んでいて、無邪気です。また、驚くことに英語のできる青年がホテルに自分の来村するように営業に来るのです。
しかも、契約が決まると携帯電話で村のものとやり取りするのです。
村に太陽光発電で携帯電話を充電するそうです。貧しい村は、歩いて1時間かけて充電所があって、そこまで行って充電するのです。各家庭は電機はなく、土と牛糞を練り固めた1間の10畳くらいの住まいに5~7人ぐらいが住んでいるのです。
また、あたもの良いマサイ族はホテルに勤務し、私たちに食事を運んできた女性は、教えた日本語をすぐに覚えたのです。どこのも頭脳明晰な人はいるのだと感心させられたのです。

貧しさも観光資源。カンボジアのトンサップ湖         

2017.11.30 (木)

アジア最大の湖「トンサンップ湖」そこには貧困にあえぐカンボジア人が、水上生活を営んでいます。
私が大学生の時、韓国いったのです。その頃の韓国は、まだ仏教人が数多くいました。釜山の近くの梵魚寺にって驚いたのです。土下座のカンボジア人と同じく、韓国も土下座の仏教でした。
カンボジアのアンコールワットも同様でした。
アンコールワットから、トンサップ湖いく途中、車窓から眺めた風景は、内戦の傷跡が残る風景と蟻塚の景観でした。ガイドさんの説明では、電線が引かれている家は富裕層なのです。
貧困層は、葦ずで日陰を作り、昼間は、縁台で寝転がっているんです。
働く職場もなくその日暮らしの生活だそうです。また、内戦で地雷をあちこちに埋め、足のない人、手のない人が5.6人で音楽を奏でたりしながら観光客に恵んでもらって極貧の生活に耐えているのです。
日本でも昭和20年前半に、傷痍軍人が上野公園などに見かけたのです。
トムサップ湖までの道すがらよく見る風景でした。戦争の悲惨さを否応なしに刷り込まされのです。
トムサップ湖に行ってまた、衝撃を受けました。パンツも履いてない6歳くらいの子供が遊んでいるのです。しかも、小学生くらいの子供が木造の船を操り、大人がお金を集金していたのです。ネパールと同様で小学校は出来のよい子が1人代表で行くのだと思います。働く子供が多いのだと思います。働き手でない女の子は、治る病気でもお金が高いと生きることさへ叶わないのです。ネパールのエベレストに行ったとき、女医の生越さんが教えてくたのです。そのことを思い出思い出しました。また、お兄さんが路上のカーバイトの灯の中で教えていたのです。船がランチのレストランへ行く途中です。10歳くらいの女の子が3m位の錦蛇をマフラーのように首に巻き付け、写真を撮らせ、お金をめぐんでもらっているのです。
毒蛇でないことは解っているのですが、私にはできません。このトムサップ湖には何百人という水上生活者共存しているのです。湖の水は飲料水になったり、洗濯場であったり、トイレの役割(厠)もしているのです。また、水上生活者は観光客に日用品・土産まで売り物しているにです。
まさに、貧困を売り物にして、経済サイクルがなりたっているのです。内戦による被害者なのです。

アンカレッジのタワーホテルと越後屋

2017.11.27 (月)

1964年3月27日アラスカ大地震が発生、マグニチュード9.2と計測さえたのです。
東日本大震災は、マグニチュードは9.0でした。アラスカの大震災は、人口密度が低いので被害は死者131人に止まったのです。震度では0.2上回ったのです。この地震で、アンカレッジのタワーホテルは被害がなっかたのたのです。
私たちは、今回もインターネットで予約して、息子と落合い、宿泊したのえす。
余談ですが、アラスカ鉄道は、黄色とブルーの列車で、食堂車は、ガラス張りでデナリ山がよく見えるのです。
また、車掌さんは、カッコよくて、ハンサムで女性なら一目ぼれをするほどです。
1日1往復のためデナリ山がよく見えるところで30分も写真撮影のため、停車するのです。
アンカレッジのタワーホテルはキッチン用品や電子レンジがあって自炊ができるのです。また、キャンドルがあらゆるところのあって、北極のホテルの雰囲気がとっても良いのです。
また、徒歩5分位のところに、越後屋という日本のスーパーがあって、生け簀にカニや北の海魚介類泳いでいるのです。
店内には箸や紙の皿、醤油、みりん、お酒、お米は何種類も所狭しとあるのです。
生け簀の蟹、魚を指定すると料理や茹でてくれるのです。私たちは蟹を茹でてもらい。みりん、醤油などで食したのです。
生きたカニをその場でゆでて頂いて食べるおいしさは格別です。
最後に軽飛行機をチャーターし、デナリ山々や氷河、雪原また、断崖絶壁に生息するヤギの群れや点のような海の生き物のラッコ、シーライオン、パフィン、トナカイを機上から垣間見たのです。
3人で、アラスカの大自然を満喫したのです。
息子と過ごした幸せの時間でした。

アラスカ、カトマイの豪快な鮭釣り

2017.11.23 (木)

凍てつく大地アラスカは、野生動物をはぐくみ、そこの繰り広げられる植物・動物の連鎖は、アリュウシャン・マジックと呼ばれます。
アリュウシャン・マジックはプランクトンが大発生して、南の海で子育てを終えたクジラがなん百頭と集まり、また魚群集まるのです。
小魚を求めて、ハシボソミズナギ鳥が何万羽と集まり、最後に南鳥島から阿呆鳥が飛んでくる壮大なドラマです
私たちが、知り合ったトラッパー伊藤さんは、5月の連休にフェアバンクスの駅頭に降り立ち、みぞれ交じりの天候で、寒さを堪え乍ら駅のベンチで一晩明かしたのです。それでカトマイに向かったそうです。
私たちも、息子とともに、ヒグマが鮭とる瞬間が見られると、昨年の旅行でアンカレッジの旅行案内所で聞いたのです。
フェアバンクスから、アラスカ鉄道に乗って、さらに軽飛行機でカトマイに乗り継いだのです。途中の軽飛行機を乗り継ぎ、2度目の飛行場に降立ったときです。無数のカモメが騒いでおりました。見るとヒグマがいたのです。
突然ヒグマが、湖沼の鮭の群れに飛び込んだのです。鮭を咥えて出てきました。望遠レンズで撮影できたのです。一瞬の出来事でした。
アラスカは、ほとんどの家庭で軽飛行機(価格は中古機は250万円くらい)を所有しているのです。
なぜかというと、アンカレッジから北極海に抜ける国道が1本しないのです。
あれだけ広大な大地で、1500kmを超える東西の移動は、飛行機に頼らければならないのです。軽飛行機はフロートのついた軽飛行機です。
また、湖沼の数のほうが人口より多いのです。湖沼が飛行場にかわるのです。
また、乗り継いでカトマイにつきました。もう、降り立った場所からクマに注意の標識があるのです。説明文には鈴や話し声でクマが近づか無いようにでした。
飛行場には私たちのほか3・4人が釣りの道具を持っていまた。案内人がやってきて、ジープに乗って釣り場に行き、私たち3人もモーターボートに乗って、ポイントに行ったのです。
鮭があちこちで跳ねていました。気持ちは早く釣りたいと焦るばかりです。ポイント変えながら、2時間ぐらいルアーフィッシングでした。息子は、70CMくらいの鮭を釣り上げました。私は何度かの引きがあったのですが、ルアーフィッシングは、初めてで取り逃がしました。
キャビンに行、釣りり上げた鮭と一緒に撮影したら、キングサーモンも釣れるので72cmの鮭もメザシに見えてしまいました。
いかに大物が釣れるかです。
モーターボートを運転していた方、鮭を3枚におろしドライアイスを発泡スチロールのボックス入れて日本までもっ大丈夫のようにしてくださいました。
彼は、大学の教授で休みの時に、趣味で案内をしたり、ボートの運転手をしてるそうです。私たちは、カトマイの近くのヒグマのいる国立公園にいったのです。レンジャーの案内で、4mくらいの木製の展望台に行ったのです。
桟橋に差し掛かった時です。紅サケが、群れを成して泳いでいたのです。
撮影しようとカメラを構えました。すると女性のレンジャーが飛んできて、100~150mのところでヒグマが昼寝をしていたのです。
ヒグマは、寝ていても匂いで襲ってくるから危険です。指定されたところ以外は危ないです。」言ったのです。息子とレンジャーの話では
バンガロウに泊まったお客さんが、夜中に、トイレに行こうとしたらドアの向こうにヒグマがいて、一晩中トイレを我慢した話をしてくれたのです。
公園内といえど、ヒグマは野生の動物ですからいつ襲うかわかりませんと息子言ったそうです。
インホメイションセンターで、聞いたヒグマの餌場に行ったのです。高低差が5mから6mくらいの滝があって、釣り人がいました。鍵がかかり入れません。レンジャーに聞くと、鮭をを求めて朝早くクマが集まるそうです。ところが一般の人は、時間でしか入場できないそうです。入場許可証が必要で、プロカメラマンなどの特殊な人以外は無理なそうです。
でも、カトマイのあちこちで.クマは見られるのです。この滝のあるカメラのポイントは諦めることにしました。帰りの時間になったので軽飛行機を乗り継いでホテルの戻りました。鮭釣りの面白さを味わった1日でした。

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