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ムッソリーニが考えたバチカン市国、世界最小の宗教国家

2017.10.03 (火)

世界には、小さな国家が太平洋の島礁やカリブ海の中にもあります。
しかし、小さいながら世界に影響力持つ国家は「バチカン市国」置いて他になりません。
バチカン市国の国民は、現在は800に人にも満たないのです。しかし、スイスの傭兵を雇いっているのです。昔は、騎馬隊も存在したのです。
現在は、外国の国賓が訪問の時、儀仗兵の役割を果たしているのです。
今ではバチカン市国は、29ヶ国に大使を派遣し、貨幣、切手を発行し、国際放送も行っているのです。
そして、国家そのものが世界遺産になり、イタリアの至宝が沢山収蔵されております、
コンクラーベ(教皇の選挙)の行われる天井画は、ミケランジュロの最後の審判がドーム天井に描かれています。
スイスの傭兵の服装はかっこよく1914年に制定されたそうです。スイスの傭兵は、スイスは永久中立を宣言しているので傭兵というより、警察官の役めをはたしています。
なぜ、バチカン市国の建国は不思議なのです。ムッソリーニが三国同盟国を結んだドイツのヒトラーを信じていなかったのです。
なんかの本で読んだのですが、ヒットラーは一時的かもしれませんが、イタリアに侵攻したのです。
その為1929年2月11日教皇ピウス11世の全権代理枢機卿とムッソリーニの間でイタリアから独立したのです。
ムッソリーニは、ヒットラーも独立国のバチカンには侵攻ないだろうと、イタリアの国宝をバチカン全土を美術館のように考えたのです。
元々は、バチカン市国は城壁に囲まれておりました。
今では、その国境も80cmくらいのポールと白線が目印です。
私たち24名は、1.2.3と声を合わせて越境したのです。
普通は気づかないうちに、国境を超えてしまうのですが、二村さんと一緒に声を張り上げて大股の儀式化して国境越えをしたのです。
皆さんもバチカン市国の国境越えをカメラに自撮りはいかがですか。
バチカンには気づかない逸話が沢山あります。切手を発行していますが、バチカン市国の国内のみ使用できない切手なのです。
また、近くのイタリア人は、わざわざバチカンの郵便局に手紙等を持って行くのです。配達の速さは、ローマ市内のポストに投函するより相手側に早く届くのです。
スイスの傭兵は1500スイスフランで支払われ、日本円にして11万円くらいの安月給です。
でも心配ないのです。国保の免除、住宅費、食費の保証がある上に、イタリアなど近隣諸国の職業訓練が受けられ、IT技術の勉強もできるのです。また、奨学金のような制度もあって人気があるのです。言語は、ラテン語を公用語として使い、江戸時代までの日本の漢字みたいです。
私も知らなかったのですが、イタリア鉄道と連絡する鉄道があるのです。
低額のコインはユーロでなくバチカン市内でしか使用できなできない自国通貨を鋳貨しているのです。
800人の国家ですが、立派な国家としての体裁は確立しているのです。

コロッセオの歴史の変遷

2017.10.02 (月)

胆管癌の手術を、69歳の時、埼玉癌センターの坂本先生の執刀で行い、翌年1月「イタリア10日間の旅」に私は気乗りがしなかったのですが妻の希望で体調が良くなかったのですがツアーに申し込みました。
イタリア北部のミラノの空港に降り立ちバスで南下したのです。
最後のロー市内の観光で、体調も少しずつ良くなってきたのです。
ローマに行った方でコロッセオは絶対に行くところです。
今回はツアー旅行でしたので、コロッセオの観光したのですが、中に入ることは叶いません。写真を撮影しようとカメラを向けましたが、大きすぎて広角レンズを持参しなかった為にファイインダー入りませんでした。
2度目のシルクロードの旅では、時間的にもゆとりがあったので中に入って驚きました。
また、それぞれの説明板を見ながら驚きの連続でした。
フランスのポン・デ・ガール(ガール水道)と同じ巨石の積み上げにクレーンを使用し、耐震性持たせるために、鉄製の丸棒で結石したのです。積みあげた石灰石のブロックは、10万㎥を超えたのです。
接続の丸棒は300トン以上と言われております。
巨石と巨石の接着は、すり合わせた後、ヘドロのような粘土と石灰と植物の種の絞った油をこね合わせ、巨石同士の間隙に流し込んでいたのです。
しかし、起源300年ごろコンスタンチヌス帝が一神教のキリスト教を政治に生かし、国民を統治し国教化したのです。
この方法は、名古屋の都築瓦店さんが「広域災害助け合い」の会合で清州城の信長塀(築地塀)の復元工事の工法と同じ施工なんだなと思いながら観光したのです。
コロッセオは50,000人の観客が観戦でき、無料の入場整理券が配られ、現代のシステム的に作られていたのです。
また、水道が引き込まれ、小さな飲み水用の噴水が何か所も設けられていたのです。
今はありませんが、滑車を使用して吊り上げ式の麻布で作られた日除けテントもあったのです。
昔、船が進水式に使用した巻き上げと滑車が転化されているのです。
観客席は、5階建ての建物に納まり、階級によって、席が決まり今でも当時の頭文字が刻まれた石があるのです。
当然ことですがトイレの設置が必要でした。トイレはアレクサンダーの父が作ったペラの遺跡(紀元前345年ころ)にも、水洗トイレがあったのです。
コロッセオは暴君ネロで有名な黄金宮殿の庭の一部で岩盤まで掘り下げた池を転用したのです。
暴君ネロの財政の無駄使いの財政悪化、ローマの大火の再建、内戦の財政悪化、何処の国でも同じですが当時は金本位財政でした。
紙幣が価値を持つようになったのは、つい最近の事です。ニクソンアメリカ大統領がドルを不換紙幣してからです。
暴君ネロの黄金館の巨大池を拡大し、岩盤の上にコロッセオは建設さてたのです。
目的は緊縮財政で、庶民の不満のガス抜きのために極悪非道の猛獣と戦わせる施設を作り、だましの政治を執行するためでした。
たった8年で工事を完遂したのです。こうして円形闘技場は完成したのです。
こけら落としに5000頭のアフリカから連れてきたライオン、ヒョウ、野牛、キリン、象、蛇、イノシシ、ハイエナ、オオトカゲ、アジアライオン、トラなどでした。
人間との戦いは、剣闘士、死刑執行を待つ罪人と戦わせたのです。
手の込んだイベントが100日も続きローマ市民を熱狂させたのです。時代によって人間同士を戦わせたのです。
また、時代によって死刑の執行の場として利用し晒し者を見せたのです。
コロッセオは岩盤上に建設されていたので水をはってラスベガスの屋外で海賊船同士の戦いのように海戦の模擬が行われたのです。
また、時代が下がるとキリスト教を邪悪な宗教とみなし殉教の場所に仕立て上げたのです。しかし、コンスタンチヌス帝が、起源300年ごろ帝国が、ヨーロッパからアフリカに及びイギリスまで拡大し多神教では、人心が掌握ができず、反乱、内戦に備えることができず、一神教にし反乱を起こすことがないと確信し、キリスト教を国教にしたのです。
コロッセオがキリストの祈り場所になったこともあるのです。また、ローマの帝政時代末には、場末のバザールにもなったのです。土砂がつもり使用できなくなると、安アパートになり、賃貸住宅群にもなってしまったのです。
しかも、東ローマ帝国になってイスタンブールに遷都するころは、ローマ市内はペストががやり、人口40,000人までになってしまったのです。
もちろん、ローマに反旗を翻す国が多発し、自らのも内部規律の乱れ、クーデターの勃発で敬虔なキリスト教徒のみが踏みとどまったのです。
第2次大戦から平和が訪れ、今は、ローマは観光立国として、世果中からからインバウンドが訪れローマの財政等を潤しているのです。

アッピ街道(ローマ街道)今も使える?

2017.09.30 (土)

シルクロード15000kmバスの旅も、ローマ郊外の小雨降る中、レストランでランチを取ってから、徒歩で20~25分ぐらい歩いたのです。
アッピ街道までの住宅は、生け垣があって、チョットした遺跡もお墓ある風変わりなルートでした。
また、ローマ独特の地中海松のお屋敷もあるのです。もちろん、生け垣だけでなく石灰石の独特の石塀も存在し、日本の田園調布の住宅街と栃木県大谷市の住宅街を足したような旧街道を歩いたのです。
アッピ街道はギリシャのアレクサンダーが東方遠征に出征した少し後の時代(紀元312年)です。
このアッピ街道は、ローマが領土拡大の野望を持ち始めたころから、道路の延長が拡大し、すべての道はローマに続くで、ローマ全土だけでなくガリア方面からオーストリアの国々まで軍用道路は伸びたのです。
現存するローマ街道は、500km以上の及ぶのです。
起点は、コロッセオのある道路を挟んでローマの官庁街が所からです。
軍用道路は、民間の物資の流通にも使用され、人の行きかいはもとより、物流道路として使用され、ローマ経済は拡大し、より大きなインフラ整備ができたのです。
このローマ街道は、幅4m、歩道が両側に3mもあるのです。当時の馬車幅を考え、馬車がすり替えできたのです。
また、構造的にも驚くべき建設がなされているのです。
構造的にも特筆すべき設計になっているのです。石道の構造は大きな割栗を2mの下層に敷き詰め、上層部に砂と砂利の砂地業になっているのです。上層部は今のピンコロ石を大きくした石また玉石の大きいものが敷設され、排水処理は中央部分を膨らませ、今の日本のアスハルト道路の様になっているのです。
古代中国の幹線道路のように急使が馬を交換させ、また急使が休憩する場所が設けられたのです。10ローマ・マイル(15km程度)でした。
ローマ道路の石畳化に付随して蹄鉄が馬のひずめを守るために蹄鉄の技術も発展したのです。トルコ中央部のアナトリア文明は青銅で作られた蹄鉄だったのです。
元々、自然の馬は、湿地帯や草原で生き延びていたものを家畜化したのです。家畜化の歴史は5000年の歴史があるのです。
アッピ街道は監察官のアッピウスが設計・監督し、ローマの軍用道路道路として作られたのが始まりなのです。
何処の国も同じだと思いますが、国道とは皇帝の御幸と帝国の陸軍を素早く移動させる道路だったのです。
津軽半島の突端に階段国道があることは観光パンフレットでご存知の方も多いと思います。
しかし、尾瀬沼の中にも会津裏街道の国道があるのです。当然山岳地帯にも、また海の中にも国道は存在するのです。
古代ローマも同じ考えだと私は考えております。
アッピ街道は街道の女王と異名を持つのです。なぜ、そのように呼ぶのか私なりに想像しました。古代ローマ帝国の軍隊、皇帝は男性でした。査察官のアッピもまた男です。皇帝の街道では流通も滞り、人々の往来もためらわれます。軍隊でさへ遠慮がちです。
日本の街道で「おなり街道」があります。将軍が権現様(徳川家康)の日光に参拝専用の道路で、庶民には使用させなかったのですが、将軍街道とは言いません。この、命名と同じ理屈と考察している一人です。
日本の明治政府の作った国道は、多くが砂利と砂を敷き詰め作ったのです。しかし、街道、道は国の発展の基礎である考え方は、国交省も認めるところです。
アッピ街道のすごさに敬服し、2000年間使用できた理由は、石畳であること、基礎のすごさのある事は特筆すべきです。
私たちは、旧アッピ街道のローマ水道が跨ぐ、城門ののようなドォルーゾ門をくぐり、サン・セパスティーノ城壁に行って見ると信号機が付き、車の交通量も多く現在の準幹線道路になっていたのです。
西安の城壁の門と同じと思いながら、カメラのシャッター押してました。
この城門沿いに、地中海松が植えられてアカマツの白の城壁、松の緑と赤い幹の松並木はアッピ街道の女王の美しさでした。

ダモルテスの駅舎の木製の椅子

2017.09.30 (土)

ダモルテスはマニラか220km離れた駅の終点で、日本軍は兵站・陸軍兵のほとんどをマニラ港から輸送したのです。
逆にリンガエン湾から野砲、高射砲、弾薬などは搬入されたのです。
バギオに司令部を置いた山下奉文はリンガエン湾を利用し、馬車を使い陣を敷いたのです。
ダモルテスは、ラウニヨン州にあって、スペイン統治時代いかに重要な都市だったか駅舎のすごさから読み解くことができます。スペインは室町時代末期から江戸時代の安政・嘉永などアメリカが日本にやってきて通商条約を迫っていた時代まで統治していたのです。
同時にアメリカは、ミクロネシアの島々と同じく、フイリッピンの統治に手を伸ばしたのです。
マゼランは世界一周の航海で「胡椒」の島として、欧米に宣伝されのです。
そして、マゼランはフイルッピンの滞在中、フィリッピンの部族長を欺き、スペイン王のキリスト布教拒否され、殺害されたそうです。
世界一周の航海で、脚気、食料不足、航海放棄、マゼランの死、同僚同士の争いで、スペインまで帰還した船はたったの2隻だったのです。

ダモルテスの駅舎は屋根は第二次大戦の機銃掃射で飛ばされたものの、DAMORUTESU文字や橋脚はアーチを描き素晴らしいのです。このダモルテスの駅舎も今はフイリッピン政府から払い下げられ、数人が修復して暮らしていました。
線路は取り除かれ、元駅舎の頑丈な椅子に座りながら、秀子さん
が住居人のひげを生やした初老の話しによれば、宗春も、もしかしたらこの椅子に座り、一時の休憩をしたかもしれないと言うことでした。
すごく頑丈な椅子を光子は、買い求めて、自宅に置き父の思い出にしたかったと帰宅してから私に話したのです。
光子にとって、父の思い出は、父自身が彫った「判子の朱肉を入れ容器」しか今は残っていないのです。
秀子さんの説明によれば、日本からの戦友の遺骨収集団、慰霊の旅に訪れた戦友達が立ち寄ると「これだ、これだ。変わってない」しみじみ思い出にふける光景が目にされたそうです。
私たちが訪れたダモルテスの駅舎は、夏草が生い茂っておりましたがそれは素晴らしく絵になっていました。
このような姿を凛としているというのでしょう。
秀子さんが私たちにプレゼントした、宗春の思い出にひったった「心に残る慰霊の旅」のでした。

慰霊の旅で知った義父宗春とダイエー創業者中内功氏

2017.09.29 (金)

日本軍は石油を求めて、インドネシア、仏印(フランス領インドシナ)
マレー半島に進出するためには、どうしてもシーレーンを確保しなければならなっかったのです。
日本軍は、本間中将指揮下の兵士とアメリカのマニラ市の無防備都市宣言で、無血開城の状況でした。
アメリカは、マニラ市内の市民に対する被害を最小限に抑えるために、総督マッカサーの選択した軍事作戦でした。
日本軍は、最初の思惑以上に戦況は良く、マッカサーが司令部を置くバターン半島沖のコレヒドール島に戦闘は移ったのです。
米軍は飢えとマラリア、脚気、赤痢に悩まされ、ついにマッカサーは「アイ・シャル、リターン」の言葉を残して、再起を図ったのです。
このような戦争の中で、義父宗春は体が弱く丙種入隊、ダイエーの創業者「中内功」氏は普通の人と違い心臓が右側にあったので「内臓逆位」と診断され、陸軍2等兵として入隊し、フイリッピンにおいて、第4大重砲隊に配属されたのです。
。多分、呉軍港から輸送船に乗船したのでしょう戦況が差し迫った昭和19年に戦地に赴いたのです
母幸子は光子を連れて、2等列車に乗って、2日間かけ呉に行ったと聞いております。
母にとって、夫宗春との長女「光子」抱かせる最後のひと時だったと思います。そして、宗春は帰らぬ人となったのです。
私たちが、2010年8月訪れたのです。
宗春は昭和20年1月に米軍の艦砲射撃には助かったものの3週間足らずで病死または機銃掃射の前に戦死したのです。
ダイエーの中内氏は非常に強運の人です。
もう20年以上前に読んだ「松下とダイエー」の本の中でロシアンルーレット(拳銃に1発の銃弾込めて引き金を引く命を懸けた「懸け」をやった人物です)をやったのです。
また、当時松下は販売店、消費者、メーカーが皆幸せになることを常に意識した人物です。一方やダイエーは豊富な物流、安さを売り物に当時の流通革命を起こしたのです。そして、日本人が豊かになった実感を持ったのです。その後、日本は価格破壊と進み、今になっては豊かさが薄れてきたのです。そして最近なって松下とダイエーは和解したのですが、今はイオンの傘下に入り名前まで消滅したのです。
フイリッピンの戦闘において、中内氏は最後まで戦い、高射砲が破壊され、陸軍と海軍の混成部隊に再編成され、歩兵部隊と合流したのです。山下奉文大将が9月3日降伏文書に調印までバギオの山岳で中内氏は歩兵部隊のみんなと日本のために生きて期せずと武士道を貫いたのです。

バターンの死の行軍。マッカサーの見せしめ。

2017.09.29 (金)

マニラの空港から市内の繁華街を抜け、大西中将が、最後の日本を救う死をもって、立て直す神風特攻隊基地、マバカラマットの特攻基地があったのです。少し車で走ると国道沿いにバターン「死の行軍」のブロンズの大きな像があるのです。
サンフエルナンドからマリベレス捕虜収容所までの88km傷病兵まで、行軍を真夏のフイリッピンで強行させたのです。
ブロンズ像は、アメリカの捕虜兵隊を銃剣の銃把でコズク姿、土足でけるしぐさを表しているのです。
賛否両論ありますがマッカサーのタテ籠るコレヒドール要塞が陥落し、マッカサーは米兵に対し決して降伏するなと言い残し、アイ・シャルリターンといって去っていったのです。
米兵は飢えとマラリアと傷病でさんさんたるものでした。
日本の指揮官たちは投降兵は25,000人と見込んでいたのですが、米兵の投降兵は75,000に膨れたのです。日本軍には投降兵の人数の見合うだけの運送手段がなく、徒歩の行軍しかなかったのです。1時間3キロの行軍として1泊しているのです。戦後日本のジャーナリストが歩いたのです。そんなに無理な行軍でなかったそうです。傷病兵や体力が衰弱した米兵と違いますが。
これも、アメリカのプロバガンダという人もいます。私には事実は解らずじまいで添乗員の秀子さんも教えてくれませんでした。
もちろん、マラリアに掛かった米兵・衰弱した米兵にとっては死んだ兵もいます。
それで、バターン「死の行軍」と私たちは教えられたのです。
マッカーサーは私たちが思うほど人情家ではありません。
それは、日本兵が最後まで集団で戦ったバギオ戦の700人を超える投降兵の扱いです。正に「目には目をです」
マッカサーの復讐はフイリッピンにおいて、父親「アーサーマッカサー」「ダグラス・マッカサー」と2代にわたるフイリッピン総督者です。その恨みもあったのでしょう。
もう一つの「死の行軍」です。山下奉文総司令官が投降し、降伏調印した昭和20年9月3日がフイリッピン部隊の終戦なのです。
フイリッピンの最高峰ポログ山2300m周辺を死守していた700名あまりの将兵にバターン「死の行軍」と同等の55km(山岳地帯の険しい山道)マラリアの傷病兵、機銃掃射の負傷兵、飢えで衰弱した兵まで、水一滴、食料も与えず、9月の熱帯フイリッピンを歩かせたのです。
しかも、寝ずの行進です。死者が出ようとお構いなしの行軍です。
戦争の残酷さ、非情さなのです。
そして、戦後昭和49年マバラッカト生まれのデイソン画伯が神風特攻隊の偉業を誇りに日本人の元航空飛行隊長や元航空艦隊隊長の協力を得ながら自宅に特攻兵の肖像画書き上げ、美術館にして後世の記憶に残したのです。
当時の世界観は、白人優位の世界でした。日本人がロシアに勝った有色人種を恐れたのです。
欧米列強は帝国主義の破壊を恐れ、日本人を黄禍と洗脳していたのです。
東条英機は、東京会議を開き、孫文(中国)、チャンドラポーズ(インド)、他植民地の指導者が戦時の東京に参集したのです。
かの画伯は白人の横暴に日本人が戦争、特攻隊としてぎりぎりの抵抗だったのです。彼は、日本人が統治国に対し教育を行った結果として今のアジアの繁栄があることを結んだと言われたそうです。
いかに、教育が大切なことを戦争で蹂躙されても国の人でさえも分かっているのです。
そういえば、インドネシアのスハルト大統領が、国賓として来日した時戦争当時の上官にあって、握手して喜んでいる写真を見た記憶がよみがえってきました。
また、台湾総統の蒋介石も戦争の賠償を求めなっかったのです。
学徒出陣で出兵した李登輝総統も死線をくぐっても親日派です。
日本の教育がおかしい様な気がしてならない一人です。

学徒出陣と穴掘り(防空壕)とサンフェルナンド岬

2017.09.26 (火)

私たちが訪れた時のリンガエン湾の長閑な風景でした。
秀子さんの話を聞くうちに、日本軍の壮絶な戦いがどれほどか、義父宗春が砲弾と機銃掃射の前に苦しみ亡くなっていったか想像しました。
米軍の艦砲射撃で3週間を待たずして死んだのです。
サンフェルナンド岬の突端に、今は中国風の東屋があるのです。
このフイリッピンでも、中国人のインバウンドの爆買いに期待しているのでしょう。
夏になれば、遠浅のリンガエン湾と山下奉文が指揮するバギオ避暑地(距離にして55KM)に地元のフイリッピン人たちが避暑に訪れるのです。
このサンフェルナンド岬は風光明媚な街で、近くの庁舎の前庭に、
今でも第二次世界大戦の塹壕保存されております。
その塹壕は、横穴、竪穴、そして通信兵などが連絡でき、しかも司令官の塹壕は6帖ほどの広さになっているのです。1ッ所の塹壕に数十人おり、米兵と戦っていたのです。
その塹壕を、素手や棒きれで学徒出陣者たちが来る日も来る日も掘ったそうです。
私と妻は湿気とひやりとする横穴の奥に、百合と菊の花を手向け、お線香あげて、死者の霊に手を合わせたのです。
学徒出陣者は、戦況が悪化する中、兵力不足を補うために昭和18年10月21日、秋雨降る神宮外苑で、関東地方の周辺の(国立大理系、東大全学生を除く)70,000人の学徒出陣者の壮行会が行われたのです。
学徒出陣者は日本国内だけでなく当時占領地の満州(ハルピン、新京)台湾(台北市)朝鮮(ソウル)上海市などからも20歳以上の大学生が各戦場に出兵していったのです。
学徒出陣者の多くは、裕福な家庭で育ち、頭脳明晰者でした。そのため、航空隊の操縦者として、訓練され、特攻隊に配属され、撃墜され帰らぬ人になったのです。
また、通信兵として、最前線に立ち、ほとんどが知能を必要とする部署に配属され、入隊当初から将校として前線に立ったのです。
学徒出陣者として、帰還したのもの中から戦後の日本を戦争体験を通じて国政に係り、日本を引っ張り、20年間でオリンピック、万博そして、世界の中で日本が戦勝国のソ連・中国・イギリス・フランスよりも発展したのです。
学徒出陣者の中に、竹下登、宇野宗祐、村山富市のなどの総理大臣が出たのです。
東条英機の訓示にたいし、答辞を呼んだ江橋慎四郎は東大の教授になり、鹿屋体育大学の学長になったのです。
そのほか、台湾の李登輝総統も学徒出陣者の生還者なのです。
しかし、彼らは「生還を期せず」の言葉通り、戦後の中傷、デマにも言い訳せずと物も言えない戦死者に対し、沈黙を守ったものが多かったのです。
そのほかにも,渡辺美智雄、塩川正十郎や俳優の西村晃、茶道の千玄室もいたのです。
当時の大学生は、日本の人口の5%にも満たない知識層だったのです。最後は、ほとんどが最後の砦、フイリッピン戦線で戦闘した者が多かったのです。
20万近い兵士が70,000人までになるほど飢えと病気と機銃掃射、艦砲射撃の前に戦死したのです。最初は日本人に好意を抱いていたフイリッピン人まで、食料の調達に軍票(日本軍が発行した紙幣)の価値が5分の一に下落したのです。この事実は1ヶ月の日本兵の給料が1日で無くなってしまうのです。
映画で見たのですが、まさか事実だと思えないようなことがあったのです。
生存者の日本兵の中には、戦死者の靴,皮のベルトを3日かけて、煮て食べたそうです。
もちろん、青いバナナはもとより、多くの兵がバナナの幹まで空腹に耐えられず食べたのです。
そういえば、柏の廃寺を親からの80,000円近くの相続と宝くじの高額当選で購入し、戦友の為に供養した住職の依頼で鐘つき堂の瓦施工したのです。彼の自費出版の本の中で、戦友の人肉を食べた話をしてくれたのです。
フイリッピンの戦いは最後は、自給自戦をしいれれたのです。

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