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記事一覧

結城紬の話

2019.06.27 (木)

結城は戊辰戦争の激戦地です。結城は平安時代から続く織物の産地として有名です。
私たちは仕事の合間、お茶を小さな紬小屋で頂きました。どうも薄暗いので建主に訊ねたところ織り目を確認するために「チラチラ」しない影光が良いことを初めて知ったのです。糸が真綿の(蚕の繭玉・絹糸で光る)ため、横糸の模様が型紙と確認出来ないのとのことでした。それで納得しました。

結城紬と関係無いのですが、飲酒運転もうるさくない時代でしたので仕事が終わると豚の粗肉を鍋でコトコト煮た酒の魚で酒を飲む毎日でした。
この辺りの結城紬は農閑期の副業として細々と歴史を刻んでいたのです。ところが明治6年(1874年)ウイーン万国博覧会で絶賛あび、価格が高騰すると生産者が増え、粗悪品が出回り困った政府は規格を定めたのです。
1.地機で織ること。
2.糸は真綿で織ること。
 国が決め良品を輸出でき、伝統が途絶えなかったのです。結城紬の機織りの見学は結城市商工会で尋ねると良いかと思います。

鏝絵と伊豆長七そして久喜市菖蒲栢間の鏝絵職人

2019.06.27 (木)

伊豆松崎の長八美術館に行く機会に恵まれ見学したのです。驚きました。米粒位の小さな鏝絵(拡大鏡使用で見学)から、寺院の八方睨みの天井鏝絵、彫刻のような立体的な鏝絵などもあって職人冥利に特別な時間をすごしました。

それから10年後位経ち、春日部の田村邸の屋根、壁漆喰工事を依頼されたとき関宿の左官屋さんが屋根の上で立ちすくみ、困惑していましたので、私は「伊豆長八美術館」を見学すること各部の名称が分からないと言われ、神田の古本やを見聞する事を進め、1年の歳月懸けて無事完成にこぎ着け、三枝春日部市長より景観賞を授与されました。
平成20年ごろ、九州に近ツリのツアーでグラバー邸・軍艦島等行く機会に恵まれその後、妻とツアー離れ自分達で九州をレンタカー、特急列車の旅をして別府温泉のホテルで宿をとりました。湯船ある廊下を散策していると鏝絵が何枚も飾ってありました。説明書き見ると伊豆長八の流れをくむ、久喜市菖蒲栢山の左官職人の作品であってビックリしたのです。

帰ってきてからどのくらいだったか忘れましたが日経新聞に栢山の左官職人の記事が掲載されていたのです。彼もまた名人の一人です。彼の作品をと思って光子に相談したのですが「何処に置くの」と一蹴されました。そんな思いもあって、我が家に小さなギャリーを開くキッカケになったのです。

久喜市の偉人と関東大震災

2019.06.26 (水)

本多静六は久喜市菖蒲の産んだ偉人です。彼は「公園の父」と呼ばれ、庭園の設計者であり職人としても活躍し日本の有名な公園の大半を設計、施工しました。日比谷公園を始め、北海道の大沼公園、会津の鶴ヶ岡公園、埼玉の羊山公園、明治神宮を始め、日本の統治下であった韓国の南山公園、尉山公園など数えあげれば100を越えるのです。

NHK大河ドラマ「イダテン」がオリンピックで活躍?した(令和元年 6月)時代です。(主演市川海老蔵、片岡愛之助)

静六はドイツに留学して、西洋の町つくり(公園)を学びました。今の上皇さまと 上皇妃(美智子さま)やアメリカ「ケネデ―駐日大使」や映画: ラストエンペラーの愛心覚羅溥儀を昭和天皇が白馬にお乗りなって「大元帥」の軍服でお迎えした東京駅丸の内広場、御幸通りも清六の設計なのです。

彼は、裕福な菖蒲の農家に産まれましたが、幼少のとき父を無くし多くの借金が舞い込み、折原家は大変になったのです。それでも学問に励み教授から多くの事を学び実行したのです。

最近、田中前市長が菖蒲市庁内に「本多静六記念館」オープンしました。大正12年9月1日の関東大震災で日比谷公園の樹木で火災が鎮火したのです。
 当時の 江藤新平東京市長がこの事実に墨田公園、浜町公園、錦糸町公園をつくり100年の計に備えたのです。
江藤新平は「大風呂敷」と言われ震災を期に、東京をもとに戻すのでなく西洋に負けない都市計画を作成し、皇居を中心に環状道路、昭和(大正)通り、明治通り、靖国通りのインフラ整備したのです。

これらのインフラは幅30~45mの有ったのです。江藤新平の頭の中は常に100年先をみていたのです。
戦後の東京が焼け原に成り、インフラ整備の道路幅は江藤の造った道路幅はそれより狭く20~24mでした。
 長たる者はは100年の歴史に評価されることを考えよ。

防人の小ヶ崎沼(崎玉神社)と石田堤(のぼう城)

2019.06.24 (月)

 現在、防人が別れを詠んだ河川の港(小崎ヶ沼)は場所が特定されていないのですが、岩槻~行田の古墳群の範囲と思われております。利根川の氾濫、蛇行で繰返し防人は移動した「津の港」まで行って家族と別れを惜しんだのでしょう。
この小崎ヶ沼には歴史の教鞭をとった不動岡高校の前田先生と生徒15名位でサイクリングがてら、高1の時に行ったのです。女性の方が多かったのです。♪♪♪。
なんの知識も無く、埼玉古墳群をみて(現在のように整備されていない時代)前玉神社や石田堤行きました。
前玉神社(式内神宮)の一対の灯籠の右側に「崎玉の津に居る船の風を いたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね」…。左の灯籠に「崎玉の小ヶ沼に 鴨ぞ翼きる 乙の尾にふりける 霜を掃ふとにあらし」防人「高橋虫麿呂」が詠んでます。この歌は白村江の戦いで大敗を期した高麗から攻め居る事を恐れた大和朝廷が、九州に防御体制を敷いたものです。
その他にも、行田工業団地内の「八幡山公園」に剥き出しの古墳に防人詠んだ2首の詩が刻まれています。埼玉県知事「畑 和」の石碑もあります。

石田堤は「のぼうの城」で野村満作の出演で有名になり、石田三成、大谷吉継が忍城を攻めを描いた映画です。秀吉の北条氏康の小田原攻めの武蔵の支城の舞台です。
現在は鴻巣市袋地区に「石田堤史跡公園」が建てられました。高校時代の思い出です。

猿島茶と境の川の一里塚

2019.06.24 (月)

久喜市栗橋と野田市関宿は、利根川(江戸川)を挟み対岸に茨城県境が(坂東市)在ります。境の地名は、島根県の宍道湖の「ゲゲの鬼太郎」で有名な境市や利根川を対岸に持つ羽生と邑楽郡の羽生市側にもあります。字は違いますが大坂府堺市も有ります。
坂東市境は全国でも珍しい河川の一里塚が在ります。道の駅「境」の江戸川の堤防上にカッコ良い石の灯籠が目印で銘板もあります。
江戸時代の流通の主体は水運でした。水運を司る琴平宮が関宿側にあります。
銚子、上州(群馬県)、武蔵の名産や五穀、木材、長瀞の緑泥変岩、三波石等も荒川を利用して江戸に搬送されたことでしょう。

外にも利根川沿岸に茨城百景記念公園が、境のほかに守谷、松戸(柴又の渡し:風天 の寅次郎)四阿(茨城県小山)にあります。場所によっては、渡船場で今も現役のところもあります。境は土・日運航して街おこしを担っております。

 話は変わって猿島茶は静岡、狭山、岡山、紀州のお茶に先駆けて輸出されました。あまりにも売れすぎて仲買人の悪知恵で柳の葉を混入させ輸出したのです。その為、今では無名の茶ところになって狭山、静岡茶に負け今では生産額が減り、地域ブランドに各下げになってしまいました。
また、明治時代に入り「富国強制策」の影響もあり、オランダ人の土木技術者「ムルデル」が明治23年利根川と江戸川を結ぶ運河を建設し、最後の仕事して帰国したのです。江戸川と利根川では水位の違いをパナマ運河の開門型式で克服したのです。近くに東京理科大もあります。
しかし、鉄道、道路の整備によって現在は使用されなくなり、桜の名所で流山側に割烹料理店が出来て乙な桜見物できます。お勧めします。
最後に利根運河の完成で、外洋船(大型蒸気船)が発達し全国の港から 東京に物流が入るようになって猿島茶の輸出は絶たれたのです。

高見泉石とストーリートオルガン

2019.06.23 (日)

栗橋町の利根川を挟む古河を、散策した思い出をブログみ書いてます。
私の現在は不時の病・肝硬変です。4ヶ月も入院しています。古河は上杉古河公方の領地です。古河藩の家老の家に生を受けた鷹見泉石は、当代きっての蘭学者でした。
中学社会の教科書に掲載されいたのを覚えております。古河歴史博物館に肖像画がかざられております。本物は、東京上野の国立博物館に収蔵されております。
本物同様のレプリカですが見応えはあります。彼は渡邉崋山や足立左内と親交あり、江戸藩邸でも頭角表し、江戸末期の寛政9年の生まれです。
近畿、大阪襲った飢饉に大坂商人も財力がなく、将軍家斉も財政にめどがたたず、庶民は餓死が巷に溢れ、大塩平八郎は町奉行所の身分でありながら自分の蔵書5万冊を処分して、民を救おうとしたのです。奉行所郎党200に人で決起し、鷹見は1日で鎮圧したのです。伊能忠敬も同時代の人物です。

歴史博物館にフランス モンマルトの丘のサクレ・クール寺院前で小柄なおじさんが変わった箱のオルガン様な楽器の前でトレンチ帽をかぶり、ブルーのカウボーイ風の襟巻きをヒラヒラさせながら歌っていたのです。光子はチップ渡し、2人で撮影しました。古河の歴史博物館にフランスのモンマルトの丘で見聞したストリート・オルガンより、数倍上の素晴らしいストリート・オルガンがありました。演奏時間は1日3回ですが無理をいって特別に演奏演奏して頂きました。人形が踊り出し、心を揺さぶるです音色で一度聞てください。

その他、街角美術館は郷土の日展作家中心に絵画が飾られております。旧4号の古河駅近くの奥まった所に蔵作りの歴史作家永井路子の生家があります。
印章の篆刻美術館が在りますが、マイナーの美術館です。金印の篆刻も見られるかも知れません。

近隣の城&城址の話

2019.06.23 (日)

 明治政府によって解体され、あるいは長い歴史になかで風雪に朽ちたそんな城の話しです。
小学生の時、聞いた話ですが鷲宮神社の近くの『粟原」』にお城があったそうです。
 日本には戦国時代に大名達が名城と言われる山城を桃山時代(豊臣秀吉)になると平城」を築いたのです。古くは坂上田村麻呂が東夷征伐のために「胆沢城」築きました。
 昔、神社の周りに前沼と言って人工的な沼がありました。鷲宮神社は、昭和23年の水害でも浮島の如く水害を被らず、吹き井戸に水をくみにいったのです。
粟原城の支城ですが遺跡は花咲駅から加須方面に線路沿いに3分ぐらいに「城山公園」として現存してます。
 粟原城は平成大学に行く途中の粟原地区の二股に分かれる右奥手に、祠があります。そのあたりがそうだと思います。

天正年間、上杉謙信が小田原城を攻めたとき、幼少の城代城主「細萱泰秀」守っていたが落城し、同じく鷲宮神主の神主(城主)の粟原城も落城したのです。

幸手市にも幸手駅東南徒歩5分くらいのところに幸手城があり、地名に「城山、陣屋」が残っております。また、幸手市天神島曲輪に天神島城(一色氏館)があり、この辺りは御家人達が鎌倉に駆けつける「鎌倉街道」あります。この辺りの盛り土が城郭なのです。
天然の堀、倉松川が流れております。また、鎌倉への物資流通は湿地帯を形成していた津を利用したのです。
菖蒲には、市庁舎近くの鴻ノ巣、上尾へ抜ける県道沿いに花菖蒲の名所で石碑が建ち陣屋の門が残り水郷の風情があります。

鎌倉から古河に転戦するとき立ち寄った武州少将の名に因んで菖蒲と名付けられたのです。

のぼう城で有名になった忍城の成田氏長の配下で、秀吉の北条氏康の小田原攻めに破れ、廃城になったのです。現在は再建されて資料館になっております。
最後に栗橋城と関宿城です。栗橋城は桜の名所「権現堂川」の元栗橋(茨城県)に存在したのですが、今は城址の看板のみしかありません。その対岸に久世大和守の関宿城(千葉県)があり、戊辰戦争の戦場になったのです。
忘れていました。久喜の足利3代に菩提寺「甘棠院」非常時には城としての機能をもち、掘り割りの遺跡も有り、現在は住宅地で面影ありません。

そう言えば、日本三景の松島の瑞巌寺も城を兼ねています。また、あちこちに存在する寺町も最後の砦な様なものです。垂れ桜で有名な弘前の武家屋敷の奧の津軽氏の菩提寺を思い出しました。

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