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記事一覧

高速道路を平然と牛の行列

2017.10.10 (火)

中国の「新シルクロード」は西安から約5000km工程にあるのです。そして、前後の旧シルクロードにはロマンあるのです。楼蘭美女をはじめに敦煌・莫高窟・火炎山・孔子の末裔が観光案内してくれた20mの大仏寺、ジンギスカン終焉の地六盤山、張騫が駿馬を求めた突厥、天にも届くと言われる黄土高原、黄河の景勝地炳霊寺、地層の美しい張掖丹霞、雷台漢墓、嘉峪関、三蔵法師滞在したトルファンなどの見どころ一杯の旧シルクロードです。
新シルクロードには、日本ではあり得ない風景が何処そこあるのです。しかも高速道路を牛が平然と隊列を組んで通行しているのです、その数20頭以上です。
牛ばかりでなく、羊、ヤギもそうなんです。
こんな風景が、野生のリンゴのなる菓子溝と呼ばれる所なんです。
流石の暴走運転手も困惑しています。
なぜんなことが起こったかです。
元々は旧シルクロードは放牧の牛、羊,ヤギの群が渡れたのです。それをつぶしてまで建設をしたのが新シルクロードです。トンネルと高架の橋で渡し、28kmにも及ぶ新シルクロードの建設なのです。
日本であれば高架の道路に旧道をトンネルで横断できるように設計します。しかし、中国は違い猛スピードで先進国の日欧を抜き米国と対等になり、経済で世界2位に上り詰めたのです。
中国は共産党の独裁のお国柄です。
何も文句はいえないのです。生活道路を、失ったカザフ族は生活のために抵抗をしているのです。
もちろんカザフ族等の遊牧民族は、毎日馬に乗って新シルクロード通過しているのです。遊牧民族は平然と馬を引き連れ、、牧草地に通っているのです。
日本では笑っちゃいますが彼らにとっては死活問題です。また、この辺まで来ると街路樹も変化し、仏教遺跡からイスラム教に変化し、風景が変わってゆくのです。
そこに住む人々の食べ物、住まい、帽子、服装までが変化し、人口の70%はイスラム教徒なのです。
しかし、中国の統治下なると国民は無宗教化にさせらられたのです。
こんな辺境地で地も、大きなレストランでは日本の袢纏を着用したお寿司屋さんが居り握り寿司が出るのです。
まさかと思い写真を収めたのです。それも、職人さんの背中の文様は紺地の勾玉でした。
かわいい3人姉弟がポーズを取ってくれたので撮影し、デナーも終わりバンドが大音響で演奏されるとみんが踊り出し、われわれの女性軍もリズムに合わせ踊り出しました。
笑顔があればみな友達です。国際交流は人と人なのです。
旅に出れば素晴らしい出会いと国際交流が叶うのです。

驚きのシルクロードの旅

2017.10.09 (月)

羽田を飛び立ち、西安から26日目(9/27)アシュカバットに到着です。日本では殆ど知られていない「トルクメニスタン」の首都です。
この国は天然ガスで潤い、ホテルのロビーには大きな額の収まった大統領の写真が飾られ、中東のラスベガスの感じでした。このアシュカバットは白い大理石の20階建てくらいのビルが市内に林立しているのです。大理石の産地はイタリア・カララ産だそうです。
前日の旅の疲れを癒そうと午後3時ごろにホテルにチェックインしたのです。
トルクメニスタンには、ギネスブックに登録されている世界一の屋内観覧車やスイスと同じく永世中立国になったのを記念した「永世中立の搭」等があり、沢山の無名戦士の像だと思のですが陸海空の兵が守っていました。
私たちは極東の日本から来た観光客で交代の儀式を是非見学したいのでと無理やり頼みこみました。ソ連仕込みの「儀仗兵の交代儀式」を私たち24名で見学したのです。TVで見る北朝鮮の兵隊の儀式そっくりです。
翌日は大きな「ホメイニ師」飾られたイスラム教の聖地イマーム・レザー廟の見学でした。初めて見る聖地巡礼、金曜モスク、熱狂のお祈り、聖者の眠るガラスケースの触れると望みが叶うと言われたので「アラーアクバル・アラーアクバル」を点呼しながら侵入したのですが立錐の余地もない信者達のごった返す中でのことです。願い叶わず時間切れです。。
そんなことで、多少集合時間が遅れ、気ままなバスの旅もあって直前になっても宿泊施設決まらなかった事を二村添乗員が平謝り、24人の寛大な処置で、うまれて初めて止まる砂漠の中のモーテルが今夜の宿となったのです。
モーテルのゲートは立派なのですが、部屋に入って驚きです。2人で泊まるところにベットが8個あるのです。多分安宿の昔で言えばキャラバン・サラエなのです。日本のモーテルと大違いです。
シーツは薄汚れ、トイレの入ったは良いけれど日本の和式なのです。
イスラム教徒は、男性のおしっこも座らないといけないそうです。
それだけならば良いのですが、トイレのドアが閉まらないのです。
困ってしまいましたが、まあいいやと放尿、日本の宿で今は和式は少ないもので少し戸惑いました。
さあ、寝ようと思って、入り口のドアを閉めようとしたのですが、やはりカギがかから無いのです。
二村添乗員曰く、東日本震災を思えば、単独で泊まることができるだけで我慢してくださいと・・・・・。
富士山の山小屋よりましとお客言ってましたとさ。
寝てからがまた大変、砂漠の熱気が閉まらなドアから入ってくるのです。それに付け加えトイレの匂いがするのです。
仕方なし外気に触れ、空を見たら上弦の月が輝いておりました。
多少、睡魔が来たのでベットに横たわると、クーラーがなくターボファンの「ゴート」音で目が覚めるのです。
私は、胆管癌の手術で頻尿なので困りました。
人間の記憶は面白いですね。4星ホテルの思い出は少なく、おんぼろ宿の記憶は鮮烈なのですね。

教訓:砂漠のモーテルは我慢せよ。止まれないよりましと思へ。.

駿馬を求めて張騫は行く

2017.10.07 (土)

日本では世界史を習得した者でさえ「張騫・霍去病・呂布将軍」を知っている方は少ないと思います。
私も、シルクロードの旅で始め知ったのです。張騫無しに現在の中国の繁栄はありえないのです。
紀元前115年、ローマ帝国が勃興した時代です。張騫は、今でいう冒険家(西洋のマルコポーロ・コロンブス・バスコダガマ)と外交・活動家を兼ね備え、漢7代皇帝武帝に仕えたのです。
秦の始皇帝は、中国を平定ましたが、華西の地やモンゴルの匈奴と呼ばれる騎馬民族に怯えていたのです。また、漢の6代皇帝も同じでした。
その為に、外敵の匈奴から国土を守るために万里の長城は築かれたのです。秦の始皇帝や漢の皇帝たちは皇女を嫁がせ、人質によって手なずけようとしたのです。
紀元2世紀ごろ(東周戦国時代)東周は匈奴との戦いに10万頭の騎馬軍が壊滅させられたのです。
当時は、鞍や鐙はなく匈奴の騎馬民族の前にあっけなく敗れたのです。
東周は農耕馬で馬騎軍団を編成していたのです。鎧をつけた人の体重が55K+鎧が30Kの重さです。きびきび動けない農耕馬に80Kgの重さは結果を見ずして想像できます。
私たちは、機会あって楼蘭で美女のミイラと共に蟹股の騎馬軍団の将軍のミイラを見て来ました。この時代は軍馬を脚で鋏込むしか方法がなかったのです。その為、騎馬隊はよほど訓練されていないと刀を振ったり、弓を満月に絞っただけで落馬の危険があったのです。

張騫は大宛(フェルガナ)に汗血馬という血の汗を流し、1日千里を飛ぶように走る馬が飼育されていると進言したのです。
張騫は、武帝の命を受け華西の大月氏に使者として使わされ途中で匈奴に捕まり、20年の歳月を囚われの身となったのです。
そういえば、木村村重に囚われた黒田官兵衛のようです。
張騫は匈奴の捕囚の間、意思を曲げずに機を見て脱出し、漢の武帝のところに戻り報告したのです。
武帝は、純金製のしかも等身大の馬を作らせ、大宛の貢物としたのですが断られたのです。
しかし、3年後に内乱が起き、その機に乗じて攻め入り、汗血馬を手に入れ華西の地を統治し強大な漢王朝を築いたのです。
張騫は始終、外交の旅に出て、翌年の紀元114年に病で47歳の若さで倒れたのです。
この汗血馬は雷台廟から出土して、私たちのシルクロ―ド旅程の途中の出来事でした。
武威の広場には、花に囲まれた大きな高さの10mくらい汗血馬のレプリカと、また、汗血馬を囲むような騎馬軍団の編成軍団をみる事が出来、当時の師団の様子がわかるようでした。
しかし、雷台廟からは出土した青銅製の汗血馬は燕のように天を駆け巡る様でした。本物は40cmくらいの小さなものです。
まさに燕を片足につけ飛燕を操り飛んでいるデザインでした。
漢の武帝は霍去病を将軍に、匈奴に決戦に挑み、華西回廊から追い出したのです。
この、張騫と霍去病の存在がなければ、今の中国も歴史の中にうずもれ、分裂した小国の集まりだったかもしれません。
私たちシルクロードの旅の「旅友」は、雷台漢墓に入り汗血馬(馬踏飛燕)が右端奥から出土し、馬の骨もあったそうです。
今は、薄暗いレンガで積まれた楕円形の空間があるのみでした。
私たちは9月6日、蘭州から武威の途中の博物館で国宝の馬踏飛燕を見学出来たのです。
この武威はゴビ砂漠の入り口にあって、都市化の波が押し寄せ、破壊と再開発が入り混じったほこりっぽい都市でした。
中国は赤紙(坼の文字)を貼られた民家は6か月以内に立ち退かなければならず、問答無用で取り壊されるのです。
この武威は、インドから経典を持ち帰った三蔵法師や、経典を漢語の翻訳した破壊僧・鳩摩羅什の遺跡また、大雲寺の鐘楼や三つ目の眼光鋭い怖そうな仏像もあるのです。また、日本の僧の足跡もあるのです。日本人は古代から世界に足跡を残したのです

現在、大宛はトルクメスタンの国名で世界地図に記載され、長くは中国、ロシアの支配下に有りました。そのため、現在スイスと同じく永久中立を国是としています。
日本にもトルクメスタンの大統領(ベルデェム・ハメドフ氏)が来日し豊富な資源外交繰り広げたのです。
砂漠のオアシス都市ですが、これ見よがしに市内のあちこちに噴水があり、夜は不夜城のラスベガスや香港のようでした。
私達は、5星ホテルに宿泊し国家元首の気分でした。しかし、トルクメスタンは独裁国家で、大統領官邸、ホテル、官庁街に巨大な大統領の写真が無里やりかざらされて興味をそがれました。
また、とんだハプニングありありました。旅友の一人が黄金に輝くドームの屋根の大統領官邸を撮影し、警察官のとがめられ、現地添乗員と二村添乗員がシルクロードの旅に来たのであって、スパイ行為は一切してない旨を告げ、謝罪してやっと釈放されたのです。

教訓:軍の施設や大統領官邸は撮影は禁止です。

鉄壁のイスタンブールの城壁と黄金の扉

2017.10.06 (金)

シルクロードの旅もアジアからイスタンブールの黒海・マルマラ海に掛かる海峡の吊り橋を渡るとヨーロッパの風景に一変するのです。
私たちは、海峡を見渡せるステキなレストランでレンチを頬張り、美味しいコーヒーを飲んだのです。
海峡には豪華客船が行きかい、また、ガイドののアリプールが通訳した大成建設の第2海峡橋も垣間見えるのです。
東ローマ帝国の皇帝テオドシウスの建設した鉄壁の城壁が観光客を引き付けてやまないのです。
構造は3重になっており、1000年も間、難攻不落を誇り、コンスタンチノープル(現在イスタンブール)を守り続けたのです。長さは7kmにも及び外敵を寄せ付けなかったのです。
第1の城壁が高さ11m、厚さ5mにもあるのです。第2の城壁が高さ8.5m厚さ10m堅固さなのです。
しかし、時代が兵器の進歩に依って、大砲の時代になるとオスマントルコ帝国が勃興し、大航海時代の幕開けの1453年鉄壁の城壁も破壊されるのです。
オスマン帝国の時代以前までは、近隣諸国の財政の悪化で苦しくなると海路を攻め、このイスタンブールの海を囲み、ビザンチン帝国を海上封鎖をして貿易の邪魔をしたのです。
イスタンブールの経済は麻痺し、時の経済界が政府に陳情し政府・財界で和解金を積んで海上封鎖は解かれたのです。
何時の時代も、国と国との外交の舞台裏には巨額の金が動き金をむしり取るのです。米朝・日朝間も同じなのです。
ガイドが裏話を披露して気が付いたのです。
彼は、歴史、哲学に造詣が深く色々な秘話をしてくれたのです。
みんなの意見でビザンチン帝国の黄金の城扉に行くことにしました。
そして、何千回と多くの兵士たちが皇帝に見送らて出兵した黄金の扉に行って見ると外堀はあるのですが風雪に耐えられず、風化して幅は狭まり、道路から20mくらい入ったイスラム教の墓地の隘路を行った奥にありました。
今は、観光客も訪れず案内書にも掲載されておりません。こんな墓地の奥にあること自体、誰も想像しませんでした。
足の悪い方が、運転手さんにお姫様抱っこで見学したのです。
今は、黄金の扉も金箔がはげ落ち巨大な鉄の門でした。歴史の中に静かに朽ち果てることでしょう。

教訓:栄光の黄金の扉も今は墓地の奥、静かに歴史の影になるんです。

サグラダファミリアの遅延工事は金策の果て

2017.10.05 (木)

地球1周の旅もちょうど半分を過ぎ、夫婦2人旅も緊張から、楽しさへとゆとりの旅になりました。バルセロナの船着き場でゴンドラを眺めながら、時間があったので誘われるままに、地中海クルーズと洒落込み大型モーターボートでぶっ飛ばしました。
お客は、私たちとイランから来た新婚さん、他に4~5人ぐらいでした。。すごいスピードで波の上を飛んでいるようでした。
30分ぐらいで湾内クルースでイランの新婚さんとシルクロードの旅でイランのステファンに行った事などイランの素晴らしさを手まね交えて話しました。
それでもホテルのチェックインに時間があったのでサグラダ・ファミリアに行ってみました。観光客の多さにびっくりし、事前学習と思いチケットを買って入場しました。細部の彫刻がすごいのと教会の面によって、表現の技法が違うのです。
内部は、今までの教会と違い、明るく、見るものを新鮮で尊厳な気持ちさせるのです。私たちが何か所も観光した教会は、中央にステンドグラス、その神秘な明かりを受けたキリストの十字架とミサを行う祭壇、一段下がって下に祈りを捧げる木製の簡素な椅子が並んでいるのです。
このサグラダファミリアは芸術品の空間と近代的な異次元の世界を内包してました。
アントニオ・ガウデイの設計による小さなレプリカと簡単な設計図で時代に合わせ、設計士、デザイナー、美術彫刻士などの話し合いで、最善の方法がとられ、その協議のロス以上に素晴らしさが際立っているのです。
その結果、建設予算が嵩んだのです。途中、信者の寄付が集まり、また工事の再開を繰り返し100年の歳月が過ぎたのです。
それだけでなく、ガウデイが、サグラダファミリアから帰宅する途中、交通事故にあったのです。
もちろん、彼自身も生前中に完成することはないと思っていたのです。
西洋の建築は、日本の建築と違い大理石が多く、彫刻にとんでもない時間を費やしたのです。
私たちも、建築に携わる人間として、木造といえど伽藍建築の彫刻はとても時間を要するものなのです。
このサグラダファミリアも世界遺産に登録され、内部の完成が2010年、ローマ法王の訪問によって工期を急いだのです。
資金的にも寄付金のみでは調達に難しくスペイン国に移管されたのです。多少の資金的余裕ができ、また、工法的にも柱の中心に鉄の心棒を入れ、大理石を2分割、3分割にして、半月状の直径500mmくらいの円筒にしたのです。
円筒状の大理石の内部に、コンクリートを流し込み、強度を向上させ
しかも、彫刻の厚さに合わせ円筒の厚さを50mm~75mm程度にしたのです。
この工法も、技術の進歩があって可能になったのです。予算的にも軽減され、コンピュター、3Dプリンターやコンピュター数値制御及び石材加工機の進歩によって加速しているのです。
技術革新の目覚ましい発展によって、300年の歳月を要すると言われた、この巨大教会建築も竣工までに150年と半減されるのです。
このサグラダファミリアも日本人彫刻家「外尾悦郎氏」が指揮を執る生誕の門の完成を見たのです。
日本人の活躍が世界の各分野で見られることもうれしいことです。

馬小屋で過ごしたレオナルドダ・ビンチの最後の晩餐

2017.10.03 (火)

スイスに近いイタリア第2の都市ミラノに、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院があります。今は、ここに世界の天才画家レオナルドダヴィンチの最後の晩餐の絵画がユネスコ世界遺産に登録され、観光の目玉です。
北条早雲が小田原城を攻めた室町時代・1495年ダビンチが3年がかりで書き上げた世界的名画です。
しかし、損傷が他の絵画より激しいのです。
この最後の晩餐は、当時フレスコ画が主流でしたが、天才のダビンチは、絵を描くの遅く、このような4.2m*0.9mの大作にフレスコ画に膠の乾燥に追いつけづ、絵画が書けなかったのでしょう。
当時としては画期的な技法生み出したのです。
また、フレスコ画は、明るさを出すことが難しく、暗い絵画になることを意図的に拒んだのです。キリストを中心に、表情を明るくし、また、遠くの物ほど白く霞めること追求したのです。
ダビンチは、今までの絵画だ輪郭線があったのですが。、現実の人や他の品物に輪郭がないことを突き止め現実に近づけたのです。
随所に彼の天才性を見ることができるのです。

絵の細部にわたるまで完璧にするために、ダ・ヴィンチは石の上にテンペラ(卵黄や蜂蜜・膠(にかわ)などを混ぜた不透明な絵の具)を用いた彼独自の新しい技術を導入しテンペラを吸収させ、そして水分から絵画を守る素材をあらかじめ画布となる壁に塗り込でいました。
最後の晩餐は、奇跡が奇跡を呼び、現在修復されて鑑賞客の呼吸・体温等から劣化を防ぎ、世界中の人に見てもらう為に鑑賞時間15分、人数30名と制限されております。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれたものでですが、ナポレオンによってイタリア攻めの馬小屋になって、馬の糞尿の湿気・尿素の臭気に侵され劣化をひどくしたのです。
この修道院は、大戦の戦火の中で、屋根が抜け、かろうじて被爆を免れたのです。また、洪水で水につかり損傷は進みましたが、全面剥離に至らなかったのです。
500年の損傷と汚れを1人の修復師が20年以上の歳月をかけて蘇らせたのです。
この修道院の観光バスの集合場所の近くを昔懐かしい近代的なチンチン電車が走り、レトロな風景を見せてくれました。
また、幻獣を形どった粋な水栓からバルブがなく、飲料水がちょろちょろと流れ「あ~、異国だなと感じたのは私だけでしょうか。

ムッソリーニが考えたバチカン市国、世界最小の宗教国家

2017.10.03 (火)

世界には、小さな国家が太平洋の島礁やカリブ海の中にあります。
しかし、小さいながら世界に影響力持つ国家は「バチカン市国」置いて他にはありません。
バチカン市国の国民は、現在は800に人にも満たないのです。しかし、スイスの傭兵を雇いっているのです。昔は、騎馬隊も存在したのです。
現在は、外国の国賓が訪問の時、儀仗兵の役割を果たしているのです。
今ではバチカン市国は、29ヶ国に大使を派遣し、貨幣、切手を発行し、国際放送も行っているのです。
今は、バチカン市国そのものが世界遺産になり、イタリアの至宝が沢山収蔵されております、
コンクラーベ(教皇の選挙)の行われる天井画は、ミケランジュロの最後の審判が描かれています。
スイスの傭兵の服装はかっこよくダビングのデザインで1914年に制定されたそうです。スイスの傭兵は、スイスは永久中立を宣言しているので傭兵というより、警察官の役めをはたしています。
しかも、バチカン市国の建国は不思議なのです。ムッソリーニが三国同盟国を結んでおりましたドイツのヒトラーを信じていなかったのです。
なんかの本で読んだのですが、ヒットラーは一時的かもしれませんがイタリアに侵攻したのです。
その為1929年2月11日教皇ピウス11世の全権代理枢機卿とムッソリーニの間でイタリアから独立したのです。
ムッソリーニは、ヒットラーも独立国のバチカンには侵攻ないだろうと、イタリアの国宝をバチカン市国の美術館に収蔵したのです。
元々は、バチカン市国は城壁に囲まれておりました。
今では、その国境も80cmくらいのポールと白線が目印です。
私たち24名は、1.2.3と声を合わせて越境したのです。
普通は気づかないうちに、国境を超えてしまうのですが、二村さんと一緒に声を張り上げて大股の儀式化して国境越えをしたのです。
皆さんもバチカン市国の国境越えをカメラに自撮りはいかがですか。
バチカンには気づかない逸話が沢山あります。切手を発行していますが、バチカン市国の国内のみ使用できない切手なのです。
また、近くのイタリア人は、わざわざバチカンの郵便局に手紙等を持って行くのです。配達の速さは、ローマ市内のポストに投函するより相手側に早く届くのです。
スイスの傭兵は月給で1500スイスフランが支払われ、日本円にして11万円くらいの安月給です。
でも心配ないのです。国保の免除、住宅費、食費の保証がある上に、イタリアなど近隣諸国の職業訓練が受けられ、IT技術の勉強もできるのです。また、奨学金のような制度もあって人気があるのです。言語は、ラテン語を公用語として使い、日本の漢語みたいです。
私も知らなかったのですが、イタリア鉄道と連絡する鉄道があるのです。
低額のコインはユーロでなくバチカン市内でしか使用できなできない自国通貨を鋳貨しているのです。
800人の国家ですが、立派な国家としての体裁は確立しているのです。

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