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ササン朝ペルシャ時代にワープ

2017.10.15 (日)

 ササン朝ペルシャは、紀元2世紀ローマ帝国との戦いに敗れたパルテェアは国力が衰えシャー・アルダシ―ル1世がササン朝ペルシャを建国したのです。
 彼は、ローマを破ってアケメネス朝が取り入れたゾロアスター教を国教としたのです。200年以上続いた王朝も、トルコ系突厥の抗争とホスロー1世の死後、国力が衰へ滅亡したのです。私たちはイスハーンからテヘランに行く途中、高射砲の銃口が多数ある核施設の幹線道路を通過し、アビヤーネ村に立ち寄ったのです。
 アビヤーネ村は、イラン有数の観光都市「カーシャーン」から70KMぐらいに位置する観光地です。

 それでいて訪れる観光客はごく少なく、今回も私たちの他は4~5人ぐらいでした。海抜2000mぐらいの高地で、寒さから守るためにを開口部は東側にありました。2階テラスはに田の字を中央に9角形をデザインした素晴らし格子があるのです。天井はアシのようなものでもしかしたらパピルスが網代になっておりました。ミクロネシアのテラスを想像したのです。
 このアビヤーネ村は2200年の長い間、日本で卑弥呼が権勢を振るっていた時代からの慣習を守っているのです。途中、シルク・ヒルと村があって粋な村だなと感じたのです。ビヤーネ村に近づくにつれ、三角形の穴が土中にあって、ガイドに尋ねると食品の保冷庫だそうです。

 私が子供の頃、日本各家でも、もみ殻を敷き詰めた室が床下に在ったことを想いだし、母が、ジャガイモ、サツマイモ、サトイモなどを保存してことを思い出しました。
 アビヤーネ村は、酸化鉄を含んだ土と日干し煉瓦を積み上げ、塗り固め保温の室状の家なのです。
 もし、朝日の昇るころの観光でしたら、岩山の焼ける赤い街並みでしょう。
 この村は、独特のササン朝ペルシャ時代から続く古いイスラム語でしきたりも今でも古い時代を色濃く残しているのです。老婆たちの服装は、白地にバラの花柄の大きいスカーフをざっくりかぶり、スカートも独特のファッションでした。ここがイランなのかを疑うような光景です。彼女たちは、1日中他愛もない話にゆっくりした時を過ごしておりました。
 2000年もこの光景が続いているのです。またガイドの知人宅の部屋を見せていただきました。TVもないのです。床にイランの立派な絨毯が敷き詰められ時計だけの質素な部屋です。
 村に1台の車があったのみで、お店もあまり見かけなかったのです。
この村も、遠い昔の歴史の中にあまりにも悲惨な歴史が隠されているのです。多分、虐殺から逃れるために高地の寒村に逃げ込んだそんな過去を思いながらペルセポリスに向かいました。

世界の富はイスハーンにあり

2017.10.12 (木)

 イランは、紀元前からチグリス・ユーフラテス川沿いに文明が開き、7000年の歴史があり7日間の観光日程でも、ほんの少し世界遺産等を垣間見たにすぎないのです。
 このイスファーンはサファヴィー朝全盛のシャー(王)アッバース1世が建設した新都なのです。日本では関ヶ原前夜の1597年の出来事です。なぜ、ヨーロッパ人の貿易商、外交官に世界の半分といわれるほどに繁栄したか、数多くのキャラバンサラエの建設、シャーの広場、シャーのモスク、バザール、宮殿、神学校、建築の学校、官庁街などが現在のイマーム広場に建設されたのです。
 なぜ、イスハーンが世界世界の半分と言わしめたか、それはペルシャ湾のバンダル・アッバース港の拡張で地中海・イギリス・北海の沿岸諸国に絨毯、独特の金属製品、色鮮やかの陶器、刺繍などが輸出され、また、陸路は絹の道からアジア諸国へ運ばれたのです。
 それらの品物がバザールで取り引きされ、当時の世界でバザールに欲しいものが何でもあったのです。その為「世界の半分」と言われたのです。

 私は、イマーム広場のモスクの天井と基底部に描かれたイスラム教の戒律、また祭壇前で経典を読み上げたバスの運転手さんの声が反響して、巨大なモスクに全体に響き渡ったのです。シルクロードの旅友も驚きました。
 また、建築学校での数々のデザインのサンプルにも驚かされ、7階建てのアーリ・カープ宮殿の楼閣に登ってイマーム広場の素晴らしさ驚嘆したのです。
 王侯貴族もイマーム広場で行われたイベントを楽しんだことに思いをはせたのです。モスクの屋根にほどこされた、タイルの美しさにや天井のデザインは技術と富の象徴と思われます。
 今は広場の白い玉石から水をたたえた池になり噴水が涼を醸し出しております。噴水の周りを王侯貴族の気分にさせてくれる馬車が走っており、このこの広場は南北512m東西159mにも及びますが1階部分がバザール、2階部分が官庁街です。
地下道があって、王侯貴族は庶民の目を気にせず、モスクや高楼に行きかいできました。

 また、イランのザクロス山脈を望む景勝地、ザーヤン川は水は少ないのですが33橋の傑作「ハージュ橋」の中央に張り出した王侯貴族の社交場「6角形の望楼」があります。水の少ないイランで最高の涼を取りながらの2階建大宴会場なのです。橋は経済発展の流通の為数多く架けられたのです。
 庶民は橋梁下の空間で涼を取るのです。余談ですがイランに水田があるのです。コメの文化圏と小麦の文化圏がイランで分かれるのでしょう。初めて見る光景です。
 
 私たちが行ったとき、イランは核兵器疑惑で経済封鎖を受け、原油輸出が制限され、インフレで1日うちに両替が2割くらい上下していました。しかし、国民は明るくインフレなど感じませんでした。
 そのためですか。イランでは、軍の施設、銀国が撮影禁止なのです。札束を抱えた市民の姿が、インフレ率を現すからです。こんな映像が、世界のニュースになったら中央銀行はどうすることもできません。社会の教わった第一世界大戦後のドイツと同じになってしまいます。

 ガイドののアリプールがイスラムの宗教国家ですが「なんちゃってイスラム教」が多くブルガも若い女性はフアッション性を優先しているそうです。核施設の中に道路が貫通し、撮影禁止ですが観光できるのです。驚いたことに、インドの富を垂れ流したタジマハールはイランの技術者が設計・指導しているのです。
 イランのモスクにはキリスト教も描かれていたのです。懐が深かったのです。パーレビ国王で、シャーの時代も終わり、シャー時代の言葉も使ってはいけなそうです。今は50代の退職者の人々が敬虔なイスラム教徒として成り立っている宗教国家です。
 男性は徴兵があり、ほとんどの男性は高卒です。女性は、大卒が多く、学歴が高く威張っているそうです。どこかの国と似ていますね。

100年前の日本の風景が古代4大文明のアナウ丘にあった

2017.10.11 (水)

 世界4大文明といえばエジプト・メサポタミヤ・中国・インドです。そして、中央アジアのアナウ遺跡に来るまでは私自身もエジプトが1番早く文明が興ったと思っておりました。
 添乗員の話しでは、このアナウ遺跡が世界最初だそうです。あまり有名でないのは、日干し煉瓦の遺跡のため7000年の風雪に耐えられず、元の大地に帰ったからなのです。
 この遺跡は、トルクメニスタンの首都アシハバードから25km東に行ったところあるのです。この周りにはメルヴの遺跡・テペの遺跡など多数の古代遺跡があります。

 世界最西端の仏教遺跡「グーズ・カラー遺跡」もあり、100平方kmに及ぶ日干し煉瓦の城壁と掘割の遺跡で、人骨なども出土し当時の状況で散乱しているのです。
 また、トルクメニスタン国立博物館を見学したときに驚きの連続でした。紀元前3000年~2000年栄えた古代マルグーシュのコーナーには女性の土偶やゾロアスター教の神殿跡からの出土品、鉄製の4輪戦車の車輪(アルシンベルのファラオ・ラムセス2世の壁画は青銅器の2輪車)などが展示されているのです。紀元前3世紀に栄えたニサの遺跡ではミロのヴィーナスそっくりのヴィーナス像があったのです。女性の魅力は何処の国も『くのいち』なのです。

 かって、ソ連の支配下にあったトルクメニスタンのドライブインでランチを取った時に、星と月の刻印のある壺を見ので思い出に写真撮ってきました。
 日本の100年前の風景は、小高い山の上の神殿跡で出会ったのです。
65年前の1948年イラン大地震で崩壊した日干し煉瓦の巨大な青龍の刻まれた柱と屋根のある祭壇に、何かお願い事をしている若いお嫁さんと義母の姿でした。きっと子供さんが早世し、男子の世継ぎの出生を願い、願掛けの巡礼に来ていたのでしょう。
 遺跡のテーブルの周りを7回まわるとお願い事がかなえられるそうです。100年前の日本の嫁と姑の姿でした。
 戦前の神社にあったお百度参りのようなものですね。また、何処の国も手を合わせ、神・仏に向かい、お願い事をする光景は同じだと思いました。また、7回まわるこの数字も何処の国でもゲンを担ぐのでしょう。
 願い叶って、お子さんの誕生を心の中で願ったのはこの旅友で私だけでなかったと思います。歴史の中の喜び悲しみ、そして早世した赤子の鳴き声が風の音に交じって聞こえそうな、この高台も砂漠での村を流す豪雨にも耐えたのです。しかし、大地震の前に崩れ去りながら、今でも亡くなった子供への信仰は続いているのです。
 撮影に夢中になっていたのか、尿意を模様し青空トイレと思ったのですが、神聖な信仰の地を汚してはと思いとどまり、添乗員に聞いて、バスの止まってる事務所に急いで駆け下りてトイレにやっと間似合いました。

 今夜のホテルはアシカバードで4星ホテルです。私たちのルームメイトは若くて可愛い2人組でした。日本人はめったに来ないなので話しかけてきたのです。ゼスチャーと下手な絵をかいての国際交流です。笑顔があればみな友達。美人ちゃんに囲まれて撮影。笑顔で眠りにつきました。

高速道路を平然と牛の行列

2017.10.10 (火)

 中国の「新シルクロード」は西安から約5000km工程にあるのです。そして、前後の旧シルクロードにはロマンあるのです。楼蘭美女をはじめに敦煌・莫高窟・火炎山・孔子の末裔が観光案内してくれた20mの大仏寺、ジンギスカン終焉の地六盤山、張騫が駿馬を求めた突厥、天にも届くと言われる黄土高原、黄河の景勝地炳霊寺、地層の美しい張掖丹霞、雷台漢墓、嘉峪関、三蔵法師滞在したトルファンなどの見どころ一杯の旧シルクロードです。

 新シルクロードには、日本ではあり得ない風景が何処そこあるのです。しかも高速道路を牛が平然と隊列を組んで通行しているのです、その数20頭以上です。
 牛ばかりでなく、羊、ヤギもそうなんです。こんな風景が、野生のリンゴのなる菓子溝と呼ばれる所なんです。流石の暴走運転手も困惑しています。なぜ、こtんなことが起こったかです。

 元々は旧シルクロードは放牧の牛、羊,ヤギの群が渡れたのです。それをつぶしてまで建設をしたのが新シルクロードです。トンネルと高架の橋で渡し、28kmにも及ぶ新シルクロードの建設なのです。
 日本であれば高架の道路に旧道をトンネルで横断できるように設計します。しかし、中国は違い猛スピードで先進国の日欧を抜き米国と対等になり、経済で世界2位に上り詰めたのです。中国は共産党の独裁のお国柄です。
 何も文句はいえないのです。生活道路を、失ったカザフ族は生活のために抵抗をしているのです。
 もちろんカザフ族等の遊牧民族は、毎日馬に乗って新シルクロード通過しているのです。遊牧民族は平然と馬を引き連れ、牧草地に通っているのです。
 日本では笑っちゃいますが彼らにとっては死活問題です。また、この辺まで来ると街路樹も変化し、仏教遺跡からイスラム教に変化し、風景が変わってゆくのです。
 そこに住む人々の食べ物、住まい、帽子、服装までが変化し、人口の70%はイスラム教徒なのです。
 しかし、中国の統治下なると国民は無宗教化にさせらられたのです。
 こんな辺境地で地も、大きなレストランでは日本の袢纏を着用したお寿司屋さんがあり握り寿司が出るのです。
 まさかと思い写真を収めたのです。それも、職人さんの背中の文様は紺地の勾玉でした。
 かわいい3人姉弟がポーズを取ってくれたので撮影し、デナーも終わりバンドが大音響で演奏されるとみんが踊り出し、われわれの女性軍もリズムに合わせ踊り出しました。
 笑顔があればみな友達です。国際交流は人と人なのです。旅に出れば素晴らしい出会いと国際交流が叶うのです。

驚きのシルクロードの旅

2017.10.09 (月)

羽田を飛び立ち、西安から26日目(9/27)アシュカバットに到着です。日本では殆ど知られていない「トルクメニスタン」の首都です。
この国は天然ガスで潤い、ホテルのロビーには大きな額の収まった大統領の写真が飾られ、中東のラスベガスの感じでした。このアシュカバットは白い大理石の20階建てくらいのビルが市内に林立しているのです。大理石の産地はイタリア・カララ産だそうです。
前日の旅の疲れを癒そうと午後3時ごろにホテルにチェックインしたのです。
トルクメニスタンには、ギネスブックに登録されている世界一の屋内観覧車やスイスと同じく永世中立国になったのを記念した「永世中立の搭」等があり、沢山の無名戦士の像だと思のですが陸海空の兵が守っていました。
私たちは極東の日本から来た観光客で交代の儀式を是非見学したいのでと無理やり頼みこみました。ソ連仕込みの「儀仗兵の交代儀式」を私たち24名で見学したのです。TVで見る北朝鮮の兵隊の儀式そっくりです。
翌日は大きな「ホメイニ師」飾られたイスラム教の聖地イマーム・レザー廟の見学でした。初めて見る聖地巡礼、金曜モスク、熱狂のお祈り、聖者の眠るガラスケースの触れると望みが叶うと言われたので「アラーアクバル・アラーアクバル」を点呼しながら侵入したのですが立錐の余地もない信者達のごった返す中でのことです。願い叶わず時間切れです。。
そんなことで、多少集合時間が遅れ、気ままなバスの旅もあって直前になっても宿泊施設決まらなかった事を二村添乗員が平謝り、24人の寛大な処置で、うまれて初めて止まる砂漠の中のモーテルが今夜の宿となったのです。
モーテルのゲートは立派なのですが、部屋に入って驚きです。2人で泊まるところにベットが8個あるのです。多分安宿の昔で言えばキャラバン・サラエなのです。日本のモーテルと大違いです。
シーツは薄汚れ、トイレの入ったは良いけれど日本の和式なのです。
イスラム教徒は、男性のおしっこも座らないといけないそうです。
それだけならば良いのですが、トイレのドアが閉まらないのです。
困ってしまいましたが、まあいいやと放尿、日本の宿で今は和式は少ないもので少し戸惑いました。
さあ、寝ようと思って、入り口のドアを閉めようとしたのですが、やはりカギがかから無いのです。
二村添乗員曰く、東日本震災を思えば、単独で泊まることができるだけで我慢してくださいと・・・・・。
富士山の山小屋よりましとお客言ってましたとさ。
寝てからがまた大変、砂漠の熱気が閉まらなドアから入ってくるのです。それに付け加えトイレの匂いがするのです。
仕方なし外気に触れ、空を見たら上弦の月が輝いておりました。
多少、睡魔が来たのでベットに横たわると、クーラーがなくターボファンの「ゴート」音で目が覚めるのです。
私は、胆管癌の手術で頻尿なので困りました。
人間の記憶は面白いですね。4星ホテルの思い出は少なく、おんぼろ宿の記憶は鮮烈なのですね。

教訓:砂漠のモーテルは我慢せよ。止まれないよりましと思へ。.

駿馬を求めて張騫は行く

2017.10.07 (土)

 日本では世界史を習得した者でさえ「張騫・霍去病・呂布将軍」を知っている方は少ないと思います。
 私も、シルクロードの旅で始め知ったのです。張騫無しに現在の中国の繁栄はありえないのです。紀元前115年、ローマ帝国が勃興した時代です。張騫は、今でいう冒険家(西洋のマルコポーロ・コロンブス・バスコダガマ)と外交・活動家を兼ね備え、漢7代皇帝武帝に仕えたのです。
 秦の始皇帝は、中国を平定ましたが、華西の地やモンゴルの匈奴と呼ばれる騎馬民族に怯えていたのです。また、漢の6代皇帝も同じでした。その為に、外敵の匈奴から国土を守るために万里の長城は築かれたのです。秦の始皇帝や漢の皇帝たちは皇女を嫁がせ、人質によって手なずけようとしたのです。

 紀元2世紀ごろ(東周戦国時代)東周は匈奴との戦いに10万頭の騎馬軍が壊滅させられたのです。当時は、鞍や鐙はなく匈奴の騎馬民族の前にあっけなく敗れたのです。
 東周は農耕馬で馬騎軍団を編成していたのです。鎧をつけた人の体重が55K+鎧が30Kの重さです。きびきび動けない農耕馬に80Kgの重さは結果を見ずして想像できます。
 私たちは、機会あって楼蘭で「楼蘭美女]のミイラと共に蟹股の騎馬軍団の将軍のミイラを見て来ました。この時代は軍馬を脚で鋏込むしか方法がなかったのです。その為、騎馬隊はよほど訓練されていないと刀を振ったり、弓を満月に絞っただけで落馬の危険があったのです。

 張騫は大宛(フェルガナ)に汗血馬という血の汗を流し、1日千里を飛ぶように走る馬が飼育されていると進言したのです。
 張騫は、武帝の命を受け華西の大月氏に使者として使わされ途中で匈奴に捕まり、20年の歳月を囚われの身となったのです。
 そういえば、木村村重に囚われた黒田官兵衛のようです。張騫は匈奴の捕囚の間、意思を曲げずに機を見て脱出し、漢の武帝のところに戻り報告したのです。
 武帝は、純金製のしかも等身大の馬を作らせ、大宛の貢物としたのですが断られたのです。
 しかし、3年後に内乱が起き、その機に乗じて攻め入り、汗血馬を手に入れ華西の地を統治し強大な漢王朝を築いたのです。
 張騫は始終、外交の旅に出て、翌年の紀元114年に病で47歳の若さで倒れたのです。

 この汗血馬は雷台廟から出土して、私たちのシルクロ―ド旅程の途中の出来事でした。
 武威の広場には、花に囲まれた大きな高さの10mくらい汗血馬のレプリカと、また、汗血馬を囲むような騎馬軍団の編成軍団をみる事が出き、当時の師団の様子がわかるようでした。
 しかし、雷台廟からは出土した青銅製の汗血馬は燕のように天を駆け巡る姿でした。本物は40cmくらいの小さなものです。
 まさに燕を片足につけ飛燕を操り飛んでいるデザインでした。漢の武帝は霍去病を将軍に、匈奴に決戦に挑み、華西回廊から追い出したのです。
 この、張騫と霍去病の存在がなければ、今の中国も歴史の中にうずもれ、分裂した小国の集まりだったかもしれません。
 私たちが見た馬頭飛燕は、墳墓の右端奥から出土し、馬の骨もあったそうです。今は、薄暗いレンガで積まれた楕円形の空間があるのみでした。
 私たちは9月6日、蘭州から武威の途中の博物館で国宝の馬踏飛燕を見学出来たのです。
 この武威はゴビ砂漠の入り口にあって、都市化の波が押し寄せ、破壊と再開発が入り混じったほこりっぽい都市でした。中国は赤紙(坼の文字)を貼られた民家は6か月以内に立ち退かなければならず、問答無用で取り壊されるのです。
 この武威は、インドから経典を持ち帰った三蔵法師や、経典を漢語の翻訳した破壊僧・鳩摩羅什の遺跡また、大雲寺の鐘楼や三つ目の眼光鋭い怖そうな仏像もあるのです。また、日本の僧の足跡もあるのです。日本人は古代から世界に足跡を残したのです

 現在、大宛はトルクメスタンの国名で世界地図に記載され、長くは中国、ロシアの支配下に有りました。そのため、現在スイスと同じく永久中立を国是としています。
 日本にもトルクメスタンの大統領(ベルデェム・ハメドフ氏)が来日し豊富な資源外交繰り広げたのです。
 砂漠のオアシス都市ですが、これ見よがしに市内のあちこちに噴水があり、夜は不夜城のラスベガスや香港のようでした。
 私達は、5星ホテルに宿泊し国家元首の気分でした。しかし、トルクメスタンは独裁国家で、大統領官邸、ホテル、官庁街に巨大な大統領の写真が無里やり飾らされて興味をそがれました。

 また、とんだハプニングありありました。旅友の一人が黄金に輝くドームの屋根の大統領官邸と知らず撮影し、警察官に尋問され、日本で言う警察署に転向され、現地添乗員と二村添乗員がシルクロードの旅に来たのであって、スパイ行為は一切してない旨を告げ、謝罪して罰金を支払いやっと釈放されたのです。

教訓:軍の施設や大統領官邸は撮影は禁止です。

鉄壁のイスタンブールの城壁と黄金の扉

2017.10.06 (金)

 シルクロードの旅もアジアからイスタンブールの黒海・マルマラ海に掛かる海峡の吊り橋を渡るとヨーロッパの風景に一変するのです。
 私たちは、海峡を見渡せるステキなレストランでレンチを頬張り、美味しいコーヒーを飲んだのです。海峡には豪華客船が行きかい、また、ガイドののアリプールが通訳した大成建設の第2海峡橋も垣間見えるのです。

 東ローマ帝国の皇帝テオドシウスの建設した鉄壁の城壁が観光客を引き付けてやまないのです。構造は3重になっており、1000年も間、難攻不落を誇り、コンスタンチノープル(現在イスタンブール)を守り続けたのです。長さは7kmにも及び外敵を寄せ付けなかったのです。
 第1の城壁が高さ11m、厚さ5mにもあるのです。第2の城壁が高さ8.5m厚さ10m堅固さなのです。しかし、時代が兵器の進歩に依って、大砲の時代になるとオスマントルコ帝国が勃興し、大航海時代の幕開けの1453年鉄壁の城壁も破壊されるのです。

 オスマン帝国の時代以前までは、近隣諸国は財政の悪化で苦しくなると海路を攻め、このイスタンブールの海を囲み、ビザンチン帝国を海上封鎖をして貿易の邪魔をしたのです。
 イスタンブールの経済は麻痺し、時の経済界が政府に陳情し政府・財界で和解金を積んで海上封鎖は解かれたのです。
 何時の時代も、国と国との外交の舞台裏には巨額の金が動き金をむしり取るのです。米朝・日朝間も同じなのです。ガイドが裏話を披露して気が付いたのです。
 彼は、歴史、哲学に造詣が深く色々な秘話をしてくれたのです。
みんなの意見でビザンチン帝国の黄金の城扉に行くことにしました。
 そして、何千回と多くの兵士たちが、皇帝に見送らて出兵した黄金の扉に行って見ると外堀はあるのですが風雪に耐えられず、風化して幅は狭まり、道路から20mくらい入ったイスラム教の墓地の隘路を行った奥にありました。
 今は、観光客も訪れず案内書にも掲載されておりません。こんな墓地の奥にあること自体、誰も想像しませんでした。足の悪い方が、運転手さんにお姫様抱っこで見学したのです。
 今は、黄金の扉も金箔がはげ落ち巨大な鉄の門でした。歴史の中に静かに朽ち果てることでしょう。

教訓:栄光の黄金の扉も今は墓地の奥、静かに歴史の影になるんです。

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