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100年前の日本の風景が古代4大文明のアナウ丘にあった

2017.10.11 (水)

世界4大文明といえばエジプト・メサポタミヤ・中国・インドです。そして、中央アジアのアナウ遺跡に来るまでは私自身もエジプトが1番早く文明が興ったと思っておりました。
添乗員の話しではこのアナウ遺跡が世界最初だそうです。あまり有名でないのかは、日干し煉瓦の遺跡のため7000年の風雪に耐えられず、大地に帰ったからののです。
この遺跡は、トルクメニスタンの首都アシハバードから25km東に行ったところあるのです。
この周りにはメルヴの遺跡・テペの遺跡などがあるのです。世界最西端の仏教遺跡「グーズ・カラー遺跡」があり、100平方kmに及ぶ日干し煉瓦の城壁と掘割の遺跡があり、人骨なども出土当時の状況で散乱しているのです。
また、トルクメニスタン国立博物館を見学したときに驚きの連続でした。紀元前3000年~2000年栄えた古代マルグーシュのコーナーには女性の土偶やゾロアスター教の神殿の出土品、4輪馬車の車輪(アルシンベルのファラオ・ラムセス2世の壁画は2輪車)などが展示されているのです。紀元前3世紀に栄えたニサの遺跡ではミロのヴィーナスそっくりのヴィーナス像があったのです。女性の魅力は何処の国も『くのいち』なのですね。
かって、ソ連の支配下にあったトルクメニスタンのドライブインでランチを取った時に、星と月の刻印のある壺を見ので思い出に写真撮ってきました。
日本の100年前の風景は、小高い山の上の神殿跡で出会ったのです。
65年前の1948年イラン大地震で崩壊した日干し煉瓦の巨大な青龍の刻まれた柱と屋根のある祭壇を何かお願い事をしている若いお嫁さんと義母の姿でした。きっと子供さんが早世し世継ぎの男子を願いともに願掛けの巡礼に来ていたのでしょう。
遺跡のテーブルの周りを7回まわるとお願い事がかなえられるそうです。100年前の日本の嫁と姑の姿でした。
戦前の神社にあったお百度参りのようなものですね。また、何処の国も手を合わせ、神・仏に向かいお願い事をする光景は同じだと思いました。
また、7回まわるこの数字も何処の国でもゲンを担ぐのでしょう。
願いかねってお子さんの誕生を心の中で願ったのはこの旅友で私だけでなかったと思います。
歴史の中の喜び悲しみ、そして早世した赤子の鳴き声が風の音に交じって聞こえそうな、この高台も砂漠での村を流す豪雨にも耐えたのです。しかし、大地震の前に崩れ去りながら、今でも亡くなった子供への信仰は続いているのです。
撮影に夢中になっていたのか、尿意を模様し青空トイレと思ったのですが、神聖な信仰の地を汚してはと思いとどまり、現地添乗員に聞いて、バスの止まってる事務所に急いで駆け下りてトイレにやっと間似合いました。
今夜のホテルはアシカバードで4星です。私たちのルームメイトは若くて可愛い2人組でした。めったに来ない日本人なので話しかけてきたのです。ゼスチャーと下手な絵をかいての国際交流です。
笑顔があればみな友達。美人ちゃんに囲まれて撮影。笑顔で眠りにつきました。

高速道路を平然と牛の行列

2017.10.10 (火)

中国の新シルクロードは西安から約5000kmあるのです。そして、ロマンあるのです。楼蘭美女をはじめに敦煌・莫高窟・火炎山・孔子の末裔が観光案内してくれた、20mの大仏寺、ジンギスカン終焉地六盤山、張騫、天にも届くと言われる黄土高原、黄河の景勝地炳霊寺、地層の美しだの張掖丹霞、雷台漢墓、嘉峪関、三蔵法師滞在したトルファンなどの見どころ一杯のシルクロードです。
日本では、あり得ない風景があるのです。高速道路を牛が平然と隊列を隊を組んで通行しているのです、その数20頭以上です。
牛ばかりでなく、羊、ヤギもそうなんです。
こんな風景が、野生のリンゴのなる菓子溝と呼ばれる所なんです。
流石の暴走運転手も困惑しています。
なぜんなことが起こったかです。
元々は旧シルクロードには放牧の牛、羊,ヤギの群が渡れたのです。それをつぶしてまで建設をしたのが新シルクロードです。トンネルと高架の橋で渡し、28kmにも及ぶ新シルクロードの建設なのです。
中国は共産党の独裁のお国柄です。
何も文句はいえないのです。生活道路を、失ったカザフ族は微かのも抵抗をしているのです。
もちろんカザフ族等の遊牧民族は、馬に騎乗して新シルクロード通過しているのです。遊牧民族は平然と馬を引き連れ、、牧草地に毎日通っているのです。
日本では笑っちゃいますが彼らにとっては死活問題です。また、街路樹も変化し、仏教遺跡からイスラム教に変化し、風景が変わってゆくのです。もちろん、そこに住む人々の食べ物、住まい、帽子、服装までが変化し、人口の70%はイスラム教徒なのです。
しかし、ソ連の支配下なると皆、中国と同じ様に無宗教化にさせらられたのです。
こんな辺境地で地も、大きなレストランでは日本の袢纏を着用したお寿司屋さんがいて、握り寿司が出るのです。
まさかと思い写真を収めたのです。それも、職人さんのバックの文様は紺地の勾玉でした。
かわいい3人姉弟がポーズを取ってくれたのです。デナーが終わりバンドが大音響で演奏されるとみんが踊り出し、われわれの女性軍もリズムに合わせ踊り出しました。
笑顔があればみな友達です。国際交流は人なのです。

驚きのシルクロードの旅

2017.10.09 (月)

羽田を飛び立ち、西安で盛大なシルクロ―ド出発の団結式を中国観光局のガオさんに見送られ、オアシス都市敦煌についたのです。敦煌では、国賓の宿泊する「敦煌飯店」に2度目の宿泊でした。
アシュカバットで無理やり頼んでソ連仕込みの「儀仗兵の交代儀式」私たち24名で観光、このアシュカバットはオイルマネーで白い大理石の20階建てくらいのビルが市内に林立しているのです。大理石の産地はイタリア・カララ産だそうです。
前日の旅の疲れを癒そうと午後3時ごろにホテルにチェックインしたのです。
翌日はイスラム教の聖地イマームレザー廟を見学でした。初めて見る聖地巡礼、金曜モスク、熱狂のお祈り、聖者の眠るガラスケースのふれあい、どうやっても時間内に「アラーアクバル・アラーアクバル」を点呼しながら侵入したのですが目がい叶わずでした。
そんなことで、多少集合時間が遅れ、気ままなバスの旅もあって宿泊施設決まらなかった事を二村添乗員が平謝り、24人の寛大な処置で、うまれて初めて止まる砂漠の中のモーテールが今夜の宿となったのです。
モーテルのゲートは立派なのですが、部屋に入って驚き。2人で泊まるところにベットが8個あるのです。
シーツは薄汚れ、トイレの入ったは良いけれど、日本の和式なのです。
イスラム教徒は、男性のおしっこも座らないといけないのです。
それだけならば良いのですが、トイレのドアが閉まらないのです。
困ってしまいましたが、まあいいやと放尿、日本の宿で今は和式は少ないもので少し戸惑いました。
さあ、寝ようと思って、入り口のドアを閉めようとしたのですが、やはりカギはかからず。
二村添乗員曰く、東日本震災を思えば、単独で泊まることができるので我慢してくださいと・・・・・。
富士山の山小屋よりましとお客言ってましたとさ。
また寝てからが大変、砂漠の熱気が閉まらなドアから入ってくるのです。それに付け加えトイレの匂いがするのです。
仕方なし、外気に触れ、空を見たら上弦の月が輝いておりました。
多少、睡魔が迎えに来たのでベットに横たわると、クーラーがなく、ターボファンの「ゴート」音で目が覚めるのです。
私は、胆管癌の手術で頻尿なので困りました。
人間の記憶は面白いですね。4星ホテルの思い出は少なく、おんぼろ宿の記憶.鮮烈なのですね。

教訓:砂漠のモーテルは我慢せよ。止まれないよりましと思へ。.

駿馬を求めて張騫は行く

2017.10.07 (土)

日本では世界史を習得した者でさえ「張騫・霍去病・呂布将軍」を知っている方は少ないと思います。
私も、シルクロードの旅で始め知ったのです。張騫無しに現在の中国はありえないのです。
紀元前115年、ローマ帝国が勃興した時代です。張騫は、今でいう冒険家(西洋のマルコポーロ・コロンブス・バスコダガマ)と外交・活動家を兼ね備え、漢7代皇帝武帝に仕えたのです。
秦の始皇帝は、中国を平定ましたが、華西の地やモンゴルの匈奴と呼ばれる騎馬民族に怯えていたのです。また、漢の6代皇帝も同じでした。
その為に、外敵の匈奴から国土を守るために万里の長城は築かれたのです。秦の始皇帝や漢の皇帝たちは皇女を嫁がせ、人質によって手なずけようとしたのです。
紀元2世湖ごろ(東周戦国時代)東周は匈奴との戦いに10万頭の騎馬軍が壊滅したのです。
当時は鞍や鐙はなく、匈奴の騎馬民族の前にあっけなく敗れたのです。
東周は農耕馬で馬騎軍団を編成していたのです。鎧をつけた人の体重が55Kg+鎧が30Kgも有るのです。きびきび動けない農耕馬に80Kgの重さは無理な結果です。
私たちは、機会あって楼蘭で美女のミイラと蟹股の騎馬軍団の将軍のミイラを見て来ました。この時代は軍馬を脚で鋏込むしか方法がなかったのです。

張騫は大宛(フェルガナ)に汗血馬という血の汗を流し、1日千里を飛ぶように走る馬が飼育されていると進言したのです。
張騫は、武帝の命を受け華西の大月氏に使者として使わされ途中で匈奴に捕まり、20年の歳月を囚われの身となったのです。
そういえば、木村村重に囚われた黒田官兵衛のようです。
張騫は匈奴の捕囚の間、意思を曲げずに機を見て脱出し、漢の武帝のところに戻り報告したのです。
武帝は、純金製のしかも等身大の馬を作らせ、大宛の貢物としたのですが断れたのです。
しかし、3年後に内乱が起きその機に乗じて攻め入り汗血馬を手に入れ
華西の地を統治し、強大な漢王朝を築いたのです。
張騫は始終、外交の旅に出て、翌年の紀元114年に病で47歳の若さで倒れたのです。
この汗血馬は雷台廟から出土して、私たちのシルクロ―ド旅程の途中でした。
武威広場には花に囲まれた大きな汗血馬が10mくらいの高さにレプリカと、また、汗血馬を囲むような陣形の騎馬軍団のレプリカで構成されてみるものを楽しませてくれました。
しかし、雷台廟からは出土した汗血馬の青銅製は燕のように天を駆け巡る様でした。本物は40cmくらいの小さなものですが、まさに燕を踏みつけ飛んでいるデザインでした。
漢の武帝は霍去病を将軍に、匈奴に決戦に挑み、華西回廊から追い出したのです。
この、張騫と霍去病の存在がなければ今の中国はないのです。
私たちシルクロードの旅の「旅とも」は雷台漢墓に入り、汗血馬(馬踏襲燕)が右端奥から出土し、馬の骨もあったそうです。
今は、薄暗いレンガで積まれた楕円形の空間があるのみでした。
私たちは9月6日、蘭州から武威で本物の馬踏飛燕を博物館で見学したのです。
この武威はゴビ砂漠の入り口にあって、都市化の波が押し寄せ、破壊と再開発が入り混じったほこりっぽい都市でした。
中国は赤紙(坼の文字)を貼られた民家は6か月以内に立ち退かなければならず、問答無用で取り壊されるのです。
この武威は、インドから経典を持ち帰った三蔵法師や、経典を漢語の翻訳した破壊僧・鳩摩羅什の遺跡や大雲寺の鐘楼や三つの怖そうな仏像もあるのです。また、日本の僧の足跡もあるのです。

現在、大宛はトルクメスタンの国名で世界地図に記載され、長くは中国、ロシアの支配化の有りました。そのため、現在スイスと同じく永久中立を国是としています。
日本にもトルクメスタンの大統領(ベルデェム・ハメドフ氏)が来日し、豊富な資源外交繰り広げたのです。
砂漠のオアシス都市ですが、これ見よがしに市内のあちこちに噴水があり、夜は不夜城の香港のようでした。
私達は5星ホテルに宿泊し国家元首の気分でした。しかし、トルクメスタンは独裁国家で、大統領官邸、ホテル,官庁街に巨大な大統領の写真が無里やりかざられ興味をそがれました。
また、とんだハプニングありありました。旅友の一人が黄金に輝くドームの屋根の大統領官邸を撮影し、警察のとがめられ、現地添乗員と二村添乗員が謝罪して釈放されたのです。

教訓:軍の施設や大統領官邸は撮影は禁止です。

鉄壁のイスタンブールの城壁と黄金の扉

2017.10.06 (金)

シルクロードの旅の旅もアジアからイスタンブールの黒海とマルマラ海に掛かる海峡の吊り橋を渡るとヨーロッパでです。。
私たちは、海峡を見渡せるステキなレストランでレンチを頬張り、美味しいコーヒーを飲んだのです。
海峡には豪華客船が行きかい、また、現地添乗員のアリプールが通訳した大成建設の第2海峡橋も垣間見えるのです。
東ローマ帝国の皇帝テオドシウスの建設した鉄壁の城門が観光客を引き付けてやまないのです。
構造は3重になっており、1000年も間、難攻不落を誇り、コンスタンチノープル(現在イスタンブール)を守り続けたのです。長さは7kmにも及び外敵を寄せ付けなかったのです。
第1の城壁が高さ11m、厚さ5mにもあるのです。第2の城壁が高さ8.5m厚さ10m強固さなのです。
しかし、時代が兵器の進歩に依って、大砲の時代になるとオスマントルコ帝国が勃興し、大航海時代の幕開けの1453年鉄壁の城壁も破壊されるのです。
オスマン帝国の時代前までは、近隣諸国の財政の悪化で苦しくなると海路を攻め、このイスタンブールを囲み、ビザンチン帝国を海上封鎖をし、貿易の邪魔をしたのです。
イスタンブールの経済は麻痺し、時の経済界が政府に陳情し政府・財界で和解金を積んで海上封鎖は解かれたのです。
添乗員がこんな面白い裏話を披露したのです。
彼は、歴史、哲学に造詣が深く色々な秘話をしてくれたのです。
そして、ビザンチン帝国の兵士たちが皇帝に見送らて出兵した黄金の扉に行ってみたのです。外堀はあるのですが風雪に耐えられず、風化して狭まり、道路から20mくらい入ったイスラム教の墓地の隘路を行ったのです。
観光客は訪れず、案内書にも掲載されておりません。みんなの意見で黄金の城門に行くことにしました。
足の悪い方が居たので、運転手の助手がお姫様抱っこで見学したのです。
今は、黄金の扉も金箔がはげ落ち、巨大な鉄の門でした。歴史の中に静かに朽ち果てることでしょう。
この城門から何千回となく兵士が見送られ東ローマ帝国の繁栄を築いたのです。

サグラダファミリアの遅延工事は金策の果て

2017.10.05 (木)

地球1周の旅もちょうど半分を過ぎ、夫婦2人旅も緊張から、楽しさへとゆとりの旅になりました。バルセロナの船着き場でゴンドラを眺めながら、時間があったので誘われるままに、地中海クルーズと高速モーターボートでぶっ飛ばしました。
お客は、私たちとイランから来た新婚さん、他に4~5人ぐらいでした。。すごいスピードで波の上を飛んでいるようでした。
30分ぐらいで湾内クルースでイランの新婚さんとシルクロードの旅でイランのステファンに行った事などイランの素晴らしさを手まね交えて話しました。
まだ、時間があったのでサグラダ・ファミリアに行ってみました。観光客の多さにびっくりし、事前学習と思いチケットを買って入場しました。細部の彫刻がすごいのと教会の面によって、表現の技法が違うのです。
内部は、今までの教会と違い、明るく、見るものを新鮮な、しかも尊厳な気持ちなるのです。私たちが何か所も観光した教会は、中央にステンドグラス、その神秘な明かりを受けたキリストの十字架とミサを行う祭壇、一段下がって下に祈りを捧げる木製の簡素な椅子が並んでいるのです。
このサグラダファミリアは芸術品の空間と近代的な異次元の世界を内包してました。
アントニオ・ガウデイの設計による小さなレプリカと簡単な設計図で時代に合わせ、設計士、デザイナー、美術彫刻士などの話し合いで、最善の方法がとられ、その協議のロス以上に素晴らしさが際立っているのです。
その結果、建設予算のかさんだのです。途中、信者の寄付が集まり、また工事の再開を繰り返し、100年の歳月が過ぎたのです。
それだけでなく、ガウデイが、サグラダファミリアから帰宅する途中、交通事故にあったのです。
もちろん、彼自身も生前中に完成することはないと思っていたのです。
西洋の建築は、日本の建築と違い大理石が多く、彫刻にとんでもない時間を費やしたのです。
私たちも、建築に携わる人間として、木造といえど伽藍建築の彫刻はとても時間を要するものなのです。
このサグラダファミリアも世界遺産に登録され、内部の完成が2010年、ローマ法王の訪問によって工期を急いだのです。
資金的にも寄付金のみでは調達に難しくスペイン国に移管されたのです。多少の資金的余裕ができ、また、工法的にも柱の中心に鉄の心棒を入れ、大理石を2分割、3分割にして、半月状の直径500mmくらいの円筒にしたのです。
円筒状の大理石の内部に、コンクリートを流し込み、強度を向上させ
しかも、彫刻の厚さに合わせ円筒の厚さを50mm~75mm程度にしたのです。
この工法も、技術の進歩があって可能になったのです。予算的にも軽減され、コンピュター、3Dプリンターやコンピュター数値制御及び石材加工機の進歩によって加速しているのです。
技術革新の目覚ましい発展によって、300年の歳月を要すると言われた、この巨大教会建築も竣工までに150年と半減されるのです。
このサグラダファミリアも日本人彫刻家「外尾悦郎氏」が指揮を執る生誕の門の完成を見たのです。
日本人の活躍が世界の各分野で見られることもうれしいことです。

馬小屋で過ごしたレオナルドダ・ビンチの最後の晩餐

2017.10.03 (火)

スイスに近いイタリア第2の都市ミラノに、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院があります。今は、ユネスコ世界遺産に登録され、観光の目玉です。ここに世界の天才画家レオナルドダヴィンチの最後の晩餐の絵画があるのです。
北条早雲をが小田原城を攻めた室町時代の1495年ダビンチが3年がかりで書き上げた世界的名画です。
しかし、損傷が他の絵画より激しいのです。
この最後の晩餐は、当時フレスコ画が主流でしたが、天才のダビンチは、絵を描くの遅く、このような4.2m*0.9mの大作にフレスコ画に膠の乾燥に追いつけづ、絵画が書けなかったのでしょう。
当時としては画期的な技法でした。
また、フレスコ画は、明るさを出すことが難しく、暗い絵画になることを意図的に拒んだのです。キリストを中心に、表情を明るくし、また、遠くの物ほど白く霞めること追求したのです。
ダビンチは、今までの絵画だ輪郭線があったのですが。、現実の人がや他の物に輪郭がないことを突き止め、現実の近づけたのです。
随所に彼の天才性を見ることができるのです。

絵の細部にわたるまで完璧にするために、ダ・ヴィンチは石の上にテンペラ(卵黄や蜂蜜・膠(にかわ)などを混ぜた不透明な絵の具)を用いた彼独自の新しい技術を導入しテンペラを吸収させ、そして水分から絵画を守る素材をあらかじめ壁に塗り込でいました。
最後の晩餐は、奇跡が奇跡を呼び現在修復されて現在は人間の呼吸・体温等から劣化を防ぎ、世界中の人に見てもらいたく鑑賞時間15分、人数30名と制限されております。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれたものでですが、ナポレオンによってイタリア攻めの馬小屋になって、馬の糞尿の湿気・尿素の臭気に侵され劣化をひどくしたのです。
この修道院は、大戦の戦火の中で、屋根が抜け、かろうじて被爆を免れたのです。また、洪水で水につかり損傷は進みましたが、全面剥離に至らなかったのです。
500年の損傷と汚れを1人の修復師が20年以上の歳月をかけて蘇らせたのです。
この修道院の観光バスの集合場所の近くを昔懐かしい近代的なチンチン電車が走り、レトロな風景を見せてくれました。
また、幻獣を形どった粋な水栓からバルブがなく、飲料水がちょろちょろと流れ「あ~、異国だなと感じ悦に行っていたのは私だけでしょうか。

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