Calendar

<< 2018/2  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 >>

記事一覧

駿馬を求めて張騫は行く

2017.10.07 (土)

日本では世界史を習得した者でさえ「張騫・霍去病・呂布将軍」を知っている方は少ないと思います。
私も、シルクロードの旅で始め知ったのです。張騫無しに現在の中国はありえないのです。
紀元前115年、ローマ帝国が勃興した時代です。張騫は、今でいう冒険家(西洋のマルコポーロ・コロンブス・バスコダガマ)と外交・活動家を兼ね備え、漢7代皇帝武帝に仕えたのです。
秦の始皇帝は、中国を平定ましたが、華西の地やモンゴルの匈奴と呼ばれる騎馬民族に怯えていたのです。また、漢の6代皇帝までは同じでした。
その為に、外敵の匈奴から国土を守るために万里の長城は築かれたのです。秦の始皇帝や漢の皇帝たちは皇女を嫁がせ、人質によって手なずけようとしたのです。
紀元2世湖ごろ(東周戦国時代)東周は匈奴との戦いに10万頭の騎馬軍が壊滅したのです。
当時は鞍や鐙はなく、匈奴の騎馬民族の前にあっけなく敗れたのです。
東周は農耕馬で馬騎兵隊を編成していたのです。鎧をつけた人の体重が55Kg+鎧が30Kgも有るのです。きびきび動けない農耕馬に80Kgの重さは無理な果樹です。
私たちは、機会あって楼蘭で美女のミイラと蟹股の騎馬軍団の将軍のミイラを見れ来ました。この時代は軍馬を脚で鋏込むしか方法がなかったのです。

張騫は大宛(フェルガナ)に汗血馬という血の汗を流し、1日千里を飛ぶように走る馬が飼育されていると進言したのです。
張騫は、武帝の命を受け、華西の大月氏に使者として使わわされ、途中で匈奴につかまり捕まり、20年の歳月を囚われの身となったのです。
そういえば、木村村重に囚われた黒田官兵衛のようです。
張騫は匈奴の捕囚の間、意思を曲げずに機を見て脱出し、漢の武帝のところに戻り報告したのです。
武帝は、純金製のしかも等身大の馬を作らせ、大宛の貢物としたのですが断れたのです。
しかし、3年後に内乱が起きその機に乗じて攻め入り汗血馬を手に入れ
華西の地を統治し、強大な漢王朝を築いたのです。
張騫は始終、外交の旅に出て、翌年の紀元114年に病で47歳の若さで倒れたのです。
この汗血馬は雷台廟から出土して、私たちのシルクロ―ド旅程の途中でした。
武威広場には花に囲まれた大きな汗血馬が10mくらいの高さにレプリカと、また、汗血馬を囲むような陣形の騎馬軍団のレプリカで構成されてみるものを楽しませてくれました。
しかし、雷台廟からは出土した汗血馬の青銅製は燕のように天を駆け巡る様でした。本物は40cmくらいの小さなものですが、まさに燕を踏みつけ飛んでいるデザインでした。
漢の武帝は霍去病を将軍に、匈奴に決戦に挑み、華西回廊から追い出したのです。
この、張騫と霍去病の存在がなければ、今の中国はないのです。
私たちシルクロードの旅の「旅とも」は雷台漢墓に入り、汗血馬(馬踏襲燕)が右端奥から出土し、馬の骨もあったそうです。
今は、薄暗いレンガで積まれた楕円形の空間があるのみでした。
私たちは9月6日、蘭州から武威で本物の馬踏飛燕を博物館で見学したのです。
この武威はゴビ砂漠の入り口にあって、都市化の波が押し寄せ、破壊と再開発が入り混じったほこりっぽい都市でした。
中国は赤紙(坼の文字)を貼られた民家は6か月以内に立ち退かなければならず、問答無用で取り壊されるのです。
この武威は、インドから経典を持ち帰った三蔵法師や、経典を漢語の翻訳した破壊僧鳩摩羅什の遺跡や大雲寺の鐘楼や三つの怖そうな仏像もあるのです。また、日本の僧の足跡もあるのです。

現在、大宛はトルクメスタンの国名で世界地図に記載され、長くは中国、ロシアの支配化の有りました。そのため、現在スイスと同じく永久中立を国是としています。
日本にもトルクメスタンの大統領(ベルデェム・ハメドフ氏)が来日し、豊富な資源外交繰り広げたのです。
砂漠のオアシス都市ですが、これ見よがしに、市内のあちこちに噴水があり、夜は不夜城の香港のようでした。
っ私は5星ホテルに宿泊し国家元首の気分でした。しかし、トルクメスタンは独裁国家で、大統領官邸、ホテル,官庁街に巨大な大統領の写真が無里やりかざられ興味をそがれました。
また、とんだハプニングありありました。旅友の一人が黄金に輝くドームの屋根の統領官邸を撮影し、警察のとがめられ、現地添乗員と二村んが謝罪して釈放sさたのです。

教訓:軍の施設や大統領官邸は撮影は禁止です。

鉄壁のイスタンブールの城壁と黄金の扉

2017.10.06 (金)

シルクロードの旅の旅もアジアからイスタンブールの黒海とマルマラ海に掛かる海峡の吊り橋を渡るとヨーロッパである。
私たちは、海峡を見渡せるステキなレストランでレンチを頬張り、美味しいコーヒーを飲んだのです。
海峡には豪華客船が行きかい、また、現地添乗員のアリプールが通訳した大成建設の第2海峡橋も垣間見えるのです。
東ローマ帝国の皇帝テオドシウスの建設した鉄壁の城門が観光客を引き付けてやまないのです。
構造は3重になっており、1000年も合うだ難攻不落を誇り、コンスタンチノープル(現在イスタンブール)を守り続けたのです。長さは7kmにも及び外敵を寄せ付けなかったのです。
第1の城壁が高さ11m、厚さ5mにもあるのです。第2の城壁が高さ8.5m厚さ10m、外壁が高さ8.5m、厚さ10m強固さなのです。
しかし、時代が兵器の進歩に依って、大砲の時代になるとオスマントルコ帝国が勃興し、大航海時代の幕開けの1453年鉄壁の城壁も破壊されるのです。
オスマン帝国の時代前までは、添乗員の説明では、近隣諸国の財政の悪化で苦しくなると海路を攻め、このイスタンブールを囲み、ビザンチン帝国を海上封鎖をし、貿易の邪魔をしたのです。
イスタンブールの経済は麻痺し、時の経済界が政府に陳情し政府・財界で和解金を積んで海上封鎖は解かれたのです。
アリプールがこんな面白い裏話を披露したのです。
彼は、歴史、哲学に造詣が深く色々な錘ロい話をしてくれたのです。
そして、ビザンチン帝国の兵士たちが皇帝に見送らて出兵した黄金の扉に行ってみたのです。外堀はあるのですが風雪に耐えられず、風化して狭まり、道路から20mくらい入ったイスラム教の墓地を超えてゆかなければ行けないのです。
観光客は訪れず、案内書にも掲載されておりません。みんなの意見で黄金の城門に行くことにしました。道なき道を墓石をかいくぐってです。
足の悪い方が居たので、運転手の助手がお姫様抱っこで見学したのです。
今は、黄金の扉も金箔がはげ落ち、巨大な鉄の門でした。歴史の中に静かに朽ち果てることでしょう。
この城門から何千回となく兵士が見送られ東ローマ帝国の繁栄を築いたのです。

サグラダファミリアの遅延工事は金策の果て

2017.10.05 (木)

地球1周の旅もちょうど半分を過ぎ、夫婦2人旅も緊張から、楽しさへとゆとりの旅になりました。バルセロナの船着き場でゴンドラを眺めながら、時間があったので誘われるままに、地中海クルーズと高速モーターボートでぶっ飛ばしました。
お客は、私たちとイランから来た新婚さん、他に4~5人ぐらいと私たちだけでした。すごいスピードで波の上を飛んでいるようでした。
30分ぐらいで湾内クルースでイランの新婚さんとシルクロードの旅でイランのステファンに行った事などイランの素晴らしさを手まね交えて話しました。
まだ、時間があったのでサグラダ・ファミリアに行ってみました。観光客の多さにびっくりし、事前学習と思いチケットを買って入場しました。細部の彫刻がすごいのと教会の面によって、表現の技法が違うのです。
内部は、今までの教会と違い、明るく、見るものを新鮮な、しかも尊厳な気持ちにするのです。私たちが何か所も観光した教会は、中央にステンドグラス、その神秘な明かりを受けたキリストの十字架とミサを行う祭壇、一段下がって下に祈りを捧げる木製の簡素な椅子が並んでいるのです。
このサグラダファミリアは芸術品の空間と近代的な異次元の世界を組み立ているのです。
アントニオ・ガウデイの設計による小さなレプリカと簡単な設計図で時代に合わせ、設計士、デザイナー、美術彫刻士などの話し合いで、最善の方法がとられ、その協議のロス以上に素晴らしさが際立っているのです。
その結果、建設予算のかさんだのです。途中、信者の寄付が集まり、また工事の再開を繰り返し、100年の歳月が過ぎたのです。
それだけでなく、ガウデイが、サグラダファミリアから帰宅する途中、交通事故にあったのです。
もちろん、彼自身も生前中に完成することはないと思っていたのです。
西洋の建築は、日本の建築と違い大理石が多く、彫刻にとんでもない時間を費やしたのです。
私たちも、建築に携わる人間として、木造といえど伽藍建築の彫刻はとても時間を要するものなのです。
このサグラダファミリアも世界遺産に登録され、内部の完成が2010年、ローマ法王の訪問によって、内部の工期を急いだのです。
資金的にも、スペイン国に移管されたのですが、多少の資金的余裕ができ、また、工法的にも柱の中心に鉄の心棒を入れ、大理石を2分割、3分割にして、半月状の直径500mmくらいの円筒にするのです。
円筒状の大理石の内部に、コンクリートを流し込み、強度を向上させ
しかも、彫刻の厚さに合わせ円筒の厚さを50mm~75mm程度にしているのです。
この工法も、技術の進歩があって可能になったのです。予算的にも軽減され、コンピュター、3Dプリンターやコンピュター数値制御の石材加工機の進歩によるのです。
技術革新の目覚ましい発展によって、300年の歳月を要すると言われた、この巨大教会建築も150年に半減されるのです。
サグラダファミリアも2025年完成と前倒しされる予定です。
このサグラダファミリアも日本人彫刻家「外尾悦郎氏」が指揮を執る生誕の門の完成を見るのです。
日本人の活躍が世界の各分野で見られることもうれしいことです。

馬小屋で過ごしたレオナルドダ・ビンチの最後の晩餐

2017.10.03 (火)

スイスに近いイタリア第2の都市ミラノに、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院があります。今は、ユネスコ世界遺産に登録され、観光の目玉です。ここに世界の天才画家レオナルドダヴィンチの最後の晩餐の絵画があるのです。
北条早雲をが小田原城を攻めた室町時代の1495年ダビンチが3年がかりで書き上げた世界的名画です。
しかし、損傷が他の絵画より激しいのです。
この最後の晩餐は、当時フレスコ画が主流でしたが、天才のダビンチは、絵を描くの遅く、このような4.2m*0.9mの大作にフレスコ画に膠の乾燥に追いつけづ、絵画が書けなかったのでしょう。
当時としては画期的な技法でした。
また、フレスコ画は、明るさを出すことが難しく、暗い絵画になることを意図的に拒んだのです。キリストを中心に、表情を明るくし、また、遠くの物ほど白くかすめること追求したのです。
ダビンチは、今までの絵画だ輪郭線があったのですが。、現実の人がや他の物に輪郭がないことを突き止め、現実の近づけたのです。
随所に彼の天才性を見ることができるのです。

絵の細部にわたるまで完璧にするために、ダ・ヴィンチは石の上にテンペラ(卵黄や蜂蜜・膠(にかわ)などを混ぜた不透明な絵の具)を用いた彼独自の新しい技術を導入しました。テンペラを吸収させ、そして水分から絵画を守る素材をあらかじめ壁に塗りこんでいました。
最後の晩餐は、奇跡が奇跡を呼び、現在修復されて、現在は
鑑賞時間15分、人数30名と制限されております。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれたものでですが、ナポレオンによってイタリア攻めの馬小屋になって、馬の糞尿の湿気・尿素の臭気に侵され劣化をひどくしたのです。
この修道院は、大戦の戦火の中で、屋根が抜け、かろうじて被爆を免れたのです。.また、洪水で水につかり損傷は進みましたが、全面剥離に至らなかったのです。
500年の損傷と汚れを1人の修復師が20年以上の歳月をかけて蘇ったのです。
この修道院の観光バスの集合場所の近くを昔懐かしい近代的なチンチン電車が走り、レトロな風景を見せてくれました。
また、幻獣を形どった粋な水栓からバルブがなく、飲料水がちょろちょろと流れ「あ~、異国だなと感じ悦に行っていたのは私だけでしょうか。

ムッソリーニが考えたバチカン市国、世界最小の宗教国家

2017.10.03 (火)

世界には、小さな国家が太平洋の島礁やカリブ海の中にもあります。
しかし、小さいながら世界に影響力持つ国家は「バチカン市国」置いて他になりません。
バチカン市国の国民は、現在は800に人にも満たないのです。しかし、スイスの傭兵を雇いっているのです。昔は、騎馬隊も存在したのです。
現在は、外国の国賓が訪問の時、儀仗兵の役割を果たしているのです。
今ではバチカン市国は、29ヶ国に大使を派遣し、貨幣、切手を発行し、国際放送も行っているのです。
そして、国家そのものが世界遺産になり、イタリアの至宝が沢山収蔵されております、
コンクラーベ(教皇の選挙)の行われる天井画は、ミケランジュロの最後の審判がドーム天井に描かれています。
スイスの傭兵の服装はかっこよく1914年に制定されたそうです。スイスの傭兵は、スイスは永久中立を宣言しているので傭兵というより、警察官の役めをはたしています。。
なぜ、バチカン市国の建国は、不思議なくらいなのです。ムッソリーニが三国同盟国を結んだドイツのヒトラーを信じていなかったのです。
なんかの本で読んだのですが、ヒットラーは一時的かもしれませんが、イタリアに侵攻したのです。
その為1929年2月11日教皇ピウス11世の全権代理枢機卿とムッソリーニの間でイタリアから独立したのです。
ムッソリーニは、ヒットラーも独立国のバチカンには攻め侵攻ないだろうと、イタリアの国宝をバチカン全土を美術館のように考えたのです。
元々は、バチカン市国は城壁に囲まれておりました。
今では、その国境も80cmくらいのポールと白線が目印です。
私たち24名は、1.2.3と声を合わせて越境したのです。
普通は気づかないうちに、国境を超えてしまうのですが、二村さんと一緒に声を張り上げて大股の儀式化して国境越えをしたのです。
皆さんもやってもたらいかがですか。カメラの撮影も忘れないように。
バチカンには気づかない逸話が沢山あります。切手を発行していますが、バチカン市国の国内のみ使用できない切手なのです。
また、近くのイタリア人は、わざわざバチカンの郵便局に手紙等を持って行くのです。配達の速さは、ローマ市内のポストに投函するより相手側に早く届くのです。
スイスの傭兵は1500スイスフランで支払われ、日本円にして11万円くらいの安月給です。
でも心配ないのです。国保の免除、住宅費、食費の保証がある上に、イタリアなど近隣諸国の職業訓練が受けられ、IT技術の勉強もできるのです。また、奨学金のような制度もあって人気があるのです。言語は、ラテン語を公用語として使い、江戸時代までの日本の漢字みたいです。
私も知らなかったのですが、イタリア鉄道と連絡する鉄道があるのです。
低額のコインはユーロでなくバチカン市内でしか使用できなできない自国通貨を鋳貨しているのです。
800人の国家ですが、立派な国家としての体裁は確立しているのです。

コロッセオの歴史の変遷

2017.10.02 (月)

胆管癌の手術を、69歳の時の坂本先生の執刀で行い、翌年1月「イタリア10日間の旅」に、私は気乗りがしなかったのですが、妻の希望で申し込んだのです。体調がよくないのでツアーに申し込みました。
イタリア北部のミラノの空港に降り立ち、バスで南下したのです。
最後のロー市内の観光で、体調も少しずつ良くなってきたのです。
ローマに行った方でコロッセオ絶対に行くところです。
今回はツアー旅行でしたので、コロッセオの観光したのですが、中に入ることは叶いません。写真を撮影しようと、カメラを向けましたが、大きすぎて広角レンズを持参しなかったのでファイインダー入りませんでした。
2度目のシルクロードの旅では、時間的にもゆとりがあったので中に入って驚きました。
また、それぞれの説明板を見ながら驚きの連続でした。
フランスのポン・デ・ガール(ガール水道)と同じ巨石の積み上げにクレーンを使用し、耐震性持たせるために、鉄製の丸棒で結石したのです。積みあげた石灰石のブロックは、10万㎥を超えたのです。
接続の丸棒は300トン以上と言われております。
巨石と巨石の接着は、すり合わせた後、ヘドロのような粘土と石灰と植物の種の絞った油をこね合わせ、巨石同士の間隙に流し込んでいたのです。
しかし、起源300年ごろコンスタンチヌス帝が一神教であるキリスト教を政治に生かし、国民を統治するために利用して、国教化していったのです。

この方法は、名古屋の都築瓦店さんが「広域災害助け合い」の会合で清州城の信長塀(築地塀)の復元工事の工法と同じ施工なんだなと思いながら観光したのです。
コロッセオは50,000人の観客が観戦でき、無料の入場整理券が配られ、現代のシステム的に作られていたのです。
また、水道が引き込まれ、小さな飲み水用の噴水が何か所も設けられていたのです。
今はありませんが、滑車を使用して、吊り上げ式の麻布で作られた日除けテントがあったのです。
昔、船が進水式に使用した巻き上げと滑車が転化されているのです。
観客席は、5階建ての建物に納まり、階級によって、席が決まり今でも当時の頭文字が刻まれた石があるのです。
当然ことであるがトイレの設置が必要でした。トイレはアレクサンダーの父が作ったペラの遺跡(紀元前345年ころ)にも、水洗トイレがあったのです。
コロッセオは暴君ネロで有名な黄金宮殿の庭の一部の岩盤まで掘り下げた池を転用したのです。
暴君ネロの財政の無駄使いの財政悪化、ローマの大火の再建、内戦の財政悪化、何処の国でも同じですが、当時は金本位財政でした。
紙幣が価値を持つようになったのは、つい最近の事です。ニクソンアメリカ大統領がドルを不換紙幣してからです。
暴君ネロ黄金館の巨大池を拡大し、岩盤の上にコロッセオは建設さてたのです。
目的は緊縮財政で、庶民の踏まんのガス抜きのために極悪非道の猛獣と戦わせる施設を作り、だましの政治を執行するためでした。
たった8年で工事を完遂したのです。かくて、円形闘技場は完成したのです。
こけら落としに5000頭のアフリカから連れてきたライオン、ヒョウ、野牛、キリン、象、蛇、イノシシ、ハイエナ、オオトカゲ、アジアライオン、トラなどでした。
人間との戦いは、剣闘士、死刑執行を待つ罪人と戦わせたのです。
込んアイベントが100日も続きローマ市民を熱狂させたのです。
また、時代によって人間同士を戦わせたのです。
また、時代によって死刑の執行の場として利用したのです。
また、岩盤上に建設されていましたので、水をはってラスベガスの屋外で海賊船同士の戦いのように海戦の模擬が行われたのです。
また、時代が下がるとキリスト教を邪悪な宗教とみなし殉教の場所に仕立て上げたのです。しかし、コンスタンチヌス帝が、起源300年ごろ帝国が、ヨーロッパからアフリカに及びイギリスまで拡大すると、多神教では、人心が掌握ができず、反乱、内戦に備えることができず、一神教であれば、人民は、反乱を起こすことがないと確信し、キリスト教を国教にしたのです。
コロッセオがキリストの祈り場所になったこともあるのです。また、、ローマの帝政時代末には、場末のバザールにもなったのです。また、土砂がつもり使用できなくなると、安アパートになり、賃貸住宅群にもなってしまったのです。
しかも、東ローマ帝国になってイスタンブールに遷都するころは、ローマ市内はペストががやり、人口40,000までになってしまったのです。
もちろん、ローマに反旗を翻す国が多発し、自らのも内部規律の乱れ、クーデターの勃発で、敬虔なキリスト教徒が踏みとどまったのです。
第2次大戦から平和が訪れ、今は、ローマは観光立国として、世果中からからインバウンドが訪れ、ローマの財政等を潤しているのです。

アッピ街道(ローマ街道)今も使える?

2017.09.30 (土)

シルクロード15000kmバスの旅も、ローマ郊外の小雨降る中、レストランでランチを取ってから、徒歩で20~25分ぐらい歩いたのです。
アッピ街道までの住宅は、生け垣があって、チョットした遺跡もお墓ある風変わりなルートでした。
また、ローマ独特の地中海松のお屋敷もあるのです。もちろん、生け垣だけでなく石灰石の独特の石塀も存在し、日本の田園調布の住宅街と栃木県大谷市の住宅街を足したような旧街道を歩いたのです。
アッピ街道はギリシャのアレクサンダーが東方遠征に出征した少し後の時代(紀元312年)です。
このアッピ街道は、ローマが領土拡大の野望を持ち始めたころから、道路の延長が拡大し、すべての道はローマに続くで、ローマ全土だけでなくガリア方面からオーストリアの国々まで軍用道路は伸びたのです。
現存するローマ街道は、500km以上の及ぶのです。
起点は、コロッセオのある道路を挟んでローマの官庁街が所からです。
軍用道路は、民間の物資の流通にも使用され、人の行きかいはもとより、物流道路として使用され、ローマ経済は拡大し、より大きなインフラ整備ができたのです。
このローマ街道は、幅4m、歩道が両側に3mもあるのです。当時の馬車幅を考え、馬車がすり替えできたのです。
また、構造的にも驚くべき建設がなされているのです。
構造的にも特筆すべき設計になっているのです。石道の構造は大きな割栗を2mの下層に敷き詰め、上層部に砂と砂利の砂地業になっているのです。上層部は今のピンコロ石を大きくした石また玉石の大きいものが敷設され、排水処理は中央部分を膨らませ、今の日本のアスハルト道路の様になっているのです。
古代中国の幹線道路のように急使が馬を交換させ、また急使が休憩する場所が設けられたのです。10ローマ・マイル(15km程度)でした。
ローマ道路の石畳化に付随して蹄鉄が馬のひずめを守るために蹄鉄の技術も発展したのです。トルコ中央部のアナトリア文明は青銅で作られた蹄鉄だったのです。
元々、自然の馬は、湿地帯や草原で生き延びていたものを家畜化したのです。家畜化の歴史は5000年の歴史があるのです。
アッピ街道は監察官のアッピウスが設計・監督し、ローマの軍用道路道路として作られたのが始まりなのです。
何処の国も同じだと思いますが、国道とは皇帝の御幸と帝国の陸軍を素早く移動させる道路だったのです。
津軽半島の突端に階段国道があることは観光パンフレットでご存知の方も多いと思います。
しかし、尾瀬沼の中にも会津裏街道の国道があるのです。当然山岳地帯にも、また海の中にも国道は存在するのです。
古代ローマも同じ考えだと私は考えております。
アッピ街道は街道の女王と異名を持つのです。なぜ、そのように呼ぶのか私なりに想像しました。古代ローマ帝国の軍隊、皇帝は男性でした。査察官のアッピもまた男です。皇帝の街道では流通も滞り、人々の往来もためらわれます。軍隊でさへ遠慮がちです。
日本の街道で「おなり街道」があります。将軍が権現様(徳川家康)の日光に参拝専用の道路で、庶民には使用させなかったのですが、将軍街道とは言いません。この、命名と同じ理屈と考察している一人です。
日本の明治政府の作った国道は、多くが砂利と砂を敷き詰め作ったのです。しかし、街道、道は国の発展の基礎である考え方は、国交省も認めるところです。
アッピ街道のすごさに敬服し、2000年間使用できた理由は、石畳であること、基礎のすごさのある事は特筆すべきです。
私たちは、旧アッピ街道のローマ水道が跨ぐ、城門ののようなドォルーゾ門をくぐり、サン・セパスティーノ城壁に行って見ると信号機が付き、車の交通量も多く現在の準幹線道路になっていたのです。
西安の城壁の門と同じと思いながら、カメラのシャッター押してました。
この城門沿いに、地中海松が植えられてアカマツの白の城壁、松の緑と赤い幹の松並木はアッピ街道の女王の美しさでした。

ページ移動