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記事一覧

オランダ、ホテルオークラのステーキとコロッケ

2017.10.26 (木)

ノルウェーのオスロから隣国オラン・アムステルダムに到着。オランダは運河とチューリップ・風車の国です。今日の宿泊は4星ホテル「ホテルオークラ」です。
アムステルダムので「ホテルオークラ」とタクシーに告げると心配なく到着するので英語のできない二人旅には有りがたかったです。
また、オランダは今でも車社会でなく、自転車の方が優先です。自転車専用道路も広く、スピードを出して向かってくる感じなのです。
また、駐輪場は、運河に台船を浮かべどこにでも止められるのです。また、チューリップはもとより世界一のダイヤモンド研磨技術を有し経済界でもアムステルダムの為替市場は群を向いていた時代もあったのです。
また、過去には、陶器の技術も冠たるもので、私も磁器を購入した来ました。
空港から指定のハイヤーが迎えに来て、フロントが日本人なのでホットしました。フロントの女性に埼玉県の不動岡高校の先輩のコック長の根岸規雄さんの話をしたところ、1月前まで一緒にお仕事をなさっていたといっておりましたので一層の親近感を感じたのです。
日本から持って行った切餅を食べてくださいと告げますと喜んで皆さんと食べさしていただきますと返事が返って来たのです。
後で調べたのですが、根岸さんは日本のシェフの中でもすごいそうです。単行本になって紹介され、今はホテルオオクラの役員をなさっているそうです。一時ホテル業界も大変な時、不動岡の弥勒会の同窓会を開催したとき馬場さんという支配人が我が家まで来てくれたのです。
また、同窓会費を11,000円で立食パーテーイやっていただけたのです。良い思い出になりました。
アムステルダムは3泊でしたのでゴッホ美術館や国立美術館なども見て、昼食はオランダでも歴史のある1番古いコロッケ店を予約を取ってもらいタクシーで食べに行ったのです。
日本では、食べることのできないゴーダチーズを使った本場のコロッケを食したのです。
また、その日のデナーはホテルでステーキ食べたのです。ニュージランドで英語を勉強し、オランダでコックの修業中の日本の青年でした。私たちの隣はアメリカ人の新婚さんで、身振り手振りの国際語で光子と4人で会話です。
楽しいひと時を過ぎしたのです。こんな時間も2人旅だからできるのです。遅いオランダの白夜は更けていきました。

国際マラソンが邪魔をして、ノーベル受賞会場に行かれず

2017.10.24 (火)

ロンドン、エジンバラ、3番目の国ノルウェーのオスロに降りったのです。
世界一周堂よりメールが入っていたのです。国際マラソンの開催のゴールがオスロのノーベル受賞式の市役所前で、バスツアーから直前で運河クルーズに変更になってしまいました。
ヨーロッパに来て、初めてのクルーズでした。小雨が降っておりましたが、各国の貴族や、王たちの避暑地で両岸に立ち並ぶ別荘が小さな館のようでした。天井がガラス張りで、変わる景色に喜々として眺めておりました。
外海に出て、船はUターンして今度は対岸の景観です。王宮や豪華な別荘が海岸線にせり出した、レンガ造りの色とりどりの景観を作り、4階建ての建物はヴェネチアの景観そっくりでした。
2時間のクルーズが終わり、午後からどうしようかと思案しておりました。
まだ、地球1周の旅も始まりで、不安と楽しさの入り混じった心の中で、しかも土地不安内で結局もう一回乗船し、気にいった公園風の場所で、散策して、時間をつぶそうと家内と思ったのです。
ところが午後は雨が本降りになり、散策どころでなく、結局一周して帰ってくることになってしまいました。
まだ、時間があったのです。ノーベル賞の受賞式場にタクシーで飛ばして行ってみることにしました。
国際マラソンの片付けが終わらず、タクシーは周り道をしながら、市役所の入り口に地到着ました。4:40頃でした。
チッケトを買い求めようとした所「ツモロー」のそっけない返事です。北欧の白夜の日没は遅く外は明るかったのです。
仕方なく庁内の土産物売り場で「ダーラヘスト」と呼ばれ木こりが冬の間、子供の玩具の内職として、木端で馬の玩具作りが始めたのが始まりだそうです。
盛岡の「ちぐちゃく駒」の様だと思いながら青い「ダーラヘスト」を買い求めたのです。高さ20cm、幅30cmくらいの大きさです。独特の模様があるのです。
ニューヨークで開かれた万国博覧会でスエーデンのブースに展示され世界的に知られようになったのです。
今では、スエーデンの輸出品の一つです。
市役所の晩餐会場は結婚式も出きるのです。ちょうど、結婚式を終えた若いカップルと親籍縁者が出てきたので撮影しました。花嫁さんは、肌を出したドレスでしたので寒かった事でしょう。
市役所の中庭に色とりどりの傘をさした、職員が一列に足早に帰っていく姿が印象的でした。
ベストショットと思いながら撮影したのです。
ギリシャ風の頭柱のついた柱から、旧市街を望み、雨のオスロ湾を眺めてながら、これからの事を考えていました。
2人旅の最後ですがニューヨークの国連ビルでソ連の人工衛星あるテラスで運よく誰かが寄贈した、本物のノーベル賞のメダルを見ることができたのです。
国際マラソンが私たちの地球1周の旅を邪魔した雨のオスロでした。

「賽は投げられたリ」のルビコン川を渡って

2017.10.24 (火)

ルビコン川は、イタリア北部の十和田湖の面積ぐらいの小さな共和国(サンマリノ)の北側にあって、運転手も現地添乗員も初めて訪れるほど有名な割に誰も知らなかったのです。
旅友の織田さんの発案で行くことになったのです。今回のシルクロードの旅でルビコン川を知らない人はおりませんでした。
9月というのにヨーロッパの冬が近づき、牧草地にはロール状に巻いた牧草があちこちに点在しておりました。いかにも晩秋の風景を映し出しておりました。
ポプラの防風林が北イタリアの畑の作物を守っていました。ルビコン川を地元の人に聞きながらバスは南下したのです。途中、初めて見るイスラム教のお墓を車窓から眺め、空は、雨上がりのせいでしょうか厚い雲間から太陽光線が放射状にどんよりしたアドリア海に吸い込まれる光景が広がっておりました。
何かルビコン川の観光によく来てくれたと歓迎しているようにも思えました。
約1時間ぐらいしてルビコン川の橋に到着したのです。川幅30mもしない小さな川でした。海に近いせいですかモーターボートが多数係留されておりました。
訪れる人もいないのでしょう。何の変哲もなく、公民館のような建物と民家があるくらいでした。
土産物屋もありません。このルビコン川も数千年に及ぶ歴史の中で氾濫、埋め立てなどの河動があり、シーザーが渡河した地点は現在論争の的ですが不明です。
しかし、25km足らずの流域です。川幅も、狭いところですと3mぐらいだそうです。私たちが行ったルビコン川は、海岸線まで1kmくらいのところでしたので比較的広かったのです。当時のローマ帝国では、北はルビコン川、南はブリンディシュを前に軍を解かなければ謀反者とみなされ、法を犯すことになるのです。
その時のシーザーは7万~8万の軍勢を統率していました。
ところが、シーザはあまりにも優れた軍人であったため、元老院が政敵とみなし、追い落とそうと画策していたのです。
シーザーはそれを見抜き、自軍の兵に名演説を行ったのです。それが有名な「ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅。神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう、賽は投げられた」でした。
ところが彼に付き従ったのは、1軍団(500人~1000人)のみでした。
しかし、彼の行動は早く、1日でローマ入りを果たし、ポンぺウスが軍団編成もままらぬうちローマを制圧したのです。
その後シーザーは、ローマが執政政治になり皇帝になるのです。
彼は、文学者としてもすぐれ、「ガリア戦記」(現在のフランス)での7年に及ぶ戦いを三人称の立場で書いて、真実性を持てせて執筆しいるのです。その記述は正確で、現在は歴史の記述として価値が認められているのです。
その後、我々は東ローマ帝国コスティフタアンスの開いたの最初の都、ラヴェンナに向かったのです。

世界一小さな国ドブロブニクとサッカーのクロアチア

2017.10.22 (日)

アドリア海の海岸線をコソボ、ボスニア・ヘルツェコビナを走りクロアチアに到着、周りの山々は白い石灰岩が隆起した山並みです。
いま、モンテネグロを訪れる観光客は70%がロシア人です。
かって、バルカン半島の大部分をチトー大統領が統治していたのです。
それが今では、7つの国家に独立したのです。
コソボ紛争が勃発し、一人の少女がアメリカの友人に毎日メールでこの戦争の悲惨さを送信し、世界中でニュースとなり停戦に至ったのです。もちろん、国連も仲裁に入りました。NATOの空爆もありました。私たちが行った時はすでに復興しておりました。
しかし、紛争の爪痕が旧市街やスルジに登るロープウエイも砲撃を受け破壊され、2009年私たちが観光に行った3年前にロープウェイもやっと再開されたのです。
観光客は、避暑地のドブロニクスの日の当たる部分を目にして楽しむのです。しかし、歴史の中に影の部分があることに気づいてください。
また今日のランチは世界一小さな城郭都市ドブロニクスのヨットハーバーを目の前のした4星レストランです。
日本人にとって海鮮料理、海の幸は何とも言いがたい物があります。たらふく食べて、満足感に浸っている時、現地ガイドさんが到着。シルクロードの旅の女性軍と写真を撮って驚きです。スイフトのガリバーと小人のようでした。彼は身長2mを優に超すそうです。旅友の女性群は、皆彼の背高しかありません。
このドブロニクスは地中海貿易で栄え、富を蓄え小国ですが全ての国家機能を有しております。議会、礼拝堂、警察権、裁判所、軍隊、監獄に至るまであるのです。
ドブロニクスの最大の観光は城壁の遊歩道の観光です。私にとっては尚更の事です。赤い屋根瓦といっても、平板、洋瓦、スパンッシュ色々あります。また、業者として見る目も違います。棟の収め方、棟飾りの素晴らしい景観を堪能しました。
この城壁はコソボ紛争の攻撃にも耐えて無償でした。城壁のあちこちに砲台があり、城壁のコーナーに部分には白いテントが張られ、小さなレストランもあるのです。
城壁の遊歩道から、ビザンチン時代のバジリカ教会の尖塔、大聖堂、プロチェの門上のドブロニクスの黄金の聖者像(ヴェネチアの襲撃のお告げを告げたヴラホ)なども見ることができます。
話しはそれますが、多神教のデイオクラチヌス帝が治めていた時、自らの金貨を鋳造し壁に埋め込んだのです。しかし、ローマ皇帝の時代になり、見向きもされずゴミや糞尿のため場になっていました。
その場所を学者が発掘し、今は素晴らしい観光資源になっています。
小さな城郭都市ですが、観光資源には事欠きません。柱頭広場、成人の巨大な像、ブラッツ通り、スポンザ宮殿、マリア大聖堂、スルジ山から望む旧市街の景観、疲れたらジュピター神殿の脇の粋なカフエ(日本語表示の店)でコーヒーでも飲むのも日本では味わえない一時です。
ハトの群がる噴水広場でボーとするのも良いかもしれません。
忘れていましたが人口450万人の小国ですがサッカーの天才が排出されているのです。それはDNAの神の仕業なのかも知れません。それに加えて、良いコーチの育成があり、良質なプログラムがあり、すそ野が広いのです。日本の体操のように歴史があるのです。
また、いかに日本人が訪れるか「日本語」で書かれたコーヒーショップ、土産物店まであるのです。このドブロニクスこそ町全体が世界遺産であり、観光都市なのです。また、ガイドさんの説明ですと、豪華客船の地中海クルーズも5~6万円ぐらいでを楽しむことができるそうです。

戦争の爪痕「トーチカ」も観光資源

2017.10.21 (土)

このマケドニアは10年前にソ連のゴルバチョフ時代のあと開国した国です。ユーロ圏の中では農業国で最貧国にあえいでいます。
私たちは、私たちはオフリド湖を挟んで対岸に来たのです。景色が一変したのです。そこにあるのは韓国と北朝鮮が対峙している38度線の板門店の様相でした。
板門店は南北挟んで2Kmが中立の国境線です。ここは美しいオフリド湖ありますが両岸ともマケドニアです。
そこにあったのは高さ3.5mくらいのトーチカ(鉄筋コンクリート造り防御陣地)です。厚さ1.5mはゆうにある機関銃の対敵体設備でした。今は、一部が切断され、使用できませんがソ連時代の遺構です。
まさか、こんなものがあるとは予測しておりませんでした。
まして、中に入って眼下を覗き見ることなど考えてもなかったのです。
モンテネグロ・ヘルツコビナに行く途中多数見かけたのです。
所によっては、隣どうしにあるのです。不思議に思って、ガイドさんに尋ねたのです。
どんな返事が返ってきたと思いますか。北朝鮮と同じく脱マケドニアを恐れて、国民の逃亡の防止なのです。ソ連という国は恐ろしいです。日本軍もトーチカを満州とソ連国境の黒竜江(アムール川)に設置し、ソ連の侵攻を防ぐためでした。
こんな戦争遺跡を今、マケドニアは観光資源として考えているのです。
もちろん、アレクサンダーの遺跡、また、フィリップ2世のベラの遺跡、ヴェルギナ遺跡、博物館もあります。
ヴェルギナ博物館はギリシャの芸術と黄金文化の博物館です。また、フイリップ2世の墳墓は是非ご覧ください。
マケドニアにはソ連時代の赤さびた工場や陸橋などもあって、アレクサンダーの光の遺跡とソ連時代の暗黒の遺跡が併存しているのです。
また、この国の贅沢は農家の経営する食堂で食事をするのが真の贅沢だそうです。
また、ユーロ圏は、国境がないので隣国からもランチやデナーを楽しみに来るそうです。広々としたテーブルでの食卓はレストランでは味あうことの事のできない贅沢です。

オフリド湖と世界遺産の千の窓のある町へ

2017.10.20 (金)

ホテルの小高い丘の上から望むオフリド湖は紺碧の湖でした。このオフリド湖は氷河期に形成されヨーロッパでも古い湖です。
ギリシャのアレクサンダー大王の故郷もあり、古代ローマ帝国やオスマントルコ帝国の支配を受け多くの世界遺産が存在しています。
また、ノーベル平和賞の受賞者マザーテレサの生誕地なのです。
このオフリドの旧市街には、マケドニア正教の聖ソフィア教会があります。
この教会も歴史の変遷でキリスト教、イスラム教、マケドニア正教と移り変わったのです。
宗教も、良くわからず至る所の教会で説明を聞くのですが何十回を聞くうちに説明はどうでもよい状態に成って終ったのです。
ヨーロッパの遺跡は、遺跡の上に遺跡があって何重にも折り重なっているのです。もちろん、ポンペイ、トロイや他の遺跡を含めて、宝物探しの盗掘があって、その後、学者たちが気の遠くなるような発掘調査をし、出土品にX線照射して解明していくのです。
このオフリドの市街にもローマ時代の劇場あるのです。ローマ時代には、大きな市街があって栄えていたです。
現在、聖クリメント教会は紀元300年ごろ、神殿が建てられ、前庭の下には古代ローマ時代の神殿を現在見ることができます。
オスマントルコの影響下で街造りが行われた旧市街は、経年変化の苔むした赤瓦と白亜の壁に観音開きの額縁の窓があって、階段状の山肌に千の窓のある街並みが立ち並んでいます。
その美しさに観光客が訪れるのです。
よく見ると、防火壁の「うだつ」があるのです。お店は川沿いの道路にあって、素敵な街を形作っているのです。
また、川につり橋がかかり、ローマ時代の10CM角ぐらいの古代のいわゆる舗装道路の街並みが対岸にあり、尖塔のあるローマ正教の街並みとイスラム教の街が中良く併存しているのです。
中東のイスラムとキリスト教徒いがみ合う姿が理解しがたいのです。
対岸の街並みは、重厚なドア、木々の生い茂る住まいに囲まれていました。
私たちは聖ヨハネ・カネヨ教会の脇道を下り、観光船に乗り、教会を上に望みながら新市街のお土産屋のある桟橋につけました。
オフリド湖は水が澄んでいて、カワウが飛び立った後、鱒でしょうか
魚が沢山泳いでいて日本の十和田湖を連想しました。

また、ガイドさんの案内でアイスクリームがおいしいということで買い求めました。
このオフリド湖は世界でも希少な淡水真珠の阿古屋貝が棲んでいます。妻は、その希少な淡水湖の真珠のネックレス買い求め喜んでおりました。
淡水の真珠は色々な所を旅しましたが初めです。ロシアの女帝エカチェリーナ2世がこよなく愛した真珠のネックレスだったことは知っていたものですから迷わず買い求めたのです。
城壁のある町まで行って見ました。当時の街並みに鉄格子がはめ込まれ、いかにも戦国の時代を反映している街並みかを彷彿とさせる趣きでした。
この城壁のレストランで、片言の日本語を話すマスターとワインを飲みながら、ランチを食べ皆と騒ぎながら楽しいひと時を過ごしました。

夕焼けのアドリア海のんびりと

2017.10.20 (金)

日本の海は、護岸の為にテトラポットがどこに行ってあります。特に日本海の浸食は激しく、防波堤あっても年に0.4~1.2mぐらい浸食されているのです。
その為、日本海の海岸線は断崖の風景が多く、逆に太平洋側は、氷河期の河川浸食によって出来たリアス式海岸が多いのです。
このアドリア海は地中海に囲まれ、さらに、アドリア海は、イタリアの長靴のような地形に囲まれおり湖のように波がないのです。
アドリア海やエーゲ海の島々は海岸線まで、赤瓦と白い壁のリゾート地が多いのです。テトラポットない風景は日本人にとって美しく感じるのです。
朝夕のホテルの砂浜は、観光客や地元の人たちでごった返すのです。何するわけでもなし、夕涼みの人、散歩をする家族ずれ、ジョギングする若者、水平線に真っ赤な太陽がゆっくりと沈み、静かな時間に浸れるのです。
日本人はせせこましく、こんな時間を持つこともなく、夕餉の支度、残業をしないようにと仕事をてきぱきと片付けるのです。
きっと、マケドニアが鎖国をしている間、隔絶の時間に10年前にやっと開国したのです。しかも、国民性でしょうか日本のように明治、戦後と世界に追いつき追い越せのリーダーが現れなかったのでしょう。その為に、経済的には世界の最貧国にポーランド同様甘じたのです。
しかし、心と時間のゆとりは日本人には解らない何物かを得たのです。
どっちが幸せだか解りません。日本は世界から「エコノミックアニマル」と揶揄されているのです。
しかし、夕闇の帳が下りて、海岸線に星が明るさを増すと、街中は、ルーレットのお店か開き、バーのききらびやかなネオンが光り出すのです。でも、日本のような派手さはないのです。
日本人はパチコンですが、マケドニア人はワインを傾けながらルーレット楽しむのです。
日本人は、ここでも、損をしたか儲かったかアニマルのなるのです。

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