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記事一覧

籠の鳥(肝硬変で入院中)夢を持って生き抜く。

2019.06.24 (月)

今は籠の鳥、夢が長生きの原動力なるのです。7月上旬に退院する事を願って旅のプランを考えております。体力の増強が必要です。散歩をしています。
今回はツアーに申込み「牛久大仏、筑波のJAXAの宇宙センター、江戸川の地下宮殿、こと外郭放水路」の見学です。
7月20日新宿出発がAM:8・00です。新宿のビジネスホテルで一泊します。歌舞伎町の元谷芙美子氏のゴジラホテルapahoteruでもいいかなとそん想いです。

この3ヶ所は初めてです。JAXAはワシントンの宇宙センター見学したので同じようだと思います。小惑星のitokawaのレプリカや探査機のレプリカを実際に見学したいです。

外郭放水路は仮面ライダー特撮が行われたロケ地で「特撮ロケ地の三代聖地」と言われているそうです。l件ギリシャのパルテノン神殿をおもわせるそうです。

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防人の小ヶ崎沼(崎玉神社)と石田堤(のぼう城)

2019.06.24 (月)

現在、防人が別れを詠んだ河川の港(小崎ヶ沼)は場所が特定されて居ないので、岩槻~行田の古墳群と広範囲です。利根川の氾濫、蛇行で防人は「津の港」まで行って別れを惜しんだのでしょう。
この小崎ヶ沼には歴史の教鞭をとった不動岡高校の前田先生と生徒15名位でサイクリングがてら、高1の時に行ったのです。女性の方が多かったのです。♪♪♪。
なんの知識も無く、埼玉古墳群をみて(現在のように整備されていない時代)前玉神社や石田堤行きました。
前玉神社(式内神宮)の一対の灯籠の右側に「埼玉の津に居る船の風を いたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね」…。左の灯籠に「埼玉の小ヶ沼に 鴨ぞ翼きる 乙の尾にふりける 霜を掃ふとにあらし」防人「高橋虫麿呂」が詠んでます。この歌は大和朝廷時代、高麗から攻め居る事を恐れた朝廷が、九州に防御体制を敷いたものです。(白村江の戦いで大和朝廷軍は敗北)

その他にも、行田工業団地内の「八幡山公園」に剥き出しの古墳に防人詠んだ2首の詩が刻まれています。埼玉県知事「畑 和」の石碑もあります。

石田堤は「のぼうの城」で野村満作の出演で有名になり、石田三成、大谷吉継が忍城を攻めを描いた映画です。秀吉の北条氏康の小田原攻めの武蔵支城の舞台です。
現在は鴻巣市袋地区に「石田堤史跡公園」が建てられました。高校時代の思い出です。

猿島茶と境の川の一里塚

2019.06.24 (月)

久喜市栗橋、千葉県野田市関宿は、利根川(江戸川)を挟み対岸に茨城県境が(坂東市)在ります。境の地名は、島根県の宍道湖の「ゲゲの鬼太郎」で有名な境市や利根川を対岸に持つ羽生と群馬県邑楽郡の羽生市側にもあります。字は違いますが大坂府堺市も有ります。
坂東市境は全国でも珍しい河川の一里塚が在ります。道の駅「境」の江戸川の堤防上にカッコ良い石の灯籠が目印で銘板もあります。
江戸時代の流通の主体は水運でした。水運を司る琴平宮が関宿側にあります。
銚子、上州(群馬県)、武蔵の名産や五穀、木材、長瀞の緑泥変岩、三波石等も荒川を利用して江戸に入った事でしょう。

外にも利根川沿岸に茨城百景
記念公園が、境のほかに守谷、松戸(柴又の渡し:風天 の寅次郎)四阿(茨城県小山)にあります。場所によっては、渡し場になっております。

猿島茶は静岡、狭山、岡山、紀州のお茶に先駆けて輸出されました。あまりにも売れすぎて仲買人の悪知恵で柳の葉を混入させ輸出したのです。その為、狭山、静岡茶に負け今では生産額が減り、一部の人のブランドに各下げになってしまいました。
また、明治時代に入り「富国強制策」の影響もあり、オランダ人の土木技術者「ムルデル」が明治23年利根川と江戸川を結ぶ運河を建設し、最後の仕事して帰国したのです。江戸川と利根川では水位の違いを開門型式で克服したのです。
しかし、鉄道、道路の整備によって使用されなくなり、現在は桜の名所で流山側に割烹料理店が出来て乙な桜見物できます。

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最後に利根運河の完成で、外洋船(大型蒸気船)が発達し全国の港から東京に物流が入るようになって猿島茶の輸出絶たれたのです。

古河の散策

2019.06.23 (日)

栗橋町の利根川を挟む古河を、再度散策した思い出を栗橋済生会の病室でブログを書いてます。
私の病名は肝硬変です。4ヶ月も入院しています。古河は古河公方の領地です。鷹見泉石は古河藩の家老の家に生を受け、当代きっての蘭学者でした。
中学社会の教科書に掲載されいたのを覚えております。古河歴史博物館にかざられております。本物は東京上野の国立博物館に収蔵されております。
本物同様のレプリカですが見応えはあります。彼は渡邉崋山や足立左内と親交あり、江戸藩邸でも頭角表し、江戸末期の寛政9年の生まれです。
近畿、大阪襲った飢饉に大坂商人も財力がなく、将軍家斉も財政にめどがたたず、庶民は餓死が巷に溢れ、大塩平八郎は町奉行所の身分でありながら自分の蔵書5万冊を処分して、民を救おうとしたのです。奉行所郎党200に人で決起し、鷹見は1日で鎮圧したのです。伊能忠敬も同時代の人物です。

歴史博物館にフランス モンマルトの丘のサクレ・クール寺院前で小柄なおじさんが変わった箱のオルガン様な楽器の前でトレンチ帽をかぶり、ブルーのカウボーイ風の襟巻きをヒラヒラさせながら歌っていたのです。光子はチップ渡し、2人で撮影しました。古河の歴史博物館にフランスのモンマルトの丘で見聞したストリート・オルガンより、数倍上の素晴らしいストリート・オルガンがありました。演奏時間は1日3回ですが無理をいって特別に演奏演奏して頂きました。人形が踊り出し、心を揺さぶるです音色で一度御覧ください。

その他、街角美術館は郷土の日展作家中心に絵画が飾られております。旧4号の古河駅近くの奥まった所に蔵作りの歴史作家永井路子の生家があります。
印章の篆刻美術館が在りますが、マイナーの美術館です。

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久喜市内の城&城址

2019.06.23 (日)

 明治政府によって解体され、あるいは長い歴史になかで風雪に朽ちたそんな城の話しです。
小学生の時、聞いた話ですが鷲宮神社の近くの『粟原」』にお城があったそうです。
 日本には戦国時代に大名達が名城と言われる山城を桃山時代(豊臣秀吉)になると平城」を築いたのです。古くは坂上田村麻呂が東夷征伐のために「胆沢城」築きました。
 昔、神社の周りに前沼と言って人工的な沼がありました。鷲宮神社は、昭和23年の水害でも浮島の如く水害を被らず、吹き井戸に水をくみにいったのです。
粟原城の支城ですが遺跡は掘割が花咲駅から加須方面に線路沿いに3分ぐらいに「城山公園」として現存してます。
 粟原城は平成大学に行く途中の粟原地区の二股に分かれる右奥手に、祠があります。そのあたりがそうだと思います。

天正年間、上杉謙信が小田原城を攻めたとき、幼少の城代城主「細萱泰秀」守っていたが落城し、同じく鷲宮神主の神主(城主)の粟原城も落城したのです。

幸手市にも幸手駅東南徒歩5分くらいのところに幸手城があり、地名に「城山、陣屋」が残っております。また、幸手市天神島曲輪に天神島城(一色氏館)があります。この辺りは御家人達が鎌倉に駆けつける「鎌倉街道」あり、奇急出陣に備えた街道あります。この辺りは、盛り土が城郭ようです。
天然の堀、また、物資流通の倉松川が流れております。当時は湿地帯を形成していたのでしょう。
菖蒲には、市庁舎近くの鴻ノ巣、上尾へ抜ける県道沿いに花菖蒲の名所で石碑が建ち陣屋の門がたっていていて分かります。
鎌倉から古河に転戦するとき立ち寄った武州少将の名に因んでいるのです。

のぼう城で有名になった忍城の成田氏長の配下で、秀吉の北条氏康の小田原攻めに破れ、廃城になったのです。現在は再建されて資料館になっております。
最後に栗橋城と関宿城です。栗橋城は桜の名所「権現堂川」の元栗橋(茨城県)に存在したのですが、今は城址の看板のみしかありません。その対岸に久世大和守の関宿城(千葉県)があり、戊辰戦争の戦場になったのです。
当社も野田建設の瓦工事として「観月台」施工し、淡路島の瓦6:4番の瓦で施工し、ブログのページを飾っております
忘れていました。久喜の足利3代に菩提寺「甘とう院」非常時には城としての機能をもち、掘り割り等も有ったようで。現在は住宅地住宅地で面影ありません。

そう言えば、日本三景の松島の瑞巌寺も城を兼ねています。また、あちこちに存在する寺町も最後の砦な様なものです。垂れ桜で有名な弘前の武家屋敷の奧の津軽氏の菩提寺を思い出しました。

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飛騨高山の表通りの変貌

2019.06.22 (土)

飛騨高山は天領で信長が支配できなかった土地柄で萱葺きの集落の残る日本屈指の観光地でです。まして、日本三大の山鉾祭りがあります。春、秋の祭りは豪華絢爛です。

その高山の旧市街が時代の波に翻弄され始まっているのです。相続の度に富が失われ、相続人は表通りを処分するのです。


買い漁るのは、観光客目当ての大手飲食店や居酒屋チェーン店です。
(江戸時代に間口の広い地主、商店、両替商から税を取り立てのです。)
しかし、何時かは日本国中代わり映えのしない町並みになり、インバウンド、観光客もへるのです。累進課税の何物もありません。

この現象は、京都、小京都と呼ばれる地方も同じです。また、高級住宅街の田園調布も小さく区割りして相続税に充当されるそうです。堤康次郎が地下足袋、手弁当で造り上げた住宅地の見本も失われ様としています。

インドの友人のシャルマさんが言っていたのですが日本は3代で富の均一が出来てよい社会と誉めて頂いたのですが、その弊害が出ています。本来であれば消費税を25%くらい課税して町並みの保存計れば思う一人です。
しかし、日本人はどんな税も悪法とのイメージが有るので政府が倒れるのです。困ったものでっす。
こんな言論の自由があるのは素晴らしいことです。富裕層が富を独りじめする国の方がアシアンでは多いことも事実です。

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父 熊太郎雑感

2019.06.22 (土)

父熊太郎の事は、なにも記憶にないのです。加須市騎西字上崎の野原邸より頂いた雷電神社の鳥居竣工写真を見る限り、父の顔は兄の「仁平」 ソックリである。
父は遼島半島の203高地の日露戦争に応酬された帰還兵です。
日露戦争は日清戦争後、10年で日本の財政は、農業国家から富国強兵に舵を切り、邁進していたが西南戦争、戊辰戦争、箱館戦争なので財政的にはロシアと戦争できる状態では無かったのです。しかし、後に繋がる満州建国の基礎なる財政再建の隠れた政策で「満蒙は日本の生命線」と叫ばれ、明治政府は舵を切った、そのなかで、伊藤博文は、英語通のためロンドンで米国の財閥リーマン兄弟と会い戦費調達に成功して、勝利に導いた裏話あるのです。

父、熊太郎は前線に赴いたのです。22~26才若さで203高地の塹壕兵として苦戦したのです。ロシアの近代兵器「機関銃」と塹壕生活と村田銃では歯が立ちません。
膠着状態の戦線打開に児玉源太郎がハラハラ戦術で打開し、東郷元帥も「バルチック隊」を撃破したのです。

終結の見えない塹壕生活を強いられ「握り飯と水筒の水、鰹節」でした。しかし、当時の戦争は遺体収容の期間が在って、休戦し、握り飯、水、鰹節」等が前線の兵士配られ休日になったのです。

でも、酷しい塹壕生活は同じで復員した熊太郎にとって食は厳しく、木製の流し台のこぼれた飯まで食べたそうです。それも財をなした一つかも知れません。
父は、郷土資料館に本多清六、中島篤等と並び展示されております。
この事実を見付けたのは、孫の花江ちゃんです。
この続きは次回にブログします。祖父音次郎、「きゆ 」の話も。

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父は鷲宮村の教育長をしていたそうです。校舎の屋根工事始め、蓮江病院、高橋医院の屋根に洋瓦を施工し、町の近代か推進したのです。

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