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記事一覧

国境のポータ達の口論

2017.10.18 (水)

イーニンとアルマイトの国境越え、今までは、バスに乗ったまま、超えられました。しかし、中央アジアは検問ガうるさく6km先まで歩いてアルマイト側の国境まで行かないとバスはないのです。
通関手続きの料金はもちろん払いましたが、税関がうるさいのです。でも、郷に入っては郷に従えなのです。
困ったのがスツーケスや他のに物です。62に日間の衣服、途中での思い出の土産、カメラ荷物は山ほどあります。
しかし、そこに不便があって、商売が成り立つのです。ところが初めての経験、値段などわかりません。
交渉は現地添乗員任せました。驚いたことに妊婦がおるのです。8か月から9か月くらいの大きなおなかを抱えて、他人事ながら心配しました。
男子の一人が大きなカートを測んできたのです。こちらとの交渉が成立すると仲間内で報酬の配分です。それぞれは主張しあってなかなか決まりません。こちらの客の方が3イライラする始末です。
誰も分け枚には遠慮しておりまっせん。
生きるための戦争なのです。旅ともの仲間内から、まるで難民の移動の様だと嘆いておりました。これもまた、後になれば印象に残る線の旅だから経験できる体験と思いました。国境越えの面白さを駄弁りながら6kmの道のりをバスの待つ駐車場へと旅とも歩いたのです。
カザフスタンからトクマクバスに揺られていったのです。
5000kmの道のりを20日間で走破したのです。
この辺りで、肉の狩猟民族と魚好きの民族の分岐点になるのです。
宗教が変化し、食べ物も肉食に変化するのがわかるのも飛行機では垣間見ることもできない体験です。そして天山山脈も地平線に消えてなくなるのです。

オアシスで暮らす人々の知恵(氷室と風の塔)

2017.10.18 (水)

シルクロードの旅もイランまで来て、日干し煉瓦の文化圏から石の文化圏に入って、エジプト、ローマの遺跡に匹敵する「ペルセポリス」の遺跡に驚きました。
アリプールによると世界で初めてアイスクリームを作ったのはイラン人と説明を受けたのです。大きなキャラバンサラエのところにある円錐形の氷室がその遺跡といっていたので中を覗きました。天井が明り取りのような天窓があるのです。不思議に思い聞いたところ、自然の気化熱を利用した冷却装置になっているのいるのだそうです。そういえば子供の頃、夕方「打つ水」して、涼を取った覚えがあります。
エアコン、冷蔵庫も気化熱を利用しているのです。キャラバンサラエの宿泊客は、アイスクリームに高価な金を支払ったのでしょう。2000年も前の出来事です。
冬の間、山岳地帯でため池に水を張り、氷を作り、切だしラクダで運んでことでしょう。
そういえば韓国の慶州にもありました。日本の将軍様は、富士の裾野の氷穴から氷を切り出し、莚に「もみ殻」を入れ、早馬で江戸まで運んだのです。今は麹菌の貯蔵庫になっております。日本は高原地帯があるので避寒地には困らなかったのでしょう。風の塔は黒海の近くに屋根の上に煙突も違う風変わりな光景を見たのです。添乗員問うたところ、風の塔との説明があり、涼を取る設備だそうです。300*300mmくらいの四角の塔が屋根上にもうけられ、ターボファンの風車ある光景を思い浮かべてください。
風の力でターボファンドが回り、黒海からの海風が室内に送り込まれ、室内の熱気が排出されるのです。屋根上の熱気はそら豆と柳を掛け合せた街路樹が覆い南国の熱風を和らげているのです。
人は、それぞれの地域に根付き、生活の知恵を歴史の中で学び、適応してきたのです。
そういえば、イランとトルコの国境に富士山によく似た大アララト山と小アララト山あるのです。
翌朝、赤富士を撮影しようと写真好きな3人が望遠レンズを持って、早朝撮影、でも雲がかかって残念dした。
また、この付近には、ノアの箱舟伝説があり、ホテルの階段の壁に大きなノアの箱舟の到着地点説明と箱舟に乗っていた動物たちの絵が描かれておりました。
アフリカ、エチオピアあたりでモーゼが良い事をした動物を大業に手を振って乗るように指示しているモーゼの映画を、高校生ころ見た記憶を思い出して睡魔に襲われベットのついたのです。
こんな追憶も何十年ぶりでしょうか。旅の思い出の1コマです。

ササン朝ペルシャ時代にワープ

2017.10.15 (日)

ササン朝ペルシャは紀元2世紀ローマ帝国との戦いに敗れたパルテェアは国力が衰えシャー、アルダシ―ル1世がササン朝ペルシャを建国したのです。
彼はローマを破ってアケメネス朝が取り入れたゾロアスター教を国教としたのです。
200年続いた王朝もトルコ系突厥の抗争とホスロー1世の死後、国力が衰へ滅亡したのです。私たちはイスハーンからテヘランに行く途中、核施設の幹線道路を通過し、アビヤーネ村に立ち寄ったのです。
アビヤーネ村は、イラン有数の観光都市「カーシャーン」から70KMぐらいに位置する観光地です。
それでい、て訪れる観光客はごく少なく、今回も私たちの他は4~5人ぐらいでした。海抜2000mぐらいの高地で、寒さから守るためにを取るために開口部は東側で、2階テラスはに田の字を中央に9角形をデザインした素晴らし格子があるのです。天井はアシのようなもので網代になっておりました。ミクロネシアのテラスを想像したのです。
このアビヤーネ村は2200年の長い間、日本で卑弥呼が権勢を振るっていた時代です。
途中、シルク・ヒルと村があって粋な村だなと感じたのです。ビヤーネ村に近づくにつれ、三角形穴が土中にあって、添乗員に尋ねると食品の保冷庫だそうです。
私が子供の頃、もみ殻を敷き詰めた室があったことを想いだし、母が、ジャガイモ、サツマイモ、サトイモなどを保存してことを思い出しました。
アビヤーネ村は、酸化鉄を含んだ土と日干し煉瓦を積み上げ、塗り固め、保温の室状の家なのです。
もし、朝日の昇るころの観光でしたら、岩山の焼ける赤い街並みでしょう。
この村は、独特のササン朝ペルシャ時代から続く風習、言語イスラム教のしきたりが、今でも色濃く残っているのです。
老婆たちの服装は、白地にバラの花柄の大きいスカーフをざっくりかぶり、スカートも独特のファッションでした。ここがイランなのかを疑うような光景です。
彼女たちは、1日他愛もない話にゆっくりした時を過ごしておりました。
2000年もこの光景が続いているのですまだ、アリプールの知人宅の部屋を見せていただきました。TVもないのです。床にイランお立派な絨毯が敷き詰められ、時計と質素な光景があったのです。
村に、1台の車があったのみで、お店もあまり見かけなかったのです。
今のような村も、遠い昔の歴史の中に、あまりにも悲惨な歴史が隠されているのです。そんなことを思いながらペルセポリスに向かいました。

世界の富はイスハーンにあり

2017.10.12 (木)

イランは、紀元前からチグリス・ユーフラテス川沿いに文明が開き、7000年の歴史誇り7日間の観光でも、ほんの少し垣間見たにすぎないのです。
このイスファーンはサファヴィー朝全盛のシャー(王)、アッバース1世が建設した新都なのです。日本で関ヶ原前夜の1597年の出来事です。
なぜ、ヨーロッパ人の貿易商、外交官に世界の半分といわれるほどに繁栄したか、数多くのキャラバンサラエの建設、シャーの広場、シャーのモスク、バザール、宮殿、神学校、建築の学校、官庁街などが現在のイマーム広場に建設されたのです。
なぜ、イスハーンが世界世界の半分と言わしめたか、それはペルシャ湾のバンダル・アッバース港の拡張で世界の各国に絨毯、金属、色鮮やかの陶器、刺繍などが輸出され、また、陸路は絹の道からアジア諸国へ運ばれたのです。
それらの品物がバザールで取り引きされたのです。当時の世界で、バザールに何でもあったのです。それで「世界の半分」と言ったのです。
私は、イマーム広場のモスクの天井と基底部に描かれたイスラム教の戒律、また祭壇前で経典を読み上げた添乗員の声が反響して、巨大なモスクに全体に響き割ったのです。シルクロードの旅友も驚いたことでしょう。また、建築学校での数々のモスクのデザインのサンプルにも驚かされました。
7階建てのアーリ・カープ宮殿の楼閣に登ってイマーム広場の素晴らしさ驚嘆したのです。
王侯貴族もイマーム広場で行われたイベントを楽しんだことに思いをはせたのです。モスクの屋根にほどこされた、タイルの美しさにや天井のデザインは技術と富の象徴と思われます。
今は広場の白い玉石から水をたたえた池になり噴水が涼を醸し出していました。
噴水の周りを王侯貴族の気分にさせてくれる馬車が走っておりました。このイマーム広場は南北512m東西159mにも及びますが1階部分がバザール、2階部分が官庁街なのです。地下道があって、王侯貴族は庶民の目を気にせず、モスクや高楼に行けたのです。
また、イランのザクロス山脈を望む景勝地、ザーヤン川は水は少ないのですが33橋の傑作「ハージュ橋」の中央に張り出した王侯貴族の社交場6角形の望楼があるのです。水の少ないイランで最高の涼を取りながらの2階建大宴会場なのです。
橋は経済発展の流通の為数多く架けられたのです。
庶民は橋梁下の空間で涼を取るのです。余談ですがイランに水田があるのです。コメの文化圏と小麦の文化圏がイランで分かれるのでしょう。
私たちが行ったとき、イランは核兵器疑惑で経済封鎖を受け、原油輸出が制限され、インフレが1日で2割くらい上下していました。しかし、国民は明るくインフレなど感じませんでした。
添乗員のアリプールがイスラムの宗教国家ですが「なんちゃってイスラム教」が多くブルガも若い女性はフアッション性を優先しているそうです。
核施設の中に道路が貫通し、撮影禁止ですが観光できるのです。
驚いたことに、インドのタジマハールはイランの技術者が設計・指導しているのです。
イランのモスクにはキリスト教も描かれていたのです。懐が深かったのです。
パーレビ国王で、シャーの時代も終わり言葉も使ってはいけなそうです。

100年前の日本の風景が古代4大文明のアナウ丘にあった

2017.10.11 (水)

世界4大文明といえばエジプト・メサポタミヤ・中国・インドです。そして、中央アジアのアナウ遺跡に来るまでは私自身もエジプトが1番早く文明が興ったと思っておりました。
添乗員の話しではこのアナウ遺跡が世界最初だそうです。あまり有名でないのかは、日干し煉瓦の遺跡のため7000年の風雪に耐えられず、大地に帰ったからののです。
この遺跡は、トルクメニスタンの首都アシハバードから25km東に行ったところあるのです。
この周りにはメルヴの遺跡・テペの遺跡などがあるのです。世界最西端の仏教遺跡「グーズ・カラー遺跡」があり、100平方kmに及ぶ日干し煉瓦の城壁と掘割の遺跡があり、人骨なども出土当時の状況で散乱しているのです。
また、トルクメニスタン国立博物館を見学したときに驚きの連続でした。紀元前3000年~2000年栄えた古代マルグーシュのコーナーには女性の土偶やゾロアスター教の神殿の出土品、4輪馬車の車輪(アルシンベルのファラオ・ラムセス2世の壁画は2輪車)などが展示されているのです。紀元前3世紀に栄えたニサの遺跡ではミロのヴィーナスそっくりのヴィーナス像があったのです。女性の魅力は何処の国も『くのいち』なのですね。
かって、ソ連の支配下にあったトルクメニスタンのドライブインでランチを取った時に、星と月の刻印のある壺を見ので思い出に写真撮ってきました。
日本の100年前の風景は、小高い山の上の神殿跡で出会ったのです。
65年前の1948年イラン大地震で崩壊した日干し煉瓦の巨大な青龍の刻まれた柱と屋根のある祭壇を何かお願い事をしている若いお嫁さんと義母の姿でした。きっと子供さんが早世し世継ぎの男子を願いともに願掛けの巡礼に来ていたのでしょう。
遺跡のテーブルの周りを7回まわるとお願い事がかなえられるそうです。100年前の日本の嫁と姑の姿でした。
戦前の神社にあったお百度参りのようなものですね。また、何処の国も手を合わせ、神・仏に向かいお願い事をする光景は同じだと思いました。
また、7回まわるこの数字も何処の国でもゲンを担ぐのでしょう。
願いかねってお子さんの誕生を心の中で願ったのはこの旅友で私だけでなかったと思います。
歴史の中の喜び悲しみ、そして早世した赤子の鳴き声が風の音に交じって聞こえそうな、この高台も砂漠での村を流す豪雨にも耐えたのです。しかし、大地震の前に崩れ去りながら、今でも亡くなった子供への信仰は続いているのです。
撮影に夢中になっていたのか、尿意を模様し青空トイレと思ったのですが、神聖な信仰の地を汚してはと思いとどまり、現地添乗員に聞いて、バスの止まってる事務所に急いで駆け下りてトイレにやっと間似合いました。
今夜のホテルはアシカバードで4星です。私たちのルームメイトは若くて可愛い2人組でした。めったに来ない日本人なので話しかけてきたのです。ゼスチャーと下手な絵をかいての国際交流です。
笑顔があればみな友達。美人ちゃんに囲まれて撮影。笑顔で眠りにつきました。

高速道路を平然と牛の行列

2017.10.10 (火)

中国の新シルクロードは西安から約5000kmあるのです。そして、ロマンあるのです。楼蘭美女をはじめに敦煌・莫高窟・火炎山・孔子の末裔が観光案内してくれた、20mの大仏寺、ジンギスカン終焉地六盤山、張騫、天にも届くと言われる黄土高原、黄河の景勝地炳霊寺、地層の美しだの張掖丹霞、雷台漢墓、嘉峪関、三蔵法師滞在したトルファンなどの見どころ一杯のシルクロードです。
日本では、あり得ない風景があるのです。高速道路を牛が平然と隊列を隊を組んで通行しているのです、その数20頭以上です。
牛ばかりでなく、羊、ヤギもそうなんです。
こんな風景が、野生のリンゴのなる菓子溝と呼ばれる所なんです。
流石の暴走運転手も困惑しています。
なぜんなことが起こったかです。
元々は旧シルクロードには放牧の牛、羊,ヤギの群が渡れたのです。それをつぶしてまで建設をしたのが新シルクロードです。トンネルと高架の橋で渡し、28kmにも及ぶ新シルクロードの建設なのです。
中国は共産党の独裁のお国柄です。
何も文句はいえないのです。生活道路を、失ったカザフ族は微かのも抵抗をしているのです。
もちろんカザフ族等の遊牧民族は、馬に騎乗して新シルクロード通過しているのです。遊牧民族は平然と馬を引き連れ、、牧草地に毎日通っているのです。
日本では笑っちゃいますが彼らにとっては死活問題です。また、街路樹も変化し、仏教遺跡からイスラム教に変化し、風景が変わってゆくのです。もちろん、そこに住む人々の食べ物、住まい、帽子、服装までが変化し、人口の70%はイスラム教徒なのです。
しかし、ソ連の支配下なると皆、中国と同じ様に無宗教化にさせらられたのです。
こんな辺境地で地も、大きなレストランでは日本の袢纏を着用したお寿司屋さんがいて、握り寿司が出るのです。
まさかと思い写真を収めたのです。それも、職人さんのバックの文様は紺地の勾玉でした。
かわいい3人姉弟がポーズを取ってくれたのです。デナーが終わりバンドが大音響で演奏されるとみんが踊り出し、われわれの女性軍もリズムに合わせ踊り出しました。
笑顔があればみな友達です。国際交流は人なのです。

驚きのシルクロードの旅

2017.10.09 (月)

羽田を飛び立ち、西安で盛大なシルクロ―ド出発の団結式を中国観光局のガオさんに見送られ、オアシス都市敦煌についたのです。敦煌では、国賓の宿泊する「敦煌飯店」に2度目の宿泊でした。
アシュカバットで無理やり頼んでソ連仕込みの「儀仗兵の交代儀式」私たち24名で観光、このアシュカバットはオイルマネーで白い大理石の20階建てくらいのビルが市内に林立しているのです。大理石の産地はイタリア・カララ産だそうです。
前日の旅の疲れを癒そうと午後3時ごろにホテルにチェックインしたのです。
翌日はイスラム教の聖地イマームレザー廟を見学でした。初めて見る聖地巡礼、金曜モスク、熱狂のお祈り、聖者の眠るガラスケースのふれあい、どうやっても時間内に「アラーアクバル・アラーアクバル」を点呼しながら侵入したのですが目がい叶わずでした。
そんなことで、多少集合時間が遅れ、気ままなバスの旅もあって宿泊施設決まらなかった事を二村添乗員が平謝り、24人の寛大な処置で、うまれて初めて止まる砂漠の中のモーテールが今夜の宿となったのです。
モーテルのゲートは立派なのですが、部屋に入って驚き。2人で泊まるところにベットが8個あるのです。
シーツは薄汚れ、トイレの入ったは良いけれど、日本の和式なのです。
イスラム教徒は、男性のおしっこも座らないといけないのです。
それだけならば良いのですが、トイレのドアが閉まらないのです。
困ってしまいましたが、まあいいやと放尿、日本の宿で今は和式は少ないもので少し戸惑いました。
さあ、寝ようと思って、入り口のドアを閉めようとしたのですが、やはりカギはかからず。
二村添乗員曰く、東日本震災を思えば、単独で泊まることができるので我慢してくださいと・・・・・。
富士山の山小屋よりましとお客言ってましたとさ。
また寝てからが大変、砂漠の熱気が閉まらなドアから入ってくるのです。それに付け加えトイレの匂いがするのです。
仕方なし、外気に触れ、空を見たら上弦の月が輝いておりました。
多少、睡魔が迎えに来たのでベットに横たわると、クーラーがなく、ターボファンの「ゴート」音で目が覚めるのです。
私は、胆管癌の手術で頻尿なので困りました。
人間の記憶は面白いですね。4星ホテルの思い出は少なく、おんぼろ宿の記憶.鮮烈なのですね。

教訓:砂漠のモーテルは我慢せよ。止まれないよりましと思へ。.

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