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記事一覧

モニュメント好きな日本人と歴史建造物を好む欧米人

2017.11.03 (金)

 日本の天皇家は、皇統一系にして世界のキング(王)の中でも、皇帝として世界一の家系です。しかし日本人は、天皇家を軽んずる傾向があります。
 アメリカのオバマ大統領が、平成天皇に頭を下げたということで物議をしたとか、TVのニュースで見たのです。

 また、6月のポルトガルの首都リスボンに行ったときのことです。街路樹のジャガランダが紫の花を付け日本の桜のように咲き誇っておりました。
 今日の集合場所は、ジャガランダ咲くのホテルの近くのエドゥアド7世のライオンの銅像の見えるバス専用の集合場所でした。
 ミューのガイドさんと一緒に乗り合わせ、かって世界の海を縦横無尽に活躍した、バスコダガマがインドから胡椒をもたらし、冷蔵庫のなかった時代、肉の腐食や肉独特の匂いを消すために莫大な富をもたらしたのです。
 まず、最初に観光したのが、その昔コロンブスが、アメリカ大陸の一部と思い西インド諸島を発見した23年後、バスコダガマがアフリカ大陸の喜望峰周りのインド航路を発見したのです。
これを記念して、マヌエル1世がリスボンのベレン地区に要塞を兼ねた監視塔を立てたのです。非常に緻密に作られた白亜の城です。
ジェロニモス修道院と共に世界遺産に指定されております。
 また、ここは大きな公園になっているのです。ここにはリンドバークが3日3晩かけて不眠不休で大西洋の横断飛行に成功した双発機(実物)が海に向かって設置されています。

 ここの観光はポルトガル政府認定のガイドさんが英語・フランス語・ドイツ語、ポルトガル語、スペイン語と一人で5ケ国語の観光客に、通訳説明しているのです。
 しかし、日本語はありません。それで、この案内をミユーのガイドさんが訳して説明してくれるのです。
 ところが、どうしても欧米人の方が圧倒的に多いのです。私たちのガイドさんの説明では、欧米人は歴史的建造物には興味があるです。私たちが説明を受けったかった、海の勇者たちの7mにも及ぶ巨大な像は素通りするのです。海の勇者たちの像は日本のガイドブックに、大きく掲載され誰もが知っているモニュメントだからです。
 このモニュメントは、没後500年エンリケ王子を記念して、帆船の舳先にエンリケ王子、そして、バスコダガマ、そのほか海の勇者たちが15人~16人が等身大で立体的に刻まれております。また、反対側には、当時の海を渡った宣教師、あるいはポルトガルの詩人、歌人、哲学者などが刻み込まれているのです。日本人にとっては、非常にわかりやすいのですが仕方ありませんでした。
 また、公園内の地面にタイルで世界地図が描かれ、5大陸・各島々にポルトガル人が到達した年号が描かれていたのです。
 日本には1541年種子島に鉄砲が伝来した年号が刻まれておりました。その後、難波の堺に彼らの1人が入港したのです。当然ですがそのころの日本はアイヌ人の住む(北海道)はありませんでした。
 そのタイル画も、簡単に端折ら、次は1両のみの粋なチンチン電車の走る大通りを超え、世界遺産のバスコダガマの眠るシェロニモス修道院の観光です。ここは欧米人の興味ある歴史的建造物で、ゴシック建築の粋を集めた壮麗な建物です。
 この建物は、マニエル1世の偉業をたたえた建物で、マニエル様式となずけられております。
 余談ですが、私はこの公園で国際携帯電話を紛失したのです。でも、誰が拾ったか知りませんがこの公園を観光中に私の手元に戻て来たのです。本当によかったです。
 もう一つ付け加えるとポルトガルは郵便局の事をポストオフイスでは通じなのです。CTTまたはCORREB(コレイオ)といえば通じます。日本に小包を送ろうと思って探すのに苦労しました。行って見るとコーヒーショップを兼ねたパン屋さんでした。当時これも驚きでした。
 やはり、民間経営で運営しているので知恵を出し合って採算をとっているのでしょう。
 日本も郵政民営化で小泉内閣が 英断を図ったのです。

ローデンブルグ城のコウノトリ

2017.11.02 (木)

ローデンブルグ城は、ドイツのロマンチック街道の観光客の憧れノイシュバンシュタイン城と同じ街道筋にあります。
このローデンブルグ城の城壁に立ち、城門をくぐるとおとぎの世界に迷い込むのです。このローデンブルグ城を守るため、命を懸けた人たちが沢山いたからこそできたのです。その一人が「市長の酒飲みなのです」
この戦いは、神聖ローも帝国の皇帝軍が、ドイツ国内を最も疲弊させた戦争で1618年(日本では日光東照宮が建立)勃発した戦争です。新教徒側のローデングブルグは、あわや滅亡の危機にあった時、敵の将軍が市の参議たちに3リットル大ジョッキに、この土地のワインを差し出し、このジョッキを飲み干すものあらば、このローデンブルグを助けても良いと宣言し、参議たちが頭を抱え、老市長ヌッシュがそのワインを受け取り、一気の飲み干しローデングブルグ城は救われたのです。そんな実話をもとにマイスタートウルンクの歴史劇が今でも行われるのです。

 この城郭都市は、1k㎡と広くはないですが、6か所の門がすべからく違い42の監視塔が守っているのです。城門には、敵を食い止める落し格子などもあって時代を感じるさせるのです。建物は木組みの筋交いなどがデザインされ、写真を撮影する者にとって、格好の被写体が沢山あるのです。
 こんなおとぎの国に、エジンバラ城の兵隊さんが歩哨、隊を組んで歩いていたら、震えの来るすごさでしょう。
 急傾斜の屋根、反りの入った屋根、風見鳥のもうけられた屋根、特に見ごたえがあるのが、市庁舎のマルクト広場、また、市議宴会館の仕掛け時計もお勧めです。

 日本人の現地ガイドさんにランチタイムのなったので「日本食はないでしょうね」と聞いたところ有るのです。ちょっと小路に入ったとこで分かりにくいですが、マスターも、シェフも日本人なのです。妻はうどんを頼み、私はカキフライを食べたのですが絶品です。
 また、拷問のギロチンや水責めの仕掛けもあって、一見する価値があります。ギロチンに二人で首を突っ込み、ユーモラスな写真を撮影したのです。

 話は変わりますがコウノトリの話しです。6月末から7月上旬に観光を行かれる方は、ローデングブルグ城の民家の屋根上を見上げてください。大きな小枝の巣は散見されます。このローデンブルグの周りには田園風景が広がっており、湿地帯もあるのでしょう。
 コウノトリの親鳥が、ひなに餌を運ぶ光景が見られます。また、空を見上げるとコウノトリが悠々と飛翔する姿もご覧になれます。
 驚いたことに、現地ガイドさんが12年もローデンブルグ城をを案内していてご存じなかったことです。紺屋の白袴なのです。私は屋根の携わるものとして、屋根に興味があるものですから、いつも見上げているので足元の事は解らないのです。灯台下暗しなのです。その街に根ずく歴史のすごさ、そこでで暮らす人々が他人に分からない努力の積み重ねがあるからこそ世界遺産になったのです。

 飛騨高山の同業者に聞いた話ですが、自宅と高山の屋台に火が出ると町衆の旦那は、高山の屋台に駆け付け、自宅が焼け落ちても屋台を守り抜くことが男の甲斐性なのです。そんな話を聞いて驚いた一人です。 世界遺産に選ばれること自体すごい努力の結晶なのですね。

モンサンミシェルは修道院か

2017.11.01 (水)

 フランスとイギリスの英仏海峡にあるノルマンディーは第二次世界大戦のナチス・ドイツと米英で戦った地上最大の激戦地でした。
 同じ英仏海峡のサン・マロ湾に浮かぶ、カトリック巡礼地のひとつ「モンサンミシェル」があるのです。潮の干満が激しく、その時の差は15mにも及ぶと言われております。潮が満ちれば、海に浮かぶ孤島なるのです。モンサンミェルも孤島に立つ修道院もとなるのです。
 モンサンミシェルに行くツアーは、途中の古い旧市街や村落を観光しながら「モンサンミシェル」の到着地でその美しさ魅せられるのです。朝陽・夕陽に姿を変える美しさはあこがれの観光地なのです。
 このツアーは、特に女性の憧れで、日本にはない歴史の重みを感じさせるツアーなのです。その根底にあるのが、日本の村落は木の文化であり、先の大戦で焼夷弾によって焼失させられたのです。
 村落、街並みの美しさは、蔵の街「川越」や地方の古い町並み、そして奥州街道の角館の武家屋敷などです。
 欧米人の興味は、中仙道の妻籠、馬籠宿や飛騨の高山など文学などを通じなじみ深いの街並みなのです。ところがイギリス、フランスその他の国々では、ごく当たり前に石造り窓べに花が飾られた古い家々が多いのです。
 そんな街の一つにノルマンディーに近い漁村の魚屋さんで食した牡蠣やエビの生き造りは私たち2人の思い出の一つです。
 このモンサンミェルは長い歴史の間に英仏の100年戦争や、火災にあい再建された途中で、治める諸侯が変わり、幾重にも建築様式が重なり、教会建築の図書館のような現在の姿になったのです。
 なぜ、このモンサンミェルが巡礼の聖地として有名になったかは理由があるのです。百年戦争でも、敵艦が砂洲に阻まれ、近づくことができず、当時の艦砲射撃では砲弾も届かず、その他の歴史過程の中で無傷に近く存在したからなのです。
 この事実が「世界の驚異」と言われる由縁です。もちろん上げ潮の時は、怒涛のように波が押し寄せ、小舟をひっくり返す程です。また、こんな悲劇もあったのです。巡礼者が盗賊、疫病、などに悩まされながらモンサンミェルにたどり着いても、潮に飲み込まれたり、砂洲に足を取られ帰らぬ人たちが大勢いたのです。そのため、モンサンミェルに行くなら遺書を書いて行けといわれるのです。
 私はモンサンミェルを目の前にして、これは日本の一向宗の本拠地、本願寺と地形が同じと思ったのです。
信長が、天下武布を唱えて、11年もの間、攻略できず本能寺で明智光秀に裏切られ討ち死にした事実と類似点が多すぎるのです。
 当時は水を制したる者が富を得たのです。日本では瀬戸内海から九州の覇権を毛利と村上水軍が握り、東南アジアとの貿易で富をを蓄えていたのです。こちら英仏はドバー海峡を挟んで地中海貿易、または北欧の国々と沿岸貿易を行なっていたのです。
 英仏の100年戦争でも攻略できなかったモンサンミシェルの尖塔に、天秤と剣を持った平和と真偽の姿、金のミカエルの像があるのです。
 信長の後継者秀吉は、足利将軍の調停によって本願寺と和解し、東本願寺と西本願寺に分断させ、力をそぎ、毛利と村上水軍を破ったのです。秀吉は己の権力を知らしめるために、顕如の本願寺を打ち壊し、大阪城を築城し天下統一を成し遂げたのです。
 秀吉は、堺の港や掘割を作り、南蛮貿易によって富を蓄え、難攻不落の大阪城を築城したのです。一つ付け加えると大阪の地を難波というのは、満潮になると波があったことに由来するのです。周辺は低湿地帯だったのです。
 このようにモンサンミェルと一向宗の拠点本願寺は共通点があるのです。もちろん、モンサンミェルも一時的ではありますが城郭として使用されたこともあったのです。

ヨーロッパの看板彫金は無学に証拠

2017.11.01 (水)

 イタリア旅行へ行ったとき.、ポンペイの遺跡を見て、石でできた看板が街区の通り面し、誰が見てもひと目でわかるようにずらりと並んでいました。その時は、解らなかったのですが地中海沿岸の都市国家は、アフリカ、トルコあるいは大西洋沿岸の各国と貿易で栄えたのです。当然民族も違い、言語も違いました。カルタゴ(チュニジア)は小国でしたが、地味豊かな国で、海洋貿易でローマと覇権争いをて、名将「ハンニバルの時を滅亡した国でした。
 そのように、雑多な国が入り混じり、貿易をしていた関係で、絵をもって、何の店だかわかるように彫金看板が発達したのです。
 もちろん、奴隷貿易も盛んでした。また、一般市民も、紀元前では無学の民族も多く、文字を持たない国もあったのです。
日本でも、江戸時代までは、蝦夷、アイヌ民族は文字を持つことなく、木の皮を利用し、結び目の形に依って己の意思を伝達したのです。

 日本書紀、古事記は漢字が遣隋使・遣唐使によって伝来した紀元4世紀ごろ、稗田阿礼が各豪族などが自己の文字記録によっていたものを統一の漢字表記にして、暗記させ、また、天皇家の権威付けの必要もあり編纂されたのが日本書紀です。
 ヨーロッパの諸国も文字を持つ国、持たない国も一応に等価の物々交換、または金の粒の重さによって交換していたのです。
その一例として、世界最初の休戦協定に残されたエジプトはヒエログリフで石碑(レプリカ)に刻まれていたのです。アッシュリアは楔形文字を陶板(レプリカ)に残したのです。現在は国連に本物があるそうです。
 たまたま、エジプトとアッシュリアに行く機会を得たのでどちらも見分しました。
 地球1周の旅の途中のことです。、ヨーロッパのローディングブルグの古城の街並みには惚れたくなるような彫金・看板が沢山ありました。私が、雑記帳を持ち歩き、妻と二人の日本語だけの旅ができたのも絵のお蔭です。絵は万国共通なのです。素晴らしいモーツアルトの故郷のザルツブルグは、マグドナルドの看板まで街並みに合わせ、ライオンと繁栄のシンボル、蔦で独特のMをインコか鷲がくちばしで支えているものでした。
 その広場で毎年モーツアルトの野外コンサートが盛大に開かれそうです。もう、ザルツブルグはモーツアルト一色です。でも、素晴らしい街並みと、緑と看板と教会の尖塔がマッチした魅惑の旧市街です。
 ヨーロッパのどこに行っても古い町並みには彫金の絵文字が看板あるのです。帆船の看板、牛の看板、鶏の看板、星の看板、ピアノの看板、それは一目で子供でも分かるのです。
 それも驚いたことにソープランドの看板まであるのです。
何処の旧市街、古城の廓には足を止めたくなるような手の込んだ彫金看板があるのです。きっと、からくり人形がいろいろな動作をし、王家の権威つけの技術からお店の看板に発達したのでしょう。
日本では、下屋の屋根に独特の看板が彫られたり、大きな提灯に書き込まれています。看板は店の雰囲気までも表現できるので最良のパフォーマンスだったのです。

ポンデュガールは匠・芸術家の結晶

2017.10.30 (月)

 ポンデュガールは日本ではなじみの無い遺跡です。しかし、ガール水道といえば古代のローマ水道で中学の時、社会科で写真付きのコロッセオともになじみのある遺跡です。
 しかも、今回の世界一周の旅で、3第古代ローマ水道を全部見る機会に恵まれました。1つはポルトガル、2つはイスタンブール、3つはポンデュガールです。でも、群を抜いて素晴らしいのはこのポンデュガールをしのぐものはありません。ポンデュガール、紀元前19年アウグスチヌス帝の腹心のアグリッパの命令で、ローマのガリア地方(現在のフランス)の殖民地、ニースのガルドン川に架けられた3層のアーチ式の水道橋です。
 取水口の泉とニームまでの延長距離は50KMです。その高低差は1KMにで30CM弱でした。取り組み口からニースまでは、渓谷があり導管は曲がりくねったものでした。
 石材はガルドン川の下流に産出する赤み掛かった石灰岩で、加工しやすく、すり合わせると良く整合するものでした。この石灰岩を、決められた定寸法のブロックに切出されたのです。ポンデュガールは橋の高さは川の水面より49m、下層のアーチの高さは22m、6つの橋脚、中層は20mのアーチ、11の橋脚、上層は7mで35の橋脚でバランスがとれ、とても美しいものです。赤み掛かった、石灰岩の石材のブロックもガルドン川に映えて、夕日、朝日に真っ赤に染まったことでしょう。
 勾配は1/3000のため、途中,用水のマスを設け、トレッドウィール・クレーン(人力の大きな水車の輪のようなもの)でくみ上げたりしながら5000人の住むニームの街へ導水したのです。
 1日の水量は2拾万㎥の水を27時間かけて、ニームまで運んだのです。蒸発や汚泥、植物の根などから導管を守るために地下に埋設したのです。
 古代ローマ人の建造物の技術は、600年にわたって給水を守ったのです。いかに優れた技術だったか判ります。。
 この工事は、500人の人で50年かかるといわれていた難工事をアグリッパは6年で完工させたのです。また、石の各ブロックの漏水を防ぐために、消石灰にブタの血または脂身を使って、それをイチジクの粘液で混合し、練った特殊な漆喰を作り出したのです。
 また、コの字型の導水管内部にタイルを張って水を流れやすくしたのです。しかも、開口部分には、ブロック状に切り出された、蓋に勾配をつけ、雨水などのゴミが入らないようにしてあるのです。もちろん、接続部分は漆喰で接着したのです。
 また、ポンデュガールは、人、馬車、荷車が通行できるようにしてあります。この壮大な工事は、日本では邪馬台国の卑弥呼の時代なのです。また、切り出されたブロックの重量は6トンもあるのです。それを、木造のクレーンで持ち上げたのです。
 清流の流れるガルドン川です。台座を如何したか。考えると疑問が疑問を生むのです。多分、支流を作って川を一時的に埋めて台座設置したことでしょう。また、切り出した6トンのブロックを挟む鋏のようなものも製作したことでしょう。
 ニースに運ばれた水は、四角いマスの井戸から各家庭に給水されたのです。給水の導管は、5mくらいの長さで100mmΦくらいの少し円錐形の丸い木に銅・鉛・青銅の板を巻き付け篏合したのです。それをつないで給水されたのです。
 石灰岩のブロックを導水した水は鍾乳洞と同じく炭酸カルシュムが解けて、流水の邪魔をしたのです。もちろん、他の汚泥などもメンテナンスで取り除かなければなりませんでした。膨大なメンテナンスの費用だったと思います。
 6トンもあるブロックの石材を修羅(そりのような運搬具.修羅)で運んだのです。後の世のナポレオン三世(江戸末期から明治の人物)が、ポンデュガールを見て、荒廃しているの姿を嘆き元の姿に戻したのです。
 1度見た観光客は生涯、瞼の奥に焼きつくことでしょう。フランスに行かれたら 絶対にお薦めの観光地です。

ハルシュタットの土産物屋地下にローマ帝国の建設当時謎が

2017.10.29 (日)

 ウイーンの森「うたかたの恋」の舞台、マイヤーリング教会のほど近いところの地下に浜名湖に匹敵する地底湖があるのです。元々石灰岩の石切り場でしたが地下水が湧き出て地底湖ができたのです。
 一時は、ナチスのメッサーシュミットなどを作っていた秘密工場でした。
 今は、デズニーの「三銃士」映画のロケ地などに使われており、ロケ用ののゴンドラで地底湖を1周したのです。いかに、ウイーンの森が広いか想像してください。その後、ツアーバスはランチのレストランに向かいました。周りがウイーンの森に囲まれた雰囲気の良いレストランでした。長閑な7月の風を受けて、満腹感を味わいハルシュタットへと旧道沿いにバスは走りました。
 今は、忘れされてしまった田舎町や田園風景を車窓から満喫し、北のスイス連峰の麓、ハルシュタットにつきました。
 日本の丹後半島の舟屋のある光景です。その景観は、丹後の舟屋と違い、教会の尖塔や鋭角の屋根の連なる山小屋の風景です。沢山の土産物店や船着き場、切妻の壁に白鳥の装飾、ツタの模様の破風板、一昔前の農作業の道具や荷車の車輪を矢切の壁に飾った山小屋風のペンション、木挽きの道具なども飾られていました。
 人通りの観光道路の土産物屋を覗きながら、ガイドさんの言われるままにお店に入りました。妻は、孫・お嫁さん達の土産物の物色に夢中でした。ガイドさんがこの店の地下にローマ時代の遺跡がありますよ。ご覧になったらどうですか。といわれ、興味深々で地下への階段を降りてびっくりしました。ローマ時代の水路が地下にありました。ちょろちょろと湧水が流れているのです。また、何かの建造物の基礎があるのです。土台があって、基礎があり、鉄の25mmくらいの丸棒で連結してあるのです。
 ローマの建造物は、こんな加工してあるのかと驚きました。2000年も前に鉄の文化があったことは知っていましたが、まさか鉄筋で結ばれているとは知りませんでした。カトマンズの市場で見聞した人力のグラインダーを思い出し、この石も人力のモーターまがいの冶具で開けたのかとも思いを巡らせてみました。ある人のHPのブログに、コロッセオが古代コンクリートと鉄筋を貫通させたであろう穴が有ったこと調べているうちに解ったのです。そこまでは良かったのですが、黒曜石の硬質のドリルをどうして作ったか、何万本という数です。やはりそれ以上の謎は解けませんでした。
 時間をかけて、作ったことは解っています。しかし、古代ローマは、膨大な数の建造物を作っているのです。
水圧で開けたとすれば、高圧の水圧を作る事が出来たかです。謎が謎を呼んでしまいました。
でも、鉄筋を貫通することで地震国イタリアの建造物は2000年の歴史に耐えたことは実証されているのです。また、古代コンクリートは海水を使用し、セメントの劣化を防いだと言われております。
 今のコンクリートの耐用年数は4~500年が最高です。その劣化を防ぐために現在はタイルを張ったりしているのです。何時かこの謎を解明できればと今回のハルシュタットの旅で考えさせられました。旅は、疑問解決の糸口を見いだせ、種々のことを教えてくれます。一見は百文に如かず。このことですね。

うたかたの恋、拳銃自殺の結末

2017.10.28 (土)

ウイーンの森は深く何もかも包み込み、オーストリア皇太子ルドルフと男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツエラの恋・拳銃自殺まで包み込んだのです。それは、狩猟館を呼ばれる、世間では耳にも止まらない小さな館の出来事です。
今は、小さな教会の立つカルメル修道会の管理するこじんまりとした建物です。周囲は牧歌的な建物が2~3件立ち並ぶ景観です。
この建物は、冬のある日のことです。拳銃が2発、鈍い音を立てて事件は歴史の外に追いやられたのです。ルドルフはハプスブルグ家の慣例に従い、葬儀はにぎにぎしく執り行われました。
 しかし、マリーの死は伏せられ、世間は知ることなかったのです。まして、荼毘にふされることなく、歴史が消し去っていったのです。
この事件はフランス作家クロード・アネの原作を1936年映画化したものです。ルドルフは教育係のレオポルド・ゴンドレクールのスパルタ教育によって 成長し、内気で意固地な歪められた人間として成長したのです
当時のハプスブルグ家は民衆と心とが乖離していたのです。しかし、ルドルフは自由主義者と教育関係者との間に親交が深く、フランス宰相クレマンソーとも知遇があったのです。
 彼は、当時の貴族階級の保守的と反対に自由主義の思想を持っていたのです。彼の側面は、政治批判の執筆にも関わり、文化、歴史をまとめた本も出筆していたのです。ルドルフは思想的なことで、父フランツ・ヨーゼフ1世と対立を深めていたのです。
ルドルは、酔狂の武官たちと酒に浸り、巷間の酔狂者に絡まれて困惑している女性を助けるのです。そして、いつの間にか真の恋に陥るのです。その女性はルドルフを皇太子とはつゆ知らず劇場で逢瀬を重ねたのです。
 最後の夜、ルドルフは晴れの舞台で愛を交し、「明日、旅に出よう」といって冬の雪の降るマイエリングの山荘に向かいました。安らかに眠るマリーと遺書を残して、拳銃自殺をしたのです。
ルドルフは友人に謎めいた「僕は知りすぎてしまった。」そんな言葉を残して死に向かったのです。
1936年「うたかたの恋」や「会議は踊る」の映画が放映されましたが、日本では、天皇家を侮辱するとして、検閲に合い、戦後1946年に放映されたのです。
ルドルフは最後の皇女「エリザベート」の父に当たるのです。ガイドさんの説明では、ルドルフは父、ヨーゼフに殺害され、自殺のように偽装されたようだと説明していました。
彼は保守・自由主義の対立、ハプスブルグ家と庶民との乖離に苦しみ、真の恋に自分の置き場を求めたのでしょう。

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