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記事一覧

ハルシュタットの土産物屋地下にロー帝国の建設当時謎が

2017.10.29 (日)

ウイーンの森「うたかたの恋」の舞台、マイヤーリング教会のほど近いところの地下に浜名湖に匹敵する地底湖があるのです。元々石灰岩の石切り場でしたが地下水が湧き出て地底湖のなったのです。
一時は、ナチスのメッサーシュミットなどを作っていた秘密工場でした。
今は、デズニーの「三銃士」映画のロケ地などに使われております。
いかに、ウイーンの森が広いか想像してください。ツアーバスはランチのレストランに向かいました。周りがウイーンの森に囲まれた雰囲気の良いレストランでした。長閑な7月の風を受けて、満腹感を味わいハルシュタットへと旧道沿いにバスは走りました。
今は、忘れされてしまった田舎町や田園風景を車窓から満喫し、北のスイス連峰の麓、ハルシュタットにつきました。
日本の丹後半島の舟屋のある光景です。その景観は、丹後の舟屋と違い、教会の尖塔や鋭角の屋根の連なる山小屋の風景です。
沢山の土産物店や船着き場、切妻の壁に白鳥の装飾、ツタの模様の破風板、一昔前の農作業の道具や荷車の車輪を矢切の壁に飾った山小屋風のペンション、木挽きの道具なども飾られていました。
人通りの観光道路を土産物屋を覗きながら、ガイドさんの言われるままにお店に入りました。
家内は、土産物の物色に夢中でした。ガイドさんが、この店の地下にローマ時代の遺跡がありますよ。ご覧になったらどうですか。といわれ、興味深々で地下への階段を降りてびっくりしました。
ローマ時代の水路が地下にありました。ちょろちょろと湧水が流れているのです。
また、何かの建造物の基礎があるのです。土台があって、基礎があり、鉄の25mmくらいの丸棒で連結してあるのです。
驚きました。2000年も前に鉄の文化があったことは知っていましたが、まさか鉄筋で結ばれているとは知りませんでした。
ある人のHPのブログに、コロッセオが古代コンクリートと鉄筋を貫通させたであろう穴が有ったこと調べているうちに解ったのです。
そこまでは良かったのですが、硬質のドリルはどうしたか、やはりそれ以上の謎は解けませんでした。
時間をかけて、作ったことは解っています。しかし、古代ローマは、膨大な数の建造物を作っているのです。
水圧で開けたとすれば、高圧の水圧を作りえたかです。謎が謎を呼んでしまいました。
でも、鉄筋を貫通することで地震国イタリアの建造物は2000年の歴史に耐えたことは解明でしたのです。
また、古代コンクリートは海水を使用し、セメントの劣化を防いだのです。今のコンクリートは400年が最高の耐用年数です。
その劣化を防ぐために現在はタイルを張ったりしているのです。
何時かこの謎を解明できればと今回のハルシュタットの旅で考えさせられました。旅は、一見は百文に如かず。このことですね。

うたかたの恋、拳銃自殺の結末

2017.10.28 (土)

ウイーンの森は深く何もかも包み込み、オーストリア皇太子ルドルフと男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツエラの恋・拳銃自殺まで包み込んだのです。
それは、狩猟館を呼ばれる、世間では耳にも止まらない小さな館の出来事です。
今は、小さな教会の立つカルメル修道会の管理するこじんまりとした建物です。周囲は牧歌的な建物が2~3件立ち並ぶ景観です。
この建物は、冬のある日のことです。拳銃が2発、鈍い音を立てて事件は歴史の外に追いやられたのです。
ルドルフはハプスブルグ家の慣例に従い、葬儀はにぎにぎしく執り行われました。
しかし、マリーの死は伏せられ、世間は知ることなかったのです。まして、荼毘にふされることなく、歴史が消し去っていったのです。
この事件は、フランス作家クロード・アネの原作を1936年映画化したものです。
ルドルフは教育係のレオポルド・ゴンドレクールスパルタ教育によって、内気でいこじな、ことあるごとに自分の殻に閉じこもる子供として成長したのです。
当時のハプスブルグ家は民衆と心とが乖離していたのです。しかし、ルドルフは自由主義と教育関係者との間に親交が深く、フランス宰相クレマンソーとも知遇があったのです。
彼は、当時の貴族階級の保守的と反対に自由主義の思想を持っていたのです。
彼の側面は政治批判の執筆にも関わり、文化、歴史をまとめた本も出筆していたのです。
ルドルフは思想的なことで、父フランツ・ヨーゼフ1世と対立を深めていたのです。
彼は、酔狂の武官たちと酒に浸り、酔狂に絡まれて困惑している女性を助けるのです。そして、いつの間にか真の恋に陥るのです。
その女性はルドルフを皇太子と知らず劇場で逢瀬を重ねたのです。
最後の夜、ルドルフは晴れの舞台で愛を交し、「明日、旅に出よう」といって冬の雪の降るマイエリングの山荘に向かいました。
安らかに眠るマリーと遺書を残して、拳銃自殺をしたのです。
ルドルフは友人に謎めいた「僕は知りすぎてしまった。」そんな言葉を残して死に向かったのです。
1936年「うたかたの恋」や「会議は踊る」の映画が放映されましたが、日本では、天皇家を侮辱するとして、検閲に合い、戦後1946年に放映されたのです。
ルドルフは最後の皇女「エリザベート」の父に当たるのです。
ガイドさんの説明では、ルドルフは父、ヨーゼフに殺害され、自殺のように偽装されたようだと説明していました。
保守・自由主義の対立、ハプスブルグ家と庶民との乖離に苦しみ、真の恋に自分の置き場を求めたのでしょう。

スプリングは井戸、日本人の勝手な思い込み

2017.10.27 (金)

オーストリアの市街は観光の宝庫です。バスに乗って1日観光をしました。5~6人ぐらいの日本人だけのツアーでした。
オーストリアには、美味しい海の幸を食する「マグドナルド」ような「魚屋路」(ととや)という店がローターにあり、観光客でごった返しておりました。安くて美味しいネタを提供しているのです。
明日は、ウイーンから北側のアルプスに行く予定です。ガイドさんは、チェロを弾き、日本から音楽で身を立てる為に来たそうですが、夢かなわず、ガイドをしたり、演奏したりで日々の生活を送っているそうです。そういえば、シューベルトの演奏会のチケットを取ってくれたガイドさんの旦那さんも音楽で身を立てているのです。ヨーロッパに来て、音楽で留学してる人に何人かお会いしました。
ウイーンといえば、ハプスブルグ家です。700年もの間、ヨーロッパに君臨し、栄華を極めたのです。ハプスブルグ家といえば,ベートーヴェン、シューベルトのパトロンですが、シーベルトは、あまりにも天真爛漫すぎて、ハプスブルグ家から見放され、職を得るために生涯の半分を放浪の旅で過ごしたのです。

冬の旅の菩提樹は、シューベルトの作曲で、訳詞「近藤朔風」作です。

泉添いて 茂る菩提樹
慕いゆきては うまし夢見て・・・・・。
これですが、何処にも泉はありません。ウイーン森で見学した、小さな小屋、勝手な思い込みと、名訳詞のなせるものです。・・・・
入り口の泉は、釣べのある井戸でした。
シューベルトが木製の椅子にに腰掛け
さあ、どうぞ写真をご一緒にそんな恰好でした。
でも、そんなことより、観光客は、その雰囲気に浸ればよいのです。
私たちは、ウイーンの森(東京都の2倍の広さ)の大きさに感心し
レストランでランチを取り、北スイスを旧道を走って、ウイーンの森ととヨーロッパのノスタルジアの息づく町々をを走り、オースリアの田舎の風景を眺めながら、船宿のあるハルシュタット湖へ向かいました。

コロンブスと勝海舟

2017.10.26 (木)

勝海舟、コロンブスこの2人は時代を切り開いた点では、よく似た人物です。勝海舟は15代将軍慶喜が一番嫌っていた人物でした。しかし、当時の幕府に明日を見つめ、胆の座った人物がいなかったのです。
勝海舟と西郷は共に胆座り、人望も厚く、幕府時代に日本橋のつくり酒屋でともに酒を酌み交わした交友関係があったのです。
また、開国後の日本の姿を描いていたのでしょう。同時に慶喜もまた日本の開国後、薩長・土佐、幕府の間で内乱を起こせば、中国のように欧米列強の支配下に置かれる事も気が付いていたのでしょう。
そこに、坂本龍馬という途方もない人物のおかげで、薩長が接近し「禁門の変」でいがみ合った雄藩を結び付けたのです。
大政奉還が薩摩藩の島津帯刀の発案で行われたように教わりましが、慶喜自らが京都御所で諸大名を集めて行ったのです。

コロンブスはバルセロナのモーターボートの発着場の広場で、大陸に向かって右手を上げて、遠い遥かな彼方に夢をはせている姿は、隅田川に立って、右手を欧米列強に向けている姿に結び付くのです。
コロンブスの時代、欧米列強というより、都市国家が多数を占めていたのです。
ほとんどが、地中海沿岸で富を得ていたのです。アフリカの奴隷貿易や小麦、金銀の採掘で国力をつけて、他国を攻め、自国の領土として、搾取していたのです。
コロンブスもはジェノバ出身でした。現在のイタリア北部の都市国家です。
どうして、バルセロナの観光用波止場に記念の像があるのでしょう。答えは、帰国後謁見したイサベル女王の居城がバルセロナのあったのです。また、この周りにはカテドラルなど歴史建造物がり、60mのコロンブスの指さす右手の方向が大西洋を越えたアメリカのあるのです。
勝海舟の右手は日本の明日かもしれません。遣欧使節団のアメリカも知れません。
15代慶喜に嫌われて、頼られた勝海舟は賊軍と戒められた、西郷の名誉回復と奄美大島に島流しされ、結婚して生まれた次男菊次郎をアメリカに留学させたのも勝海舟だったのです。
この2人とも海にあこがれ、次の時代を作ったのでしょう。

オランダ、ホテルオークラのステーキとコロッケ

2017.10.26 (木)

ノルウェーのオスロから隣国オラン・アムステルダムに到着。オランダは運河とチューリップ・風車の国です。今日は豪華4星ホテル「ホテルオークラ」です。
アムステルダムのでホテルオークラとタクシーに告げると心配ないのです。
また、オランダは、車社会でなく、自転車の方が優先で、自転車専用道路も広く、スピードを出して向かってくる感じなのです。
また、駐輪場は、運河に台船を浮かべどこにでも止められるのです。また、世界一のダイヤモンド研磨技術を有しております。
また、過去には、陶器の技術も冠たるものでした。
空港から指定のハイヤーが迎えに来て、フロントが日本人なのでホットしました。フロントの女性に埼玉県の不動岡高校の先輩のコック長の根岸規雄さんの話をしたところ、1月前まで一緒にお仕事をなさっていたといっておりましたので、なをを一層の親近感を感じたのです。
日本から持って行った餅を食べてくださいと告げますと喜んで皆さんと食べさしていただきますと喜んだのです。
後で調べたのですが、根岸さんは日本のシャエフの中でもすごいそうです。単行本になって紹介されて、今は、オオクラの役員をなさっているそうです。一時ホテル業界も大変な時、不動岡の弥勒会の同窓会を開催したとき馬場さんという支配人が我が家まで来てくれたのです。
また、同窓会費を11,000円で立食パーテーイやっていただけたのです。良い思い出になりました。
3泊でしたのでゴッホ美術館や国立美術館なども見て、昼食はオランダでも歴史のある1番古いコロッケ店で、予約を取ってもらいタクシーで食べに行ったのです。
日本では、食べることのできないゴーダチーズを使った本場のコロッケを食したのです。
その日のデナーはオークラのホテルオークラでステーキ食べたのです。ニュージランドで、英語を勉強しオランダで修業中の日本の青年でした。私たちの隣はアメリカ人の新婚さんで、身振り手振りの国際語で光子と4人で会話です。
楽しいひと時を過ぎしたのです。こんな時間も、2人旅だからできるのです。遅いオランダの白夜は更けていきました。

国際マラソンが邪魔をして、ノーベル受賞会場に行かれず

2017.10.24 (火)

ロンドン、エジンバラ、3番目の国ノルウェーのオスロに降りった。
世界一周堂よりメールが入っていたのです。国際マラソンの開催のゴールがオスロのノーベル受賞式の市役所前で、バスツアーから運河クルーズに変更になってしまいました。
ヨーロッパに来て、初めてのクルーズでした。小雨が降っておりましたが、各国の貴族や、王たちの避暑地で両岸に立ち並ぶ別荘が小さな館のようでした。天井がガラス張りで、変わる景色に喜々として眺めておりました。
外海に出て、船はUターン今度は対岸の景観です。王宮やか海岸線にせり出した、レンガ造りの色とりどりの4階建ての建物はヴェネチアの景観そっくりでした。
2時間のクルーズが終わり、午後からどうしようかと思案しておりました。
もう一回乗船し、気にいった公園風の場所で、散策して、時間をつぶそうと家内と相談しました。ところが午後は本降りになり、散策どころでなくなり、結局一周して帰ってくることになってしまいました。
まだ、時間があったのです。ノーベル賞の受賞式場にタクシーで飛ばして行ってみることにしました。まだ、国際マラソンの片付けが終わらず、タクシーは周り道をして、市役所の入り口に地到着ました。
4:40頃でした。
チッケトを買い求めようとしました。「ツモロー」のそっけない返事です。北欧の白夜の日没は遅く外は明るかったのです。
仕方なく「ダーラヘスト」と呼ばれ木こりが冬の間、子供の玩具として、木端で作り造りから始のたが始まりそうです。
日本の盛岡の「ちぐちゃく駒」の様だと思いながら青い「ダーラヘスト」を買い求めたのです。高さ20cm、幅30cm大きさです。
独特の模様があるのです。
ニューヨークで開かれた万国博覧会でスエーデンのブースに展示され、世界的に知られようになったのです。
今では、スエーデンの輸出品になったのです。
市役所の晩餐会場は結婚式も出きるのです。ちょうど、結婚式を終えた、若いカップルと親せき縁者出てきたので、撮影しました。花嫁さんは、肌を出したドレスでしたので寒かった事でしょう。
市役所の中庭に色とりどりの傘をさした、職員が一列に足早に帰っていく姿が印象的でした。
ベストショットと思いながら撮影したのです。
ギリシャ風の頭注のついた柱から、旧市街を望み、雨のオスロ湾を眺めてながら、これからの事を考えていました。
ニューヨークの国連のスープ―トニクの人工衛星あるテラスで、運よく誰かが寄贈した、本物のノーベル賞のメダルを見ることができたのです。

「賽は投げられたリ」のルビコン川を渡って

2017.10.24 (火)

ルビコン川は、イタリア北部の十和田湖の面積ぐらいの小さな共和国(サンマリノ)の北側にあって、運転手も現地添乗員も初めて訪れるほど有名な割に、誰も知りえなかったのです。
旅友の織田さんの発案で行くことになったのです。今回のシルクロードの旅でルビコン川を知らない人はおりませんでした。
9月というのにヨーロッパの冬が近づき、牧草地にはロール状に巻いた牧草があちこちに点在しておりました。いかにも晩秋の風景を映し出しておりました。
ポプラの防風林が北イタリアの畑の作物を守っていました。ルビコン川を地元の人に聞きながらバスは南下したのです。途中、初めて見るイスラム教のお墓を車窓から眺め、空は、雨上がりのせいでしょうか厚い雲間から太陽光線が放射状にどんよりしたアドリア海に吸い込まれる光景が広がっておりました。
何かルビコン川の観光によく来てくれたと歓迎しているようにも思えました。
約1時間ぐらいして、ルビコン川の橋に到着したのです。川幅30mもしない小さな川でした。海に近いせいですかモーターボートが多数係留されておりました。
訪れる人もいないのでしょう。何の変哲もなく、公民館のような建物と民家があるくらいでした。
土産物屋もありません。このルビコン川も数千年に及ぶ歴史の中で氾濫、埋め立てなどの河動があり、シーザーが渡河した地点は論争の的ですが不明です。
しかし、25km足らずの流域です。川幅も、狭いところですと3mぐらいだそうです。私たちが行ったルビコン川は、海岸線まで1kmくらいのところでしたので比較的広かったのです。当時のローマ帝国では、北はルビコン川、南はブリンディシュを前に軍を解かなければ謀反者とみなされ、法を犯すことになるのです。
その時のシーザーは7万~8万の軍勢を統率していました。
ところが、シーザはあまりにも優れた軍人であったため、元老院が政敵とみなし、追い落とそうと画策したのです。
シーザーはそれを見抜き、自軍の兵に名演説を行ったのです。それが有名な「ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅。神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう、賽は投げられた」でした。
ところが彼に付き従ったのは、1軍団(500人~1000人)のみでした。
しかし、彼の行動は早く、1日でローマ入りを果たし、ポンぺウスが軍団編成もままらぬうち、ローマを制圧したのです。
その後,執政になり、皇帝になるのです。
彼は、文学者としてもすぐれ、「ガリア戦記」(現在のフランスでの7年に及ぶ戦いを三人称の立場で書いて、真実性を持てせているのです。その記述は正確で、歴史の記述として、価値が認められているのです。
その後、我々は東ローマ帝国コスティフタアンスの開いたの最初の都、ラヴェンナに向かったのです。

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