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記事一覧

高見泉石とストーリートオルガン

2019.06.23 (日)

栗橋町の利根川を挟む古河を、散策した思い出をブログみ書いてます。
私の現在は不時の病・肝硬変です。4ヶ月も入院しています。古河は上杉古河公方の領地です。古河藩の家老の家に生を受けた鷹見泉石は、当代きっての蘭学者でした。
中学社会の教科書に掲載されいたのを覚えております。古河歴史博物館に肖像画がかざられております。本物は、東京上野の国立博物館に収蔵されております。
本物同様のレプリカですが見応えはあります。彼は渡邉崋山や足立左内と親交あり、江戸藩邸でも頭角表し、江戸末期の寛政9年の生まれです。
近畿、大阪襲った飢饉に大坂商人も財力がなく、将軍家斉も財政にめどがたたず、庶民は餓死が巷に溢れ、大塩平八郎は町奉行所の身分でありながら自分の蔵書5万冊を処分して、民を救おうとしたのです。奉行所郎党200に人で決起し、鷹見は1日で鎮圧したのです。伊能忠敬も同時代の人物です。

歴史博物館にフランス モンマルトの丘のサクレ・クール寺院前で小柄なおじさんが変わった箱のオルガン様な楽器の前でトレンチ帽をかぶり、ブルーのカウボーイ風の襟巻きをヒラヒラさせながら歌っていたのです。光子はチップ渡し、2人で撮影しました。古河の歴史博物館にフランスのモンマルトの丘で見聞したストリート・オルガンより、数倍上の素晴らしいストリート・オルガンがありました。演奏時間は1日3回ですが無理をいって特別に演奏演奏して頂きました。人形が踊り出し、心を揺さぶるです音色で一度聞てください。

その他、街角美術館は郷土の日展作家中心に絵画が飾られております。旧4号の古河駅近くの奥まった所に蔵作りの歴史作家永井路子の生家があります。
印章の篆刻美術館が在りますが、マイナーの美術館です。金印の篆刻も見られるかも知れません。

近隣の城&城址の話

2019.06.23 (日)

 明治政府によって解体され、あるいは長い歴史になかで風雪に朽ちたそんな城の話しです。
小学生の時、聞いた話ですが鷲宮神社の近くの『粟原」』にお城があったそうです。
 日本には戦国時代に大名達が名城と言われる山城を桃山時代(豊臣秀吉)になると平城」を築いたのです。古くは坂上田村麻呂が東夷征伐のために「胆沢城」築きました。
 昔、神社の周りに前沼と言って人工的な沼がありました。鷲宮神社は、昭和23年の水害でも浮島の如く水害を被らず、吹き井戸に水をくみにいったのです。
粟原城の支城ですが遺跡は花咲駅から加須方面に線路沿いに3分ぐらいに「城山公園」として現存してます。
 粟原城は平成大学に行く途中の粟原地区の二股に分かれる右奥手に、祠があります。そのあたりがそうだと思います。

天正年間、上杉謙信が小田原城を攻めたとき、幼少の城代城主「細萱泰秀」守っていたが落城し、同じく鷲宮神主の神主(城主)の粟原城も落城したのです。

幸手市にも幸手駅東南徒歩5分くらいのところに幸手城があり、地名に「城山、陣屋」が残っております。また、幸手市天神島曲輪に天神島城(一色氏館)があり、この辺りは御家人達が鎌倉に駆けつける「鎌倉街道」あります。この辺りの盛り土が城郭なのです。
天然の堀、倉松川が流れております。また、鎌倉への物資流通は湿地帯を形成していた津を利用したのです。
菖蒲には、市庁舎近くの鴻ノ巣、上尾へ抜ける県道沿いに花菖蒲の名所で石碑が建ち陣屋の門が残り水郷の風情があります。

鎌倉から古河に転戦するとき立ち寄った武州少将の名に因んで菖蒲と名付けられたのです。

のぼう城で有名になった忍城の成田氏長の配下で、秀吉の北条氏康の小田原攻めに破れ、廃城になったのです。現在は再建されて資料館になっております。
最後に栗橋城と関宿城です。栗橋城は桜の名所「権現堂川」の元栗橋(茨城県)に存在したのですが、今は城址の看板のみしかありません。その対岸に久世大和守の関宿城(千葉県)があり、戊辰戦争の戦場になったのです。
忘れていました。久喜の足利3代に菩提寺「甘棠院」非常時には城としての機能をもち、掘り割りの遺跡も有り、現在は住宅地で面影ありません。

そう言えば、日本三景の松島の瑞巌寺も城を兼ねています。また、あちこちに存在する寺町も最後の砦な様なものです。垂れ桜で有名な弘前の武家屋敷の奧の津軽氏の菩提寺を思い出しました。

フセイン可哀想

2019.06.20 (木)

伊豆七島の新島、式根島にゴールデンウイークに竹芝桟橋より妻と二人の船旅です。東京 タワー、レインボーブリッジの夜景望むPm10.30頃の出港しました。
今回は久し振りの大島航路です。銅鑼が鳴り東京湾を滑るようにメリケンハ波止場にむかい一時間位でメリケン波止場に接岸しました。二人ですので奮発して特1の船室のチケット購入したのです。ベットにシャワー室、専用デッキの豪華版です。光子は御満悦でした。飲ないビールで乾杯して見慣れた夜のメリケン波止場でしたが静かな時と海風を頬に感じておりました。
私は神奈川大学に行ったもので試験が終わるとよく大島にいったものです。
朝の4.00頃大島に着き、釣り人達が下船し船宿の車で三々五々に散っていきました。そして、1時間チョットで新島に着き、小舟に乗り換えて式根島で下船です。
 車で民宿迎い、荷物を紐解き地鉈温泉に歩いていき、 時間が悪く引き潮で地鉈温泉も海水がなく無惨な姿を露出してました。前回の時は満潮で大海原と一体になって悦に温泉に入ったのです。
なぜ、地鉈温泉の名称が有るかは断崖の地面を鉈で割った狭隘な階段を海におりるのです。今回は仕方なく町営の無料温泉に入ったのです。夕食は民宿「あしたば料理」とクサヤ(トビウオ)と海の幸です。
翌日はレンタサイクルで島の観光です。式根島には和蘭植物園、鯨のモニュメント等を見学し、小高い大平洋を望む丘に行ったときです。
大学生がレンタサイクルで来ており、チョット太った大学生が「フセイン 可愛そう」と大声で海に向かって叫んでおりました。米国大統領ブッシュ・Jの有志連合軍(英国、ポーランド、日本等)が参加しておりました。査察の結果、核増殖炉見つかりませんでした。
米国は「人道支援」に名目を変え、フセインを拘束し、イラク政府引き渡し、死刑確定後2006.12.30日絞首刑が執行され、彼は「アラー、アクバル」(神は偉大なり)といって目隠しをはずす事を望みました。
何か、極東軍事裁判を思い出しました。今回の件はロシアを始め反対の世論も多数騒がれました。
一説には劣性のブッシュ大統領の選挙対策の口実だった論評が出たのです。政治の世界の裏側見る思いです

今度は撤退するとベトナム戦争の二の舞です。名目を切換「人道支援」で湾岸諸国の米軍基地から空爆です。女性軍人がNavでピンポイントの爆撃していたのです。もちろん誤爆もありました。負傷したイラク軍の敵対兵は空しさを感じたそうです。米国有志連合軍は地上部隊を派遣しなかったのです。
ベトナム戦争と違い米国内の厭戦のムードは出ず、フセインは拘束され処刑されたのです。

 

上野寛永寺の歌川広重の松と彰義隊の墓

2019.06.20 (木)

上野恩賜公園は動物園、博物館、美術館、文化ホール、桜の季節には黄桜(右近桜)も咲き、四季折々にはイベント会場なり、見所が沢山あり1日中楽しめます。 食事も大観荘や精養軒、アメ横のアシアン料理、聚楽宴等事欠きません。地下街は日本の金市場、貴金属店軒を連ね、格安チケット店もあります。

上野寛永寺の 観音堂は江戸名所百景の松(覗き)忍ばずの池(天然池)を覗くのも粋なものです。
鳥羽.伏見の戦いに敗走した15代将軍が謹慎し、隅田川の別れで水戸へ下行し、慶応元年(1868)大村益二郎率いる官軍が上野山に立て籠る幕府軍と交戦し(彰義隊) 武器の差と農民主体の混成軍に敗走し、幕府の残党は関宿の戦い、坂東市、結城、宇都宮、白石、会津、山形、函館五稜郭の戦いで土方歳三、榎本武楊・大鳥圭介の幕府軍が敗れ,㍾維新を迎えるのです。

彰義隊の遺体は見せしめ為、上野山に散乱したのです。見かねた三ノ輪円通寺住職仏磨によって荼毘に伏に伏され、墓石と共に密かに埋葬されたのです。
西南戦争で自決した西郷隆盛の没後、㍾政府も安定し、㍾14年、元彰義隊「小川興郷」によって墓石が掘り起こされ、別に山岡鉄舟の筆に依る「彰義の墓」建立されたのです。山口県 萩市には吉田松蔭の松下村塾が在りますが、彼は大阪の蘭学医 緒方洪庵の私塾に通いました。現在の大阪大学の前身の適塾です。

静御前と田舎教師(田山花袋)

2019.06.18 (火)

一件繋がらない遺跡の見学の話です。栗橋駅の近くの公園に静御前の墓が安置され、今は、栗橋街の街おこしに一役買っております。昭和の初めの町村合併まで「静ヶ村」の地名でした。静御前は、京から吉野の弘法大師が開祖した金剛峯寺まで身重の体でたどり着いたが、もうそこには鎌倉幕府の追手が延び、義経私従は陸奥の道を行者姿で藤原秀衡のもとたどり着いたのです。静御前は捕らえられ、鎌倉八幡宮の頼朝の御前に召し出され、当代随一の白拍子で舞を強要されたが、静は私は義経さま妾であると断ったのです。頼朝は、激怒し政子が取りなし、舞いは八幡宮の能舞台で披露されました。しかし、身籠っていた男子は出産ご殺されました。

田舎教師は羽生、行田、古河を舞台に実在の人物、羽生の小林秀三氏の日記を元に田山花袋が書いたものです。田舎教師は足利の呉服問屋に生まれ、父の道楽の骨董で身を崩し、熊谷の長屋に住み着き、その後、行田の旧忍城の城下の長屋に住んだのです。
 ㍾34年行田から4里道のりの弥勒高等小学校通ったのです。作家の田山花袋も館林生まれです。田舎教師の小林清三は熊谷中学を卒業して代用教員なったのです。今、当時の弥勒小学校は無く、私の不動岡高校の担任の法元六郎先生の建てた下駄履きに羽織姿のブロンズ像がたっています。
小林清三が恋心を抱いた北川美穂子(お種さん)の墓が近くの円照寺に記念碑が建っています。清三は21才の時に結核に架かり行田の斎藤医院で診療したのです。清三は行田の電電公社の近くの柳の湯にもらい湯だったのです。
北川美穂子さんは北袋の母の姉が住んでいた橋の袂のお店の娘さんのです。清三は娘さんが弥勒小に弁当を届ける事を心待ちしていました。
清三の給与は11円で船で古河の花街(中田宿)へ遊びにいったのです。益々貧乏なった清三は小林秀三の友人の住職に願い、羽生建福寺に転げ込んだのです。
当時の古河は花街がありましたが、4号線でき奥州街道の宿場街でしたが今は跡形も無く、静御前は古利根を渡れず病に倒れたのです。
清三も静御前も若くして失意の中で無くなり清三を知る人もいなくなったのです。
 話は違いますが田山花袋の兄、管原正敬の碑が鷲宮神社に多数あります。かれは、文筆家で急進的な新聞記者でした。

鴻の鳥 最近は赤ちゃん連れてこないです。

2019.06.18 (火)

コウノトリは結構大きな巣を屋根棟上に営巣しますが人間が巣の土台と成るべくリングがつくって在るところに小枝や紐、羽根を集めて造るのです。

九州の五島列島に野生のコウノトリが飛来し、それは九州五島の田畑が無農薬肥料だったからでしょう。戦後食料難で捕獲して食べたそうです。鷲宮神社の神様の鶏も戦争で敗けたため、神通力を通じなく、氏子が食したそうです。

今、こんな話もあるのです。ルーデンブルグ城の事です。私は屋根工事業を営んでおりますが上を向いて屋根に注力しているのです。コウノトリはヨーロッパではあまり農薬を使用しないわけか湿地で餌を漁っている姿を空港の迎車の窓から見かけたものです。ルーデンブルグに観光中も青空を悠々と飛翔する姿や屋根上の雛も見掛けました。

シルクロードのウズベキスタンの国鳥ですが見ることは叶いませんでした。餌を求めて沼地に行っていたのでしょう。

野田も産廃場のある田圃の放棄地を農家から買いあげ、湿地帯にし、蛙、ヤゴ、ドジョウを放流して環境造りをしてからコウノトリの営巣の場所の選定ではないですか。廃校の屋根でも巣の台座を作り街お越しを考えて居るのでしょう。

最近の女性は自立し、子育てが苦手でキャリーヤを積むのは得意ようでまた、スマホ、住宅ローンで家計は火の車、旦那は残業が減ってやること無し。
 人口の穴埋めはインバウンド頼み。日本もアメリカと同じく混交民族になり大和民族は東京から閉め出されるのですか。現実的な出来事です。
 

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加須市 浮野の里

2019.06.17 (月)

六月の土日は、加須インター近くにある浮きの里は,花菖蒲が咲き、茜たすきに紺かすり姉さんが田舟を漕いで足踏み水車回っていることでしょう。潮来の風景とおなじです。この浮きの里には氷河期の特有の植物と里山の風景が色濃く残っております。菱や食中植物の宝庫です。駐車場や水洗トイレも完備され木道もあって散歩がてらに行ってみてはどうですか。。高見台もあるのです。
沼海老、オタマジャクシ、メダカ、運かよければ亀に会うかも知れません。地シバリの黄色い花も見ごろです。
帰りに加須のうどん等も粋です。加須のうどんは利根川の反乱で肥沃な堆積層に恵まれ二毛作が可能になり麦畑が広がっております。今は都市化の波で住宅地になって耕作放棄地ふえるばかりです。
もし、時間があったら不動尊の五箇宝を買って総願寺の編額を住職頼んで見学したらどうですか。くすんでよく見えませんが関孝和の弟子が羽生から加須近在に多くいたのです。板倉の来電神社の編額よく見えます。関孝和はキリスト教を信奉してたことはあまりしれれておりませんが。
五箇宝は参勸交代の大名、家来のお土産だったのです。
秩父街道、中仙道から故郷に持ち帰ったのです。縁起の良い菓子です。熊谷と加須の特産品です。

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