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記事一覧

函館の夜景とハプニング

2019.07.06 (土)

 3度目の函館です。日本三大夜景の一つでです。藻岩山から見る夜景は、長崎、神戸、北九州市の夜景に比ではありません。
 すごい夜景を堪能し、バスに戻りました。しかし、N夫妻の姿がありません。30分ぐらい待ったでしょうか。戻ってきたのです。美しい夜景に時間の過ぎゆくのを忘れたのでしょう。ところがです、一緒に北海道の旅を楽しんでいたT夫妻の甲高い声だと思うのですが「土下座して謝りなさい」と言いすぎた声が飛んで、N夫妻はバス内で土下座して謝ったのです。どんな気持ちか推察するしかありません。悔しかったでしょう。

 今は、故人になっている靴屋の爺さん、Hさんです。昭和29年9月戦後最悪の洞爺丸海難事故の話です。彼は、殺人の罪でムショ帰りでした。
 戦争中は海軍に配属されて水泳は得意だそうです。台風の予測が外れた洞爺丸の船長は青空が出ていたので波は時化ていましたが5時間遅れで函館港を出港したのです。台風は時速100kで長万部近くを行ってると気象台の発表を信じたのです。ところが台風は、青函海峡にいたのです。
 洞爺丸を含め5隻の船舶が沈没、座礁で1500名近い死亡者を出したのです。洞爺丸だけで1155名の死者を出したのです。船内は地獄さながらとです。そんなニュースをラジオで聞いた記憶があります。

 函館の夜景は女性夜景デザイナーの作で一躍有名になったのです。
函館は、金森倉庫群の周辺の大通りが観光スポットで粋なお土産店がありウインドー・ショッピングに最高です。
 一度旅の夜風に吹かれるのも爽やかなです。
 

夜明け前「開陽丸」と最後の戊辰戦争(函館戦争)

2019.07.06 (土)

 榎本武揚は幕府の命を受けてオランダに留学し、国際的な海洋法規を学び帰国しました。海軍の必要性と軍艦建造を奏上したのでした。
 15代将軍鳥羽伏見の戦いで負けて江戸へ逃げ帰り、天皇に対して帰順の意志を示してしていたのです。
 それを不満とする奥州列藩同盟の伊達、上杉、津軽、会津は交戦の意志でした。交戦を好まぬ慶喜は、上野寛永寺で謹慎蟄居の身でした。

 それ以前に榎本武揚は、軍艦建造をアメリカに打診していましたが南北戦争の最中で其れどころでなく断られ、留学先のオランダに発注したのです。
その後の海戦では、開陽丸は艦砲射撃では薩長軍の艦砲射撃の2倍で3回の海戦で強さを発揮したのです。山形の戦いで敗北した幕府軍は、開陽丸で蝦夷地に向かい、折からの台風のシケで座礁したのです。
 松前藩を守備していた薩長軍の兵士を追い出し、抜け殻の西洋式五稜郭を最後の陣地として、当時蝦夷地に置かれていた領事館、大使館に対し、選挙で選ばれた榎本武揚を大統領とした、蝦夷共和国が出来たのですが、薩長軍は認めず函館戦争になったのです。

 函館政権は、総裁を榎本武揚、陸軍奉行を大鳥圭介、歩兵第4連隊長に土方歳三が任命されたのです。
 しかし、内部は一枚岩ではありませんでした。国名は蝦夷共和国と呼び、公用語は、日本語、アイヌ語を定めました。
 薩長軍は黒田清隆をトップに7か月及ぶ戦争終結し、土方歳三、大鳥圭介は激戦の末に討ち死にしたのです。榎本武揚も自決を覚悟し、敵将の黒田清隆に海上国際法の万国海律全書を送ったのです。
 黒田清隆は、武揚を明治政府の外相・逓信大臣・文部大臣などの要職につけたのです。また、榎本は飯田橋の地に東京農大設立したのです。榎本は1908.10月72歳で亡くなったのです。

 

有珠山噴火瓦問屋三喜と行く

2019.07.05 (金)

 かれこれ40年前の1980年ころですか、よく覚えていないのですが、洞爺湖の花火祭りにオオギヤの社員と瓦問屋「三喜」の社長さんと社員の運転手さんと8人で近ツリのツアーに参加したのです。

 有珠山が爆発して観光客が激減したのです。洞爺湖河畔のホテル、旅館が知恵を絞った結果1年中、宴会をしながら打ち上げ花火を堪能できるアイデアを打ち出したのです。
 各ホテル宴会場の正面で台船上から打ち上げる花火は贅沢で迫力満点です。

 3度目の洞爺湖は理化学部の友人夫婦の旅行でした。有珠山は落ちついていました。初めの旅は男三人の放浪旅でした。1970年代は昭和新山に薄煙の上がり、温もりする赤茶けた山肌を登ってきたのです。
 今ではロープが張られ登山不可です。昔は観光客もすくなく自己責任だったのです。お土産屋もなかったのです。

 洞爺湖の起始再生を図ったのは「洞爺湖」サミットです。北海道全体の経済がサミットによって回り始めたのです。
 その陰で「ザ・ウインザーホテル洞爺」の女支配人の奮戦努力の結果なのです。

 ザ・ウインザーホテル洞爺が4星ホテルになるまでには、労力、厳しい現実、環境への配慮があったのです。
 
 洞爺湖温泉、壮瞥市などの町の連携があったことと思います。
 火山の噴火で火山灰で覆われ死の街並みになったこと思います。私が小学校の時、浅間山が爆発して天日干しの瓦に灰がつもり、箒で履いた思い出があります。

 宝永年間、富士山が爆発した時1.8mも小田原は火山灰が積もったのです。ポンペイのベスビオ火山の噴火は火山灰が7mにもおよび市内を埋め尽くしたのです。しぜんの自然の恐ろしさを見せつけられた思いです。

 鹿児島県南の市町村は豪雨の被害で山崩れニュース連日のように流れています。7/4参議院選の告示もされます。17日間の連呼です。

小樽~余市ニッカウイスキー~積丹半島の男旅

2019.07.05 (金)

 男3人、不精旅の話ですみません。
 1970年代の小樽は、今のような活気はなく申し訳ない都市でした。故照さん、塚田君、私の3人の旅です。
 当時は、石狩炭田の積出港とニシン漁の漁港でした。いつ頃から今の様な裕次郎や運河の倉庫群、海鮮丼の居酒屋はなく観光自体行った記憶がありません。

 当時は、私の青春真っ盛りでTVから森進一の「襟裳岬」やピーナツ姉妹の歌声が流れていったけ。こんなノスタルジアも喜寿の爺になったせいですか。

 夜の函館本線を、余市の駅頭に降り立ち木賃宿でまで行き一泊し、夕餉を取り、朝飯を頂く、女将が照さんを見て「家のせがれによく似てるね」とのです。そして「洗濯物があるだろうからニッカの工場でも見てきな。その間に洗っといてやるよ」と言って尻をたたかれニッカの蒸留所を見学に行きました。
 あいにく、その日は日曜日で工場は見学できたのですが、工場内は見学できず帰ってきました。
 連続ドラマで有名になった「マッサン」のドラマの舞台です。マッサン事、竹鶴政孝氏は威の養子に入り京都大学のエリートです。
 今は、蒸留所の全面に糸杉やヒマラヤ杉の巨木が生い茂り、以前のような美しい赤い屋根と石積蒸留所が撮影できないのは残念です。

 宿に帰ると洗濯物は洗って畳んでありました。昼食を済ませて積丹半島に出かけました。
 岩内駅に降り、路線バスで雷電海岸に行って降り、フクロウのような岩やU字型の岩のトンネルを抜け、ろうそくの様な岩を右手に見ながら凄いなの気分でした。
 バスの乗客は5~6人で大丈夫ですかと思い、海岸通りを歩き雲丹の殻が積みあがってるそばまで来ると汐の香りが強烈でした。
 そう言えば、チョット先の寿都町の原野を私は230,000円で1000坪くらい購入したのです。
 光子には、金策で苦労かけたなと思っております。よく私を支えてくれたなと思っております。今の230,000円ではありません。当時の月給は40,000円くらいだと思います。
 こんなことも、若き日の良い思い出です。
 人生いろいろですね。
 

しらざるアイヌの文化。平取(ピラトリ)村訪れて。

2019.07.04 (木)

 故星野君と塚田君と三人で二風谷の平取に行ったのです。場所は襟裳岬から苫小牧の236号線~237号線北上して日高峠に抜ける地点です。
 今は、隣町の二風谷にアイヌ文化博物館があります。
昔、萱野茂参議院議員の出身です。

アイヌは全ての物に命が宿ると「自然崇拝」なのです。北海道の厳しい環境の中で生き抜く力を養ってきたのです。アイヌの伝統的住まいは「チセ」と言って入り口が風よけがあり、開口部は90度にズレているのです。何か、壁に日干しレンガ、牛糞を塗ったヒマラヤの家々を想像しました。
 土間に、いろりを炊き先人たちの知恵を受け継ぎ、輻射熱と対流を利用していたのです。特にアイヌの衣服は特色があり、おヒョウのの皮を晒し、紙縒りをかけて地機で織って独特の文様(刺繡)をつけたものです。
  記憶が薄れましたが、数十年前ですが池袋西武で見たのです。アイヌは縄文時代には関東以北に住み、地名等にアイヌの地名が残っています。水辺の葦の原を「アバ」と言います。これはアイヌ語です。

 アイヌは文字を持たず大和民族と同化されてしまいました。インカ帝国もスペインに200人足らずの狼藉ピサロによって滅亡したのです。
 悲しい歴史は、インデアン、エスキモーと共通してます。

 現在は、北方アイヌのコルボックス( 小人族 蕗の下に住む人) は追われて千島列島に移らざるを得ず、北海道には存在しません。
 アイヌの食卓はひえ、粟、イナキビ(赤米に似た穀物)、豆、じゃ芋、熊、エゾシカ、鮭、シシャモの魚貝類です。自然食品で、固く良く、添加物がなく、咀嚼しないと消化されないのです。
 平均寿命は、私たちより長生きなのです。北方アイヌ人はアムール川の人々と交易があり徳川家康(首飾り)に献上した青い色の玉は大層喜ばれ、松前藩の献上品になったのです。和人が思ってるより、今のロシアととの交易でハイカラでした。

九州で旅友なった佐久間電機の御曹司とあって(南極犬タロウとツーショット写真)

2019.07.04 (木)

 思い出話ですみません。
 私は25歳くらいの時でしょうか。まだサラリーマン時代です。石狩本線が勝狩峠に駅があったころです。最後尾の列車に乗車すると汽車全体が撮影できるということで3人(私。故星野、塚田君)で乗り込み、忘れましたが乗り換えて襟裳岬に行く予定でした。間違えて札幌に行ってしまい、厚かましいと思ったのですが札幌の公衆電話で電話したところ快くOKでした。

 札幌について、ムジナ横丁で初めて食べる札幌ラーメンは美味しかった。逍遙通りを歩き、ここが雪まつりの会場なんだと一人納得してました。
 土産物屋で熊の彫り物を購入し満足していました。彼はアイヌ人ですが木村と言っていました。こんな話をしてくれました。アイヌには春と秋に体毛が抜け替わるそうです。縄文時代に凍った海をロシアから渡ってきた民族です。その中に阿弖流為という蝦夷の長が源義家(八幡太郎)にで敗れ、京の都まで護送され、義家は阿弖流為の勇猛さに感服し、さらし首しないよう嘆願したが、五条河原でさらし首になってしまいました。義家の手植えの桜が鷲宮神社の境内に植えられております。
 佐久間さんは、札幌時計台や北大のポプラ並木に案内してくれました。最後に南極犬タロウを見ていきますか?。こんな機会はないとお願いしました。北海道の植物園の大きな冷蔵庫の完備の中から知り合いにお願いして、出していただき足が太いの子供なら載せて駆けられるのでは思うほどでした。

間宮林蔵はスパイだった?。(利尻・礼文の旅)

2019.07.04 (木)

 北海道は梅雨がないと思って、高山植物がみられる誘惑に負けて、利尻・礼文島の旅に出たのです。
 観光船で降り立つと、外国に行ったような不明な文字が道路識標に表記されてにガイドさんの説明でロシア語と分かったのです。今は、ハバロフスクまでの定期航路があるのです。

 ガイドさんが教えてくれたのですが、利尻島に信号機がないのです。 信号機がいらないのですが学童が都会に出て困るとの教育的配慮で1ヶ所だけ設置してあるのです。

  それだけでなく、私が気い付いたのですが嫌に神社が多いのです。私の想像ですが、故郷を離れて村民の集団が開拓に汗を流し、村民が極寒地で助け合った証が宗教に心安らぐ時を持ったのでしょう。
 
 驚きの連続ですが、利尻島の島民の収入が全国平均を上回るのです。現在は、浜に捨てられていた昆布の屑から、カニの殻まで加工して、コンドロイチンや調味料になっているのです。捨てていた物が渋沢栄一(お金)になるそうです。
 
 礼文島の海の見える崖の上、に小さな小学校のブランコが、雪をかぶって心なしか海風に揺れていた吉永小百合主演の「北のカナリアたち」がブログを書きながら脳裏に浮かんできました。もし、現実だったら冬は道のないような坂道を歩かなければなりません。小学生がです。親としてできますか。

 私の記憶は、70年前だと思いますが皆既日食の礼文島のイメージがあります。覚えているのは天体に興味があったからでしょう。同じ年に利根川の決壊もあったのです。

 間宮林蔵が凍てつく海が氷結した冬、樺太に渡ったのです。彼は幕府のスパイで紙幣がない時代、他国では金の小粒が流通して、懐に入れ持ち歩くときに見つかりそうなので原住民や漁民夷に変装し、ごまかしたのです。その苦労が大変だったそうです。いつ終わるか判らない探検です。大量に持参しなければ飢えるのです。幕府が統治していたのは南の函館、松前藩の所領だけでした。伊能忠敬以前の人物です。
 最後ですが氷雨たたかれた寒い北の旅でした。海鳴りが否応なしに耳につく光子との旅行でした。

 

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