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火鉢を抱いて仮面劇、走るパンダ(成都)

2017.11.13 (月)

チベット旅を終え、明日は日本です。今、成都のホテルに戻ってきました。最後のお別れパーティーの豪華な薬膳料理の晩餐会(?)です。F女子の提案で仮面劇を見ることになりました。
とっても素晴らしそうです。ガイドさんにチケットをお願いして、全員で出かけることになりました。
成都の空は、澄み切って、星が煌めいております。天の川が、東西に大河のごとく悠々流れ、私たちの子供の頃の星空でした。
懐かしく見入り、他の旅人も同じ思いで見ていたことでしょう。
 真っ暗な劇場について、チケットを渡し、中に入って驚きました。屋根がないのです。中国の独特の音楽が流れ、人影が少なく、最前列の椅子に一団になって座りました。成都は日本の長野市の高度と同じ600mくらいの高さです。冬の1月初旬の気温を考えてください。屋根がないことは、外気温と同じなのです。
 まして、高度があり、北緯40度の秋田県の位置に相当し、寒く、まして中国大陸の三国志の都です。です。劇場の従業員が火鉢を運んできたのです。3人に1個の割合です。手と顔が温まる程度です。私たちは、高校生ぐらいまで暖房器具といえば、火鉢とコタツの時代でした。今では、すっかり慣れてしまった、エアコンとフアンヒーターです。それでも、屋根があって囲まれた部屋です。想像してください。
客がぞろぞろ入ってきました。少しは、体温の温もりで増しになってきたのです。
 待つこと40分位、独特のドラと音楽で、少しざわめき始めました。やっと開演です。口上が流れ、開幕です。大股で飛びながらの入場です。いろいろな演目で、楊貴妃と三国志が演じられたのです。
T女子の言葉道理、目を見張るものでした。写真をカシャカシャとシャッター音を鳴らしながらやっているうちに寒さも忘れ、見入ってしまいました。
 演目を披露しながらの衣装と顔の変化の速さに驚きの連続で、もちちろん、説明はあるのです。言葉は理解できませんが、動作でわかります。まして、日本におなじみの楊貴妃と玄宗皇帝です。それと、三国志です。劉備玄徳、魏の曹操、諸葛孔明、関羽、張飛の演目です。
成都では必然的の演目でしょう。世界的に知れわったてることです。 
 最後は、総出演のヒナーレです。万雷の拍手中で終了でした。皆、寒い火鉢の暖房に耐えてのでしたが、名残惜しいそうでした。満足感に浸りながら、夜道をホテルに戻ったのです。朝の食事を済ませ、フライトは午後の時間です。誰ともなしに、どこか手軽に観光できるところを思案しておりました。
 パンダでも見に行くか。と誰かがいいだし、「成都熊猫(パンダ)繁殖基地へ行くことにしました。
バスに乗っていったのです。チケットを購入して入場しました。電気自動車が2台来たのです。各々が乗り込み、園内を回ったのです。パンダが駆けているではないですか。日本のパンダは、動かずにいるのは気候が成都に比較して、熱いので夏バテて状態に何時もさらされているからなのです。
成都のパンダは、50頭ぐらい飼育され、木に登ったり、駆けずり回ったりしているのです。とっても元気で細い木に登り、木が折れそうにしなっても平気で2~3頭がじゃれあっているのです。中には〇〇して繁殖に熱中なパンダ見られるのです。
 園内を一回りして、帰る時、誰かがホッカイロを取り出し差し上げた所「きょとん」として、すぐにニッコとして「謝・謝」いったので、腰に手を当て「ペッタ」と貼るしぐをしたら「うんうん」とうなずいて喜んだのです。当時は中国ではホッカイロが普及がしていなかったので分からないみたいでした。今回のチベットの旅は、1度もお土産店によらなっかたのでお土産店に行くことに決まり、成都の飛行場に向かったのです。心に残る秘境チベットの旅でした。

教訓.旅の出会いは、ビジネスの人脈創りに活用しましょう。

まさかのトヨタ車の脱輪。危機一髪の恐怖

2017.11.13 (月)

 私たち一行の車はカローラ峠(5045m)ニンジンカンサ峰、サラマサの鋭鋒、ジェシェナラカブ(6000m)氷河のカルション(7191m)チョモカムリなどのチベットの天空の峰々を回り、また、鶴が上昇気流にのって、ヒマラヤ越えの飛翔に感動を覚えながら車窓を眺めていました。
 チベット高原の乾燥しきった大地に砂塵を上げ疾走、日本では考えることのできない景色やラマ僧の修行の、五体投地、ロバに素焼きの壺を積んでどこかの市場に売りに行くのか、遠い寺院のある市場か、数日懸けて行く姿、また、一人の老人が何処の村だかしれませんが買い物をロバに載せていく姿は、2005年のシルクローの旅でさえも、姿を消してしまった光景がどこかしこに見られたのです。
 何処だか忘れましたが、真新しい木製の鍬が(今から500年以上前まで日本でも使用)青空トイレの際に、ゾンビのヤクの近くに転がっているの見て、驚くやら、感心するやらそんな連続の秘境チベットの旅です。
 シガッツエだったか記憶が定かでないのですが、ホテルに向かう途中、思わぬ事故が起きたのです。私たちの車が、先頭を走行し後続の車が見えなくなったのです。清流の景観の良い、石畳のある広いところで待つこと40分ぐらいだったと思います。いくら待っても後続車の姿が見えません。
 今と違って、携帯電話(国際)が有りません。連絡が取れず、戻ることにしました。私たちが利用した乗用車は、日本製のトヨタ「カローラ」です。3台ともトヨタの車です。日本車、しかもトヨタです。戻ってみると左側が高低差が3mくらいの清流の淀、右側が20mに及ぶ崖のところで脱輪の惨事は起きたのです。
 タイヤがコロコロと10m以上転がり、川には落ちなくて良かったのです。500mほど行くでと幅が4mくらいに狭くなるところだったのです。すぐ目の前に無人のような小さな部落がありました。
 そこから、一人の男が出てきて、手まねで煙草を呉れという仕草をしたのです。誰も煙草を持ち合わせていなかったので「ノースモーク」といったら、何所となくスタスタと歩いて消えていったのです。
 この秘境チベットでは歩く以外に移動の手段がないのです。現在の位置から一番近い街まで車で2時間もかかるそうです。
 3人の運転手が整備士に変身、曲がったシャフトを真っすぐにと汗をかきながら奮戦、修理に3時間かかりましたが、宿泊地「シガッツエ」に何とかたどり着くことができました。良く話を聞いてみると、もしものために整備工を兼ねた運転手を雇ったそうす。中国には、車検はあるのですが賄賂の金額で永久に未整備のまま乗り続けることができるそうです。しかし、外国は何処に行っても自己責任です。日本人は、どうしても自分の責任を転嫁する癖があるのです。
 考えると恐ろしいやらでした。もしかしたら、日本のメデアがこの事実を報道していたらと思うと秘境の怖さを味わったのです。ラサまで西へ280kmです。トイレ休憩の合間に、ローターリーに莚を引いて、お店を出しているオジサンをからかいながらヤクの首につける鈴を買い求めました。日本円で10円から20円くらいの金額でした。2コ買い求め、妻は近くの商店街で孫たちにきれいな民族衣装を買ったのです。
 でも、秘境の旅はそれにもまして素晴らしいのです。あなたも旅人になってスリルと爽快感を味わってください。旅人になってください。習近平国家主席の政策でビルの狭間になってしまいます。中国の民族浄化政策で、大量の漢民族がチベット・新疆自治区に流れ込んでいるのです。無人のホテルが観光客目当てに建っているのです。

教訓:秘境なんて国家の政策であっという間に大都市に何時変貌するかわかりません。高層ビル群がが建設され故郷が消滅して、街起こしの時代です。

カルチャーショック。5体投地

2017.11.11 (土)

 私と妻は、中国が観光立国の第1歩として、チベットの観光の許可直後、山岳旅行主体の観光会社の「ラサ&秘境の旅」に2000年1月[中国のスイス]と触れ込みのツアーに参加したのです。
当時は,チベット各地で暴動が発生、ダライ・ラマ14世がヒマラヤ越えしてインドに亡命したのです。、当然ことですが、清蔵鉄道が開通に向けて工事が急ピッチで進められておりました。胡錦濤国家主席が僧侶などへの弾圧を強め、焼身自殺者が出ておりました。
 私たちは、成田から成都に向い、乗り継ぎ、ラサに向かいました。成都からの乗客はほんの少しで、「四姑娘山・ミニア・コンカ」が見え始めると空席の窓べに、右左に勝手に移動し始めカメラに収め始めたのです。眼下に見る真っ白い峰峰が南北に4~500KMも續き壮観です。
またミャンマーまで続く横断山脈が見え始めるとると「パチリ・パチリ」シャッター音が聞こえてきました。数時間後チベットの首都「ラサ」空港に降り立ちました。
まず、添乗員から、チベットは2500m以上の高地で高山病になります。行動はゆっくり行動して下さいとお教えられました。
ダライ・マラのポタラ宮殿に向かい、途中摩崖仏や凍った湖などを見ながら到着しました。
市街は真新しく、街も整然と立ち並んでおります。しかし、人影は見当たらないのです。
ポタラ宮殿の広場にも、お上りさんと見える若い家族がチベット特有の民族衣装を着け疎らにいるだけです。それも何組か観光に来庁し
はじめてみるチベット人に、カメラを向けてOKどうかの素振りをすると笑顔でOK合図でした。お子さんは、日本の仮面ライダーの格好を作りモデル気分でした。どこの国の子供も円谷アニメに恰好をつけたのです。私はでパチリとシャッター押しました。
北京などと違い「物売り」もなく、素敵な写真を納めました。人気のないラサでした。世界遺産のポタラ宮殿の撮影ポイントは、小高い丘(10mくらいの上です。)の上にガイドと行き、妻にもこの景観を見せたい一心で手を差し伸べ、登らせたまでは良かったのです。
 それからが大変、妻は3日間高山病で苦しみ、頭は痛く食事もできない状態になってしまったのです。妻は、ヤムドク湖、セチラ峠、ナルチャバル、パソン湖、サラマサなどの工程までに引きずったのです。
その中でもサラマサの鋭鋒などは驚きの連続です。チッベト高原は空気が薄く、湖水の水は何処までも美しく澄んでいました。
 井戸がないのでしょう。おばさんたちがポリタンクに湖水の水をいっぱいに汲み上げ、坂道をを上がってくるのです。大変な重労働です。また、他の場所でも小学生ぐらいの子供が、大きなヤカンに冷たい川の水を氷を割りくみ上げるのです。日本の子供では到底できない力です。
 私たちはチベット平原を疾走し、中国の自熱発電所に向かう途中の事です。2人の若者と家族の父親と思われる3人組が、大地にひれ伏しながらお経をあげ「尺取り虫」のように進むのを車窓から見たのです。初めて見る光景です。停車させてもらい、ガイドの巴波さんの言葉を劉さん(劉備玄徳の末裔、北京精華大学卒)が通訳していただくと五体投地の修行とのことでした。話しを詳しく聞くと、彼らは、不服下ながら「ぽつり・ぽつり」話し出たのです。まず、故郷からここまで五体投地の修行を積み写真を撮られたことによって功徳が半減したと立腹していたのです。
我々はそんなこと露知らず撮影していたのです。観光会社のFさんが財布からそれに見合うお金を支払い教えを請うたです。
話しによれば、1000K先の故郷から「五体投地」しながらシガツエの寺院までいくそうです。その寺院で約1週間ぐらいお祈りを捧げるそうです。奥さんが、必要な荷物を先に自転車でリヤカーを引いて行っているのです。
 この修行ができる人は、村でも少数派で我々家族はしわせ者なのです。現世は厳しくとも来世で極楽浄土に行けるのが楽しみです。
村人たちが住んでいる場所によっては、2000K以上も五体投地の修行するのだそうです。
私たちは、驚くやら日本人として、生を受けた事に感謝せずにいられなくなりました。今、チベットは、胡錦濤国家主席の迫害で、心も経済も苦しいのです。そんな言葉を残して、彼らはシガツエの寺院に向かって黙々と五体投地を続けながら去ってくのを見送りました。
私たちも次の観光地「自熱発電所」やニンチェンタングラ山脈(6000m級)に向かったのです。

青蔵鉄道開通前夜と黄河・揚子江の源流を行く

2017.11.09 (木)

  チベットの旅行を中国政府か解禁して間もないころです。まだ青蔵鉄道が建設途中で、日本人が、チベットの事情を知るには川口慧海(慶応2年~昭和20年僧侶)の著した「チベット旅行紀行」くらいでした。まだまだ未知のことが多いチベットです。
 私たちは、揚子江、黄河の源流に向かい、そこのはタルチョー(祈祷旗)と呼ばれる5色の三角の旗がバサバサと風にあおられ、ミラ峠に向かって竜の鳴くような声を上げておりました。
これが揚子江や黄河の源流と劉さんの説明でした。そのほかにもインドの大河、ガンジス川、インダス川、プラマプトラ川があります。カンボチア、ベトナム流域のメコン川そうです。
小さな黒い牛みたいな動物10匹以上動いてるのが見へ、聞くとヤクだそうですす。日本の動物園では見ることが出来ないのです。
それは、ヤクにとって平地は空気圧が高すぎて肺が破裂するのです。
我々普通の人にとっては、チベットは日本の平地の60%の空気しかないので、高地の順応に2日くらいの時間が係るのです。このヤクも、今は白黒のゾンビヤクが存在するのです。ヤクは頭よく、夕方になると親分格のヤクが動き出すと首にかけた鈴がチリンチリンとなり一緒に動き出し、牧舎に帰っていくそうです。
チベットは多数の国の灌漑、飲料水、発電に寄与しているのですが、最近の中国の温暖化で、氷河が融解する速さが増し、下流の村落の水被害が多発しているのです。もちろん鉄砲水の速さで濁流化して村ごと流しまうのです。また、そこに自生している貴重な植物の種や絶滅危惧種の動物の命が危ぶまれているのです。人間が自然を破壊し、調和の取れたサイクルがくるってきているのです。
青蔵鉄道がまだ開通してないので、ポタラ宮殿は、ダライラマ14世の不在のただの宮殿ですが世界遺産なっておりました。
 歩いているのは、お上りさんと見受けられる赤葛色のチャイナ服の上に、腰にはトルコ石のようなベルトの飾りをつけ、頭にはライトブルーの頭飾りの服装でした。
男の人は、ダライラマの茶褐色のマントのような上着に、片肌を抜いて前側にインドの僧侶ような恰好でした。きっとこれがチベット人にとって最高の衣服に感じられました。
チベットは、昼は20度くらいの気温でも、夜になるとマイナス10度以下になるのです。寒暖の差が激しいのです。それでも民族衣装は片肌を出す衣類なのでしょう。
もちろん、チベット仏教の本拠地「大昭寺」はすごい人だかりで、何日も五体投地を繰り返し勤行するのです。いろいろな店もあって、日本の浅草寺のようでした。私は黄金(塗り物)の仏像を購入しました。若い僧侶やにこやかなおばあさんの姿、たくさんのチベット人が、あるいはインド人・ネパール人ような人も入り混じっておりました。青果の露天商の青年達はイラン人とか申しておりました。大昭寺の境内、目抜き通りは人種のるつぼを感じさせたのです。

教訓:世界はどこに行っても人種の坩堝、単一民族は日本の国、日本の常識は世界から見れば異常なのです。

ストーンヘッジの巨石の謎と素敵な村コックウオルズ

2017.11.08 (水)

エジプトのピラミッドと同年代にイギリスの巨石文明ストーンヘッジは建設さたです。メキシコにもピラミットはあります。また日本も仁徳天皇のなどの巨大な古墳があります。
日本の地方にはそれよりは幾分小さな豪族の古墳が多数あります。

 どの巨石文明もなにかしらの謎を秘めております。今回エジプトのピラミッドの内部を明らかにしようと特殊な飛行ロボットにて解明する試みが計画されております。このストーンヘッジも謎だらけです。
太陽崇拝の祭祀場か暦としての天文台説、農作物の季節を占う神聖な場所、ケルト族の祈りの場所等の仮説が立てられましたが、どれも適切な説明がつきません。それは、ブルースストーンと呼ばれる、石英・長石のを含む鉱石が火山活動によって火山灰と流紋岩、当然に銅、ピライト、カルシュウムからなる粘板岩なのです。

 私は、粘板岩は水成岩と思っておりましたが、長い何万年という時間の中で火成岩が粘板岩になることを初めてり知りました。
このブルーストーンは、病気の治癒能力を持っていると言われております。そうすると、今の治療機関の様な権力者の設備だった事の仮説も立てられのです。
 このストーンヘッジに使用されて、いる巨石は、現在地より400Kmも離れた、西ウエールズのプレセリ山地のみに産出する奇石なのです。私が観光したブルーストーンの見学場所に修羅という橇状の現物が展示されておりました。
 しかし400KMもの距離をコロを敷き(丸太)詰めても、運搬不可能と思っております。
 1個の巨石が40トンもあり、その数も30個以上に及ぶのです。今の地形と違い、きっと6000年も前は地形的は湿地帯が多く大河もあったと思います。
現在の利根川のように関宿から掘割を建設し、流れを銚子の太平洋に流れを変えたのと同様に湿地帯に掘割を建設したのではないかと思われます。同様に水運で有ればいかだを汲んで運搬が可能です。
 それは、今の皇居に潮見坂といわれる場所があります。太田道灌は築城当時、釣り糸を垂れて江戸湾で釣りを楽しんだとか?。
 その後、徳川家康の時代に江戸湾に堤防を作って、干拓したのです。その結果、新田によってコメの増産を計ったそうです。現在の江戸800家町ができたのです。
干拓によって、260万石の農地の確保ができ、幕府の石高が増し食料確保が得られたと考えられます。
この仮説は、いかがですか。私はこの仮説の方が現実的かと思います。
また、このストーンヘッジの周りには幾つもの古墳が存在しておりました。現在の地形と同じで考えるとつじつまが合いませんが、6000年の時間を考慮しなければ説明がつきません。
万葉集の時代、熊谷市の隣の行田市には「小崎ヶ沼」という川の津(港)があり、武蔵の国から防人が筑紫の国へ赴いたのです。

埼玉(さきたま)の 津に居(を)る船の 風をいたみ綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね

また、映画「のぼうの城」は400年前の忍城は別名「忍の浮城」と呼ばれ、湿地帯に孤立した堅固の城だったのです。
また、埼玉の地名も前玉だったと言われております。この神社格式が高く、古事記・日本書紀などが編纂された時代に遡り「式内式」神宮として、埼玉古墳群に向かって建立されております。

 コックウールズは、古いイングランドの田舎町で貴族たちが荘園を守っていた時代の石造りの美しい村です。小川にはブラックスワンや白鳥がヒナと泳いでおり、小路に沿って花の生け垣に囲まれ、壁には蔦や苔が生え、窓べに花が垂れて下がり、窓越しに中国の兵馬俑の置物があったり、気の利いた品々が置かれて観光客の目を楽しませてくれます。
 色々な個性豊かな庭と石造りの家、そして石畳、素晴らしいガーデングッツが置かれ、何気ない気品の高さを醸し出しておりました。女性にとっては、夢心地のお伽の村に舞い込んだ錯覚に浸れることでしょう。
 私と妻で、散策してある工房が目に入ってきました。何か異国でのお気に入りの物でもと思ったのです。
もちろん、素敵なものが沢山ありました。ご主人に話しかけ「工房を見せてください」とお願いしたのですが断われたのです。
私は、持ち前の気楽さで懇願するとしぶしぶ見せてくれました。工人は奥さんとのことでした。釉掛けのツボ、登り窯、乾燥中の作品などが所狭しと並んでおりました。工人のお気に入りの釉薬は、マンガン釉のフリット(ガラス成分)使用しない無光沢の作品でした。
 私も、女性が胡坐をかいたヌードをケガイた平たい花瓶の作品を買い求めました。お店に日本で出版された作品集もあったのです。
別れ際に、みんなで思い出のショットと思いお願いいたしました。ご主人が笑った顔とても素敵でした。
 妻は子供たちにお土産を骨董屋で買い求め次の村に行きました。
中央広場の噴水と小川が流れ、犬と戯れたり、赤ちゃんを囲んで家族で春(6月)を楽しんでる微笑ましい姿が何組もありました。
 とても楽しい、イギリスの新緑とさわやかな1日を心から楽しんみました。

プラザビルからデフレの波が今の君たちをアリ地獄へ

2017.11.08 (水)

 ニューヨークのセントラルパークから見えるプラザビルで、ロン・康の会談が始まったのです。
 当時の蔵相竹下登氏が1$190円でも良いと発言から、日本は円高が始まり、国会議員の中には「良いデフレ」と喜ぶ議員もいたほどでです。このプラザビルは、近くに高級マンションが立ち並び、安田財閥の直系オノ・ヨーコとビートルズのジョンレノンが愛を交したマンションもあります。ジョンレノンはこのセントラルパークの散歩道で銃弾に倒れたのです。

 プラザビルは、リムジンがいつも何台か駐車してる高級ホテルです。このホテルで、中曽根康弘首相とカーボーイを演じていた元映画俳優で大統領になったドナルド・レーガンが会談が行われたのです。
 当時のアメリカは今と同じ経済情勢で貿易赤字と財政赤字の2重苦に苦しんでいたのです。
 レーガン大統領は1981年~1989年の大統領で、現在はアジアににらみを利かす空母にも命名されております。
 当時のは「日本は日出る国」のごとく、ジャパン№1を謳歌し、海外旅行熱が盛んで、農協、工務店など東南アジアに団体で出かけ、札びらを切ったのです。
 そして、ハワイの目抜き通リを買いあさったのです。ところがそんなこと長続きはせず、ソニーも音楽配信などを残し売却してアメリカ市場から撤退したのです。

 このデフレが、就職氷河期を迎え、多くの学生が苦しみ、また、早期退職者が排出されたのです。私の友人の森君は、人事担当でデフレの2~3ぐらい前までは、新卒の募集で苦労して、今度は、早期退職の肩たたきで苦労したそうです。
 日本経済も疲弊し、早期退職者や60歳で退職した頭脳がアジアで厚遇されて、グローバル化の前に大企業も頭脳流失の負け戦を強いられたのです。中小企業は、規制緩和の法規制の前に後継者がいなくなり、存亡の危機に立たされたんです。
 長年立ってみると日本の大企業が耐えて、今の繁栄をつくるきっかけになったのです。また、100円ショップも円高の恩恵を受けて雨後の筍のように出てきました。
 円高に絶えられない企業は、倒産の憂き目に合い潰れたのです。同様に、自殺者が30,000人の時代が20年以上も続いたのです。
 ロン・康のプラザ合意が、日本の経済界に与えた影響は計り知れなかったのです。私たち建築業界は勿論こと、経営学で言う「蓮の葉の理論」を地で行くようなハウスメーカーの下で細々と事業をつなぐ羽目になったのです。「強者の理論」の前にひれ伏したのです。
 私たち職人の後継者が、皆がサラーマン化した時に日本の家が廃屋化してしまうのです。こんなこと考えたこと有りますか。
 私たちが子供の頃、男子出生に杉の木を植え、女子出生の時、桐の木を植えよ。家は3代持たせれば、長者に成れると聞かされていました。今はローンがあって少子高齢化社会です。
 到底人不足など考えられなかった時代の潮流です。

真夏のタイムズスケアは男の垂涎

2017.11.04 (土)

 アメリカといえばニューヨーク、世界の人々の憧れであり,経済の中心であり、人種のるつぼです。
 ニューヨークは、世界の人々の心を魅了する都市なのです。摩天楼あり、自由の女神、ブルックリン橋、カウントダウンのロックフェラーセンタービル有り、世界のミュジカルの発信地有り、ジャズ有り、黒人霊歌有り、また、世界一の夜景があるのです。
 経済界においては、ウオール街、ユダヤ人が支配する金・ダイヤモンド市場が存在し、また、政治の中心「国連」もあるのです。
 それだけではありません。タイムズスケアやブロードウエイがあって歓楽街も世界一を誇っています。
 日本の除夜の鐘の代わりに、カウントダウンがこのタイムズスケアの巨大映像を交えて実行されるのです。
 このカウントダウンの最中に、トイレに行こうものなら元の位置に帰ることは不可能言われるぐらいすごい賑わいです。
 メリケンボーイ&ガールは、近くにいる男女とキスをするなんて当たり前です。
 こんな陽気な国は何処にありますか。チョット話は違いますが、ニューヨークに向かう通勤バスは何百台と列をなしての通勤地獄です。
 また、タクシーも朝6:00から疾走しています。タクシーのカーアシェアリングもシエアしたタクシーが6分以内に到着。もう地獄のようなスピード感でニューヨークが動いています。
 前回は1月の冬でした。ニューヨークの寒さは特別です。また、ツインテールビルにテロの飛行機が突っ込んだ翌年でした。グランドゼロは見るも無残でした。

 しかし、あれから8年ぐらいたっています。夏のタイムズスケアは、お祭り騒ぎです。コーラ・ビールやソフトクリームを片手に大はしゃぎです。
 日本の神田の神輿の祭りの様そうです。歩行者天国と阿波踊りとねぶたのらっせー.らっせ―をごっちゃにしたようで、観光客はキャー・キャー騒いでおります。もうハチャメチャです。
 普段の日でも、タイムズ・スケアにスタイリストの女子大学生が、ボデイペンテイングにTバック・タンガ履いておっぱい丸出しの姿で闊歩、撮影料を取って、小使いにしているのです。オジサンたちが鼻の下を長くして『にやにや』してます。
 望遠レンズで撮影してばっちりです。そのうち日本にも小遣い欲しさに銀座の歩行者天国に現れるのも時間の問題です。
今は、グローバルの時代ですから。
 そういえば日本でも、カーニバルのお祭りで踊っていったけ。
前回のニューヨークはミュジカルを観賞、今回は「バードランド」という店でジャズバンドを楽しみました。タイムズスケアの横道でおおらかな5人娘が笑っていました。
 振り向くと、1.2.3で放り投げる格好をして大笑い、絵になる格好でしたので「once more plezu」もう一回とお願いするとヤンキー娘は喜んでお同じしぐさをして「はい、パチリ」素敵な夜を楽しみました。
 この界隈は日本食のお店もあってグーですよ。

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