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記事一覧

カルチャーショック。5体投地

2017.11.11 (土)

私と妻は、中国が観光立国の第1歩として、チベットの観光の許可直後、山岳旅行主体の観光会社の「ラサ&秘境の旅」に2000年1月[中国のスイス]と触れ込みのツアーに参加したのです。
当時は,チベット各地で暴動が発生、ダライ・ラマ14世がヒマラヤ越えしてインドに亡命したのです。、当然ことですが、清蔵鉄道が開通に向けて工事が急ピッチで進められておりました。
胡錦濤国家主席が僧侶などへの弾圧を強め、焼身自殺者が出ておりました。
私たちは、成田から成都に向い、乗り継ぎラサに向かいました。成都からの乗客はほんの少しで、「四姑娘山・ミニア・コンカ」が見え始めると空席の窓べに、右左に勝手に移動し始めカメラに収め始めたのです。
まして、真っ白い山また山の横断山脈が見え始めるとると「パチリ・パチリ」シャッター音が聞こえてきました。
それから、数時間後、チベットの首都「ラサ」に降り立ちました。
まず、添乗員から、チベットは2500m以上の高地で高山病になります。行動はゆっくり行動して下さいとお教えられました。
ダライ・マラのポタラ宮殿に向かい、途中摩崖仏や凍った湖などを見ながら到着しました。
市街は真新しく、街も整然と立ち並んでおります。しかし、人影は見当たらないのです。
ポタラ宮殿の広場にも、お上りさんと見える若い家族がチベット特有の民族衣装を着け疎らにいるだけです。それも何組か歩いているだけでした。
はじめてみるチベット人に、カメラを向けてOKどうかの素振りをすると笑顔でOK合図でした。お子さんは、日本の仮面ライダーの格好でパチリとシャッター押しました。
北京などと違い「物売り」もなく、素敵な写真を納めました。人気のないラサでした。世界遺産のポタラ宮殿の撮影ポイントは、小高い丘(10mくらいの上です。)の上にガイドと行き、妻にもこの景観を見せたい一心で手を差し伸べ、登らせたまでは良かったのです。
それからが大変、妻は3日間高山病で苦しみ、頭は痛く食事もできない状態になってしまったのです。
それからの工程は、ヤムドク湖セチラ峠、ナルチャバル、パソン湖、サラマサなどに引きずったのです。
そのような中でもサラマサの鋭鋒などは驚きの連続です。チッベト高原は空気が薄く、湖水の水は何処までも美しく澄んでいました。
井戸がないのでしょう。おばさんたちがポリタンクに湖水の水をいっぱいに汲み上げ、坂道をを上がってくるのです。大変な重労働労働です。また、他の場所でも小学生ぐらいの子供が、大きなヤカンに冷たい川の水を氷を割りくみ上げるのです。日本の子供では到底できない力です。
私たちはチベット平原を疾走し、中国の自熱発電所に向かう途中の事です。2人の若者と家族の父親と思われる3人組が、大地にひれ伏しながらお経をあげ「尺取り虫」のように進むのを車窓から見たのです。
初めて見る光景です。停車させてもらい、ガイドの巴波さんの言葉を劉さん(劉備玄徳の末裔、北京精華大学卒)が通訳していただくと五体投地の修行とのことでした。話しを詳しく聞くと、彼らは、不服そうに話し出たのです。まず、故郷からここまで五体投地の修行を積み写真を撮られたことによって功徳が半減したと立腹していたのです。
我々はそんなこと露知らず撮影していたのです。観光会社のFさんが財布からそれに見合うお金を支払い教えを請うたです。
話しによれば、1000K先の故郷から「五体投地」しながらシガツエの寺院までいくそうです。その寺院で約1週間ぐらいお祈りを捧げるそうです。奥さんが、必要な荷物を先に自転車でリヤカーを引いて行っているのです。
この修行ができることは、村でも少数派で我々家族はしわせ者なのです。現世は厳しくとも来世で極楽浄土に行けるのが楽しみです。
村人たちが住んでいる場所によっては、2000K以上も五体投地の修行するのだそうです。
私たちは、驚くやら日本人として、生を受けた事に感謝せずにいられなくなりました。今、チベットは、胡錦濤国家主席の迫害で、心も経済も苦しいのです。そんな言葉を残して、彼らはシガツエの寺院に向かって黙々と五体投地を続けながら去ってくのを見送りました。
私たちも次の観光地「自熱発電所」やニンチェンタングラ山脈(6000m級)に向かったのです。

青蔵鉄道開通前夜と黄河・揚子江の源流を行く

2017.11.09 (木)

チベットの旅行を中国政府か解禁して間もないころです。まだ青蔵鉄道が建設途中でした。日本人が、チベットの事情を知るには川口慧海(慶応2年~昭和20年僧侶)の著した「チベット旅行紀行」くらいでした。
まだまだ未知のことが多いチベットでした。
私たちは、揚子江、黄河の源流に向かいました。そこのはタルチョー(祈祷旗)と呼ばれる5色の三角の旗がバサバサと風にあおられ、ミラ峠に向かって竜の鳴くような声を上げておりました。
これが揚子江や黄河の源流と劉さんの説明でした。そのほかにもインドの大河、ガンジス川、インダス川、プラマプトラ川があります。カンボチア、ベトナム流域のメコン川そうです。
小さな黒い牛みたいな動物10匹以上動いてるのが見えました。ヤクだそうですす。日本の動物園では見ることが出来ないのです。
それは、ヤクにとって平地は空気圧が高すぎて肺が破裂するのです。我々普通の人にとっては、チベットは日本の平地の60%の空気しかないので、高地の順応に2日くらいの時間が係るのです。
このヤクも、今は白黒のゾンビヤクが存在するのです。ヤクは頭よく、夕方になると親分格のヤクが動き出すと首にかけた鈴がチリンチリンとなり一緒に動き出し、牧舎に帰っていくそうです。
チベットは多数の国の灌漑、飲料水、発電に寄与しているのですが、最近の中国の温暖化で、氷河が融解する速さが増し、下流の村落の水被害が多発しているのです。もちろん鉄砲水の速さで濁流化して村ごと流しまうのです。
また、そこに自生している貴重な植物の種や絶滅危惧種の動物まで命が危ぶまれているのです。
さらに、逆の現象がダム建設によって、下流の村の水源が枯渇しているのです。人間が自然を破壊し、調和の取れたサイクルがくるってきているのです。
青蔵鉄道がまだ開通してないので、ポタラ宮殿は、ダライラマ14世の不在のただの宮殿ですが世界遺産なっておりました。観光客も疎らにしかいないので中国特有の贋物の物売りもおりません。
歩いているのは、お上りさんと見受けられる赤葛色のチャイナ服の上に、黒のチベットの片肌を脱いだダウンのような衣服に手織りの前掛け、腰にはトルコ石のようなベルトの飾りをつけ、頭には、中央に大きな飾りのついたライトブルーの頭飾りの服装でした。
男の人は、ダライラマの茶褐色のマントのような上着に、片肌を抜いて前側にインドの僧侶ような恰好でした。きっとこれがチベット人にとって最高の衣服に感じられました。
チベットは、昼は20度くらいの気温でも、夜になるとマイナス10度以下になるのです。寒暖の差が激しいのです。それでも民族衣装は片肌を出す衣類なのでしょう。
もちろん、チベット仏教の本拠地「大昭寺」はすごい人だかりで、何日か五体投地を繰り返し勤行するのです。いろいろな店もあって、日本の浅草寺のようでした。私は黄金(塗り物)の仏像を購入しました。
もちろん、若い僧侶やにこやかなおばあさんの姿、たくさんのチベット人が、あるいはインド人のような、また、ネパール人ような人も入り混じっておりました。青果の露天商の青年達はイラン人とか申しておりました。大昭寺の境内、目抜き通りは人種のるつぼを感じさせたのです。

ストーンヘッジの巨石の謎と素敵な村コックウオルズ

2017.11.08 (水)

エジプトのピラミッドと同年代にイギリスの巨石文明ストーンヘッジは建設さたです。
メキシコにもピラミットはあります。また日本も仁徳天皇のなどの巨大な古墳があります。
日本の地方にはそれよりは幾分小さな古墳が多数あります。
どの巨石文明もなにかしらの謎を秘めております。今回エジプトのピラミッドの内部を明らかにしようと特殊な飛行ロボットにて解明する試みが計画されております。このストーンヘッジも謎だらけです。
太陽崇拝の祭祀場か暦としての天文台説、農作物の季節を占う神聖な場所、ケルト族の祈りの場所等の仮説が立てられましたが、それでも適切な説明がつきません。
それは、ブルースストーンと呼ばれる、石英・長石のを含む鉱石が火山活動によって火山灰と流紋岩、当然に銅、ピライト、カルシュウムからなる粘板岩なのです。
私は、粘板岩は水成岩と思っておりましたが、長い何万年という時間の中で火成岩が粘板岩になることを初めてり知りました。
このブルーストーンは、病気の治癒能力を持っていると言われております。そうすると、今の治療機関の様な権力者の設備だった事の仮説も立てられのです。
このストーンヘッジに使用されて、いる巨石は、現在地より400Kmも離れた、西ウエールズのプレセリ山地のみに産出する奇石なのです。
私が観光したブルーストーンの見学場所に修羅という橇状の現物が展示されておりました。
しかし400KMもの距離をコロ敷き(丸太)詰めても、運搬不可能と思っております。
1個の巨石が40トンもあり、その数も30個以上に及ぶのです。今の地形と違い、きっと6000年も前は地形的にも湿地帯が多く大河もあったと思います。
現在の利根川のように関宿から掘割をし、流れを銚子の太平洋に流れを変えたのと同様に湿地帯に掘割を建設したのではないかと思われます。
同様に水運で有ればいかだを汲んで運搬が可能です。
それは、今の皇居に潮見坂といわれる場所があります。太田道灌は築城当時、釣り糸を垂れて江戸湾で釣りを楽しんだとか?。
その後、徳川家康の時代に江戸湾に堤防を作って、干拓したのです。その結果、新田によってコメの増産を計ったそうです。現在の江戸800家町ができたのです。
干拓によって、260万石の農地の確保ができ、幕府の石高が増し食料確保が得られたと考えられます。
この仮説は、いかがですか。私はこの仮説の方が現実的かと思います。
また、このストーンヘッジの周りには幾つもの古墳が存在しておりました。現在の地形と同じで考えるとつじつまが合いませんが、6000年の時間を考慮しなければ説明がつきません。
万葉集の時代、熊谷市の隣の行田市には「小崎ヶ沼」という川の津(港)があり、武蔵の国から防人が筑紫の国へ赴いたのです。

埼玉(さきたま)の 津に居(を)る船の 風をいたみ綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね

また、映画「のぼうの城」は400年前の忍城は別名「忍の浮城」と呼ばれ、湿地帯に孤立した堅固の城だったのです。
また、埼玉の地名も前玉だったと言われております。この神社格式が高く、古事記・日本書紀などが編纂された時代に遡り「式内式」神宮として、埼玉古墳群に向かって建立されております。

コックウールズは、古いイングランドの田舎町で貴族たちが荘園を守っていた時代の石造りの美しい村です。
小川にはブラックスワンや白鳥がヒナと泳いでおり、小路に沿って花の生け垣に囲まれ、壁には蔦や苔が生え、窓べに花が垂れて下がり、窓越しに中国の兵馬俑の置物があったり、気の利いたこ品々が置かれて観光客の目を楽しませてくれます。
色々な個性豊かな庭と石造りの家、そして石畳、素晴らしいガーデングッツが置かれ、何気ない気品の高さを醸し出しておりました。
女性にとっては、夢心地のお伽の村に舞い込んだ錯覚に浸れることでしょう。
私と妻で、散策してある工房が目に入ってきました。何か異国でのお気に入りの物でもと思ったのです。
もちろん、素敵なものが沢山ありました。ご主人に話しかけ「工房を見せてください」とお願いしたのですが断われたのです。
私は、持ち前の気楽さで懇願するとしぶしぶ見せてくれました。工人は奥さんとのことでした。釉掛けのツボ、登り窯、乾燥中の作品などが所狭しと並んでおりました。工人のお気に入りの釉薬は、マンガン釉のフリット(ガラス成分)使用しない無光沢の作品でした。
私も、女性が胡坐をかいたヌードをケガイた平たい花瓶の作品を買い求めました。お店に日本で出版された作品集もあったのです。
別れ際に、みんなで思い出のショットと思いお願いいたしました。ご主人が笑った顔とても素敵でした。
妻は子供たちにお土産を骨董屋で買い求め次の村に行きました。
中央広場の噴水と小川が流れ、犬と戯れたり、赤ちゃんを囲んで家族で春(6月)を楽しんでる微笑ましい姿が何組もありました。
とても楽しい、イギリスの新緑とさわやかな1日を心から楽しんみました。

プラザビルからデフレの波が今の君たちをアリ地獄へ

2017.11.08 (水)

ニューヨークのセントラルパークから見えるプラザビルで、ロン・康の会談が始まったのです。
当時の蔵相竹下登氏が1$190円でも良いと発言から、日本は円高が始まり、国会議員の中には「良いデフレ」と喜ぶ議員もいたほどでです。
このプラザビルは、近くに高級マンションが立ち並び、安田財閥の直系オノ・ヨーコとビートルズのジョンレノンが愛を交したマンションもあります。
ジョンレノンはこのセントラルパークの散歩道で銃弾に倒れたのです。
プラザビルは、リムジンがいつも何台か駐車してる高級ホテルです。このホテルで、中曽根康弘首相とカーボーイを演じていた元映画俳優で大統領になったドナルド・レーガンが会談が行われたのです。
当時のアメリカは今と同じ経済情勢で貿易赤字と財政赤字の2重苦に苦しんでいたのです。
レーガン大統領は1981年から1989年の大統領で、現在はアジアににらみを利かす空母にも命名されております。
当時のは「日本は日出る国」のごとく、ジャパン№1を謳歌し、海外旅行熱が盛んで、農協、工務店など東南アジアに団体で出かけ、札びらを切ったのです。
そして、ハワイの目抜き通リを買いあさったのです。ところがそんなこと長続きはせず、ソニーも音楽配信などを残し売却してアメリカ市場から撤退したのです。
このデフレが、就職氷河期を迎え、多くの学生が苦しみ、また、早期退職者が排出されたのです。
私の友人の森君は、人事担当でデフレの2~3ぐらい前までは、新卒の募集で苦労して、今度は、早期退職の肩たたきで苦労したそうです。
日本経済も疲弊し、早期退職者や60歳で退職した頭脳がアジアで厚遇されて、グローバル化の前に大企業も負け戦を強いられたのです。
中小企業は、規制緩和の法規制の前に後継者がいなくなり、存亡の危機に立たされたんです。
長年立ってみると日本の大企業が耐えて、今の繁栄をつくるきっかけになったのです。
また、100円ショップも円高の恩恵を受けて雨後の筍のように出てきました。
絶えられない企業は、倒産の憂き目に合い潰れたのです。同様に、自殺者が30,000人の時代が20年も続いたのです。
ロン・康のプラザ合意が、日本の経済界に与えた影響は計り知れなかったのです。
私たち建築業界は勿論こと、経営学で言う「蓮の葉の理論」を地で行くようなハウスメーカーの下で細々と事業をつなぐ羽目になったのです。「強者の理論」の前にひれ伏したのです。
私たち職人の後継者が、皆がサラーマン化した時に日本の家は廃屋化してしまうのです。こんなこと考えたこと有りますか。
私たちが子供の頃、男子出生に杉木を植え、女子出生の時、桐の木を植えよ。家は3代持たせ長者に成れると聞かされていました。今はローンがあって少子高齢化社会です。
到底人不足など考えられなかった時代の潮流です。

真夏のタイムズスケアは男の垂涎

2017.11.04 (土)

アメリカといえばニューヨーク、世界の人々の憧れであり経済の中心であり人種のるつぼです。
ニューヨークは、世界の人々の心を魅了する都市なのです。摩天楼あり、自由の女神、ブルックリン橋、カウントダウンのロックフェラーセンタービル有り、世界のミュジカルの発信地有り、ジャズ有り、黒人霊歌有り、また、世界一の夜景があるのです。
経済界においては、ウオール街、ユダヤ人が支配する金・ダイヤモンド市場が存在し、また、政治の中心「国連」もあるのです。
それだけではありません。タイムズスケアやブロードウエイがあって歓楽街も世界一を誇っています。
日本の除夜の鐘の代わりに、カウントダウンがこのタイムズスケアの巨大映像を交えて実行されるのです。
このカウントダウンの最中に、トイレに行こうものなら元の位置に帰ることは不可能言われるぐらいすごいのです。
メリケンボーイ&ガールは、近くにいる男女とキスをするなんて当たり前です。
こんな陽気な国は何処にありますか。チョット話は違いますが、ニューヨークに向かう通勤バスは何百台と列をなしての通勤地獄です。
また、タクシーも朝6:00から疾走しています。タクシーのカーアシェアリングもシエアしたタクシーが6分以内に到着。もう地獄のようなスピード感でニューヨークが動いています。
前回は1月の冬でした。ニューヨークの寒さは特別です。また、ツインテールビルにテロの飛行機が突っ込んだ翌年でした。グランドゼロは見るも無残でした。
しかし、あれから8年ぐらいたっています。夏のタイムズスケアは、お祭り騒ぎです。コーラ・ビールやソフトクリームを片手に大はしゃぎです。
日本の神田の神輿の祭りの様そうです。歩行者天国と阿波踊りとねぶたのらっせー.らっせ―をごっちゃにしたようで、観光客はキャー・キャー騒いでおります。もうハチャメチャです。
普段の日でも、タイムズ・スケアにスタイリストの女子大学生が、ボデイペンテイングにTバック・タンガ履いておっぱい丸出しの姿で闊歩、撮影料を取って、小使いにしているのです。オジサンたちが鼻の下を長くして『にやにや』してます。
望遠で撮影してばっちりです。そのうち日本にも小遣い欲しさに銀座の歩行者天国に現れるのも時間の問題です。
今は、グローバルの時代ですから。
そういえば日本でも、カーニバルのお祭りで踊っていったけ。
前回のニューヨークはミュジカルを今回は「バードランド」という店でジャズバンドを楽しみました。タイムズスケアの横道でおおらかな5人娘が笑っていました。
振り向くと、1.2.3で放り投げる格好をして大笑い、絵になる格好でしたので「once more plezu」もう一回とお願いするとヤンキー娘は喜んでお同じしぐさをして「はい、パチリ」素敵な夜を楽しみました。この界隈は日本食のお店もあってグーですよ。

モニュメント好きな日本人と歴史建造物を好む欧米人

2017.11.03 (金)

日本の天皇家は、皇統一系にして世界のキング(王)の中でも、皇帝として世界一の家系です。しかし日本人は、天皇家を軽んずる傾向があります。
アメリカのオバマ大統領が、平成天皇に頭を下げたということで物議をしたとか、TVのニュースで見たのです。
また、6月のポルトガルの首都リスボンに行ったときのことです。街路樹のジャガランダが紫の花を付け日本の桜のように咲き誇っておりました。
今日の集合場所は、ジャガランダ咲くのホテルの近くのエドゥアド7世のライオンの銅像の見えるバス専用の集合場所でした。
ミューのガイドさんと一緒に乗り合わせ、かって世界の海を縦横無尽に活躍した、バスコダガマがインドから胡椒をもたらし、冷蔵庫のなかった時代、肉の腐食や肉独特の匂いを消すために莫大な富をもたらしたのです。
まず、最初に観光したのが、その昔コロンブスが、アメリカ大陸の一部と思い西インド諸島を発見した23年後、バスコダガマがアフリカ大陸の喜望峰周りのインド航路を発見したのです。
これを記念して、マヌエル1世がリスボンのベレン地区に要塞を兼ねた監視塔を立てたのです。非常に緻密に作られた白亜の城です。
ジェロニモス修道院と共に世界遺産に指定されております。
また、ここは大きな公園になっているのです。ここにはリンドバークが3日3晩かけて不眠不休で大西洋の横断飛行に成功した双発機(実物)が海に向かって設置されています。
ここの観光はポルトガル政府認定のガイドさんが英語・フランス語・ドイツ語、ポルトガル語、スペイン語と一人で5ケ国語の観光客に、通訳説明しているのです。
しかし、日本語はありません。それで、この案内をミユーのガイドさんが訳して説明してくれるのです。
ところが、どうしても欧米人の方が圧倒的に多いのです。私たちのガイドさんの説明では、欧米人は歴史的建造物には興味があるです。私たちが説明を受けったかった、海の勇者たちの7mにも及ぶ巨大な像は素通りするのです。海の勇者たちの像は日本のガイドブックに、大きく掲載され誰もが知っているモニュメントだからです。
このモニュメントは、没後500年エンリケ王子を記念して、帆船の舳先にエンリケ王子、そして、バスコダガマ、そのほか海の勇者たちが15人~16人が等身大で立体的に刻まれております。また、反対側には、当時の海を渡った宣教師、あるいはポルトガルの詩人、歌人、哲学者などが刻み込まれているのです。日本人にとっては、非常にわかりやすいのですが仕方ありませんでした。
また、公園内の地面にタイルで世界地図が描かれ、5大陸・各島々にポルトガル人が到達した年号が描かれていたのです。
日本には1541年種子島に鉄砲が伝来した年号が刻まれておりました。その後、難波の堺に彼らの1人が入港したのです。当然ですがそのころの日本はアイヌ人の(北海道)はありませんでした。
そのタイル画も、簡単に端折ら、次は1車両の粋なチンチン電車の走る大通りを超え、世界遺産のバスコダガマの眠るシェロニモス修道院の観光です。ここは欧米人の興味ある歴史的建造物で、ゴシック建築の粋を集めた壮麗な建物です。
この建物は、マニエル1世の偉業をたたえた建物で、マニエル様式となずけられております。
余談ですが、私はこの公園で国際携帯電話を紛失したのです。でも、誰が拾ったか知りませんがこの公園を観光中に私の手元に戻て来たのです。本当によかったです。
もう一つ付け加えるとポルトガルは郵便局の事をポストオフイスでは通じなのです。CTTまたはCORREB(コレイオ)といえば通じます。日本に小包を送ろうと思って探すのに苦労しました。行って見るとコーヒーショップを兼ねたパン屋さんでした。当時これも驚きでした。
やはり、民間経営で運営しているので知恵を出し合って採算をとっているのでしょう。
日本も郵政民営化で小泉内閣が 英断を図ったのです。

ローデンブルグ城のコウノトリ

2017.11.02 (木)

ローデンブルグ城は、ドイツのロマンチック街道の観光客の憧れノイシュバンシュタイン城と同じ街道筋にあります。
このローデンブルグ城の城壁に立ち、城門をくぐるとおとぎの世界に迷い込むのです。
このローデンブルグ城を守るため、命を懸けた人たちが沢山いたからこそできたのです。その一人が「市長の酒飲みなのです」
この戦いは、神聖ローも帝国の皇帝軍が、ドイツ国内を最も疲弊させた戦争で1618年(日本では日光東照宮が建立)勃発した戦です。新教徒側のローデングブルグは、あわや滅亡の危機にあった時、敵の将軍が市の参議たちに3リットル大ジョッキに、この土地のワインを差し出し、このジョッキを飲み干すものあらば、このローデンブルグを助けても良いと宣言し、参議たちが頭を抱え、老市長ヌッシュがそのワインを受け取り、一気の飲み干しローデングブルグ城は救われたのです。
そんな実話をもとにマイスタートウルンクの歴史劇が今でも行われるのです。
この城郭都市は、1k㎡と広くはないですが、6か所の門がすべからく違い42の監視塔が守っているのです。城門には、敵を食い止める落し格子などもあって時代を感じるさせるのです。
建物は木組みの筋交いなどがデザインされ、写真を撮影する者にとって、格好の被写体が沢山あるのです。
こんなおとぎの国に、エジンバラ城の兵隊さんが歩哨、隊を組んで歩いていたら、震えの来るすごさでしょう。
急傾斜の屋根、反りの入った屋根、風見鳥のもうけられた屋根、特に見ごたえがあるのが、市庁舎のマルクト広場、また、市議宴会館の仕掛け時計もお勧めです。
日本人の現地ガイドさんにランチタイムのなったので「日本食はないでしょうね」と聞いたところ有るのです。ちょっと小路に入ったとこで分かりにくいですが、マスターも、シェフも日本人なのです。妻はうどんを頼み、私はカキフライを食べたのですが絶品です。
また、拷問のギロチンや水責めの仕掛けもあって、一見する価値があります。ギロチンに二人で首を突っ込み、ユーモラスな写真を撮影したのです。
話は変わりますがコウノトリの話しです。6月末から7月上旬に観光を行かれる方は、ローデングブルグ城の民家の屋根上を見上げてください。大きな小枝の巣は散見されます。このローデンブルグの周りには田園風景が広がっており、湿地帯もあるのでしょう。
コウノトリの親鳥が、ひなに餌を運ぶ光景が見られます。また、空を見上げるとコウノトリが悠々と飛翔する姿もご覧になれます。
驚いたことに、現地ガイドさんが12年もローデンブルグ城をを案内していてご存じなかったことです。紺屋の白袴なのです。私は屋根の携わるものとして、屋根に興味があるものですから、いつも見上げているので足元の事は解らないのです。灯台下暗しなのです。
その街に根ずく歴史のすごさ、また、そこでで暮らす人々が他人に分からない努力の積み重ねがあるからこそ世界遺産になったのです。
飛騨高山の同業者に聞いた話ですが、自宅と高山の屋台に火が出ると町衆の旦那は、高山の屋台に駆け付け、自宅が焼け落ちても屋台を守り抜くことが男の甲斐性なのです。そんな話を聞いて驚いた一人です。
世界遺産に選ばれること自体すごい努力の結晶なのですね。

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