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東條英機・ヒットラーそしてスターリン

2017.11.16 (木)

 地球1周の旅で見聞した東條英機そしてヒットラー・スターリンのポツダム会談の舞台裏の話です
 この3人ほどいろいろな情報が交錯し真実が見えてきません。私は、ポツダム、モスクワ、サンペテロスブルグ、ベルリン、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ミュヘン、パリ、ロンドン、ウイーン「ゼーグロッテ」の地底湖を旅してみて、私は昭和天皇、東條英機がいかに戦争回避に努力したか知ったのです。
 日本の官僚の悪弊は責任を誰かに擦り付ける印象があり、その策にはまったのです。東條英機の東京会談での大東亜共栄圏の構想は、インドのチャンドラポーズをはじめ、アジアの植民地の首脳が戦争のさなかに植民地解放を願って参集したのです。
 東條は、近衛内閣の総辞職と天皇の依願受け組閣を引き受けざるを得なかったのです。私は社会の授業でドイツがヨーロッパの列強国から第一時世界大戦の賠償額が天文学数字で学校の学費さえも、ボストンバックに一杯に詰めこまなければ払えない状況を歴史で学んだのです。
 イタリアは、植民地がなく世界恐慌のインフレに経済が破綻していたのです。日本も満蒙を属国にしなければならないくらい経済が破綻寸前でした。石原莞爾、板垣征四郎が1個師団で1月足らずで満洲国を併合したのです。2人の構想は、日ソ不可侵条約の下で黒竜江の国境を越ず、日本の併合国朝鮮から満洲を侵攻したのです。しかし、日本陸軍は、タブーを破って超えてしまったのです。
 その為、スターリンは昭和20念8月8日、ポツダム宣言を受諾した日本に野村大使通じ宣戦布告したのです。その前の事ですが、ヒットラー率いるドイツ軍が破竹の勢いでモスクワに侵攻したのです。
 日本陸軍は、有頂天になってドイツ軍はシベリアの黒龍江省まで攻め入ると誤認したのです。ところがスターリンは、モスクワ市に火を放ち3日3晩で街のすべてを焼き尽くしたのです。
 ドイツ軍が厳冬中で食糧補給を絶たれ、凍死するもの相次ぎナポレオンの二の舞をしたのです。戦意、戦力をなくたドイツ軍は、おそらくナポレオン軍と同じく10分の1の戦力になりベルリンに敗退したのです。
 日本軍は、そのことを知らず国境の黒竜江を超えてしまったのです。
この事実は、宣戦布告なしにソ連を侵害し戦争の緒を作ってしまったのです。
 また、スターリンはレーニンを追い落とし独裁体制を引き、戦時中の食糧不足、また、反スターリン派を殺し100万人以上といわれる人命を奪ったのです。
 ヒットラーもまた何百万人といわれるユダヤ人、ホローコーストをアウシュヴィッツやビルケナウの殺人工場で毒ガスによる殺害したのです。
 話は変わりますが、日本軍は南京事件の南京城の解放の時、中国人を1人も殺害してないのです。
しかし、中国の捏造記事は30万人以上中国人を虐殺したと中国国民と世界のメディア騒ぎ立てているのです。
 それどころか、日本軍は南京市民に対し食料を分け与えたのです。これは、昭和天皇の御心と東條英機そして松井大将「皆同胞」の寛容と慈悲の現れだったのです。南京の市民は、数日のうちに20万市民が25万人膨れ上がのです。この南京大虐殺は、外国の従軍記者の間にさへも虐殺の記録がないのです。
 杉原千畝氏は、ユダヤ人を満洲に安住地を与えたわけです。そこには天皇、東條英機もビサ発給に協力していたのです。
 ところが陸軍が暴走し、黒竜江を越境をしてしまい、東條・杉原・松井大将の努力を水泡に期したのです。ヨーロッパ戦線で、ヒットラーが第2次世界大戦の発端を作ったのです。
ドイツは古くからユダヤ人・ホローコーストを国家レベルで、異常なほど罪のない人々まで迫害したのです。
 東條はいま語られている人物像でなく、近衛内閣、天皇の推挙があって内閣を組閣したのです。東條は、最後まで戦争回避に尽力したのです。しかし、米国大統領ルーズベルトがハル・ノートといわれる日本国の飲めない条件を出したのです。しかも日米開戦を一番望んだのはイギリスのチャチールです。
 答えは、当時のロンドンは、ドイツ・メッサーシュミットの空爆に陥落寸前であったのです。しかし、アメリカはモンロー主義を貫き、他国に対し干渉せず、干渉されずの思想でした。ウオール街に始まった世界恐慌はニュデリー政策で解消に向かっていたのです。ヨーロッパ各国も植民地支配のよってどうにか切り抜けていたのです。
 ところがドイツは天文数字の賠償金で、国民はインフレに喘いでいたのです。日本はハル・ノートを突き付けられて、石油・ゴムの禁輸政策によって生存権さえも奪われかねない状況下でした。
 まして、日本の暗号は解読され、尾崎・ゾルゲの国際スパイ事件によって真珠湾攻撃までソ連を通じて、米国大統領に報告されていたのです。
 また戦勝国はポツダム会談でソ連は北海道の分割(釧路、留萌の北側)望んでいたのです。
 アメリカのルーズベルトはこれを拒否しアメリカ1国の占領下に日本を置たのです。
 ミュヘンは、ヒットラーの若かりし頃、画家を志したか場所で軍事参謀本部があったところです。今、観光客や市民に時を知らせるからくり人形があります。ベルリンも第2次世界大戦のベルリンの壁などの遺跡がたくさんあります。
 パリは、ヒットラーによってすぐ陥落したためフランスは戦勝国から外されたのです。私たちが行ったゼーグロッテの地底湖は、戦況悪化した時にメッサーシュミットの秘密工場として利用されたのです。
 余談ですが、イタリアのムッソリーニは同盟国のヒットラーを信用してなっかたのです。ヒットラーまた、日露戦争で勝利した日本人を黄禍(黄色い猿)として馬鹿にしていたのです。
 あの有名な極東軍事裁判は、皇太子の誕生日に東条英機7人の絞首刑が確定し昭和天皇の誕生日に4月29日(現みどりの日)に絞首刑が執行されたのです。
 しかも、交際法上は全員無罪ですが、アメリカによって見せしめの極東軍事裁判だったのです。

火鉢を抱いて仮面劇、走るパンダ(成都)

2017.11.13 (月)

チベット旅を終え、明日は日本です。今、成都のホテルに戻ってきました。最後のお別れパーティーの豪華な薬膳料理の晩餐会(?)です。F女子の提案で仮面劇を見ることになりました。
とっても素晴らしそうです。ガイドさんにチケットをお願いして、全員で出かけることになりました。
成都の空は、澄み切って、星が煌めいております。天の川が、東西に大河のごとく悠々流れ、私たちの子供の頃の星空でした。
懐かしく見入り、他の旅人も同じ思いで見ていたことでしょう。
 真っ暗な劇場について、チケットを渡し、中に入って驚きました。屋根がないのです。中国の独特の音楽が流れ、人影が少なく、最前列の椅子に一団になって座りました。成都は日本の長野市の高度と同じ600mくらいの高さです。冬の1月初旬の気温を考えてください。屋根がないことは、外気温と同じなのです。
 まして、高度があり、北緯40度の秋田県の位置に相当し、寒く、まして中国大陸の三国志の都です。です。劇場の従業員が火鉢を運んできたのです。3人に1個の割合です。手と顔が温まる程度です。私たちは、高校生ぐらいまで暖房器具といえば、火鉢とコタツの時代でした。今では、すっかり慣れてしまった、エアコンとフアンヒーターです。それでも、屋根があって囲まれた部屋です。想像してください。
客がぞろぞろ入ってきました。少しは、体温の温もりで増しになってきたのです。
 待つこと40分位、独特のドラと音楽で、少しざわめき始めました。やっと開演です。口上が流れ、開幕です。大股で飛びながらの入場です。いろいろな演目で、楊貴妃と三国志が演じられたのです。
T女子の言葉道理、目を見張るものでした。写真をカシャカシャとシャッター音を鳴らしながらやっているうちに寒さも忘れ、見入ってしまいました。
 演目を披露しながらの衣装と顔の変化の速さに驚きの連続で、もちちろん、説明はあるのです。言葉は理解できませんが、動作でわかります。まして、日本におなじみの楊貴妃と玄宗皇帝です。それと、三国志です。劉備玄徳、魏の曹操、諸葛孔明、関羽、張飛の演目です。
成都では必然的の演目でしょう。世界的に知れわったてることです。 
 最後は、総出演のヒナーレです。万雷の拍手中で終了でした。皆、寒い火鉢の暖房に耐えてのでしたが、名残惜しいそうでした。満足感に浸りながら、夜道をホテルに戻ったのです。朝の食事を済ませ、フライトは午後の時間です。誰ともなしに、どこか手軽に観光できるところを思案しておりました。
 パンダでも見に行くか。と誰かがいいだし、「成都熊猫(パンダ)繁殖基地へ行くことにしました。
バスに乗っていったのです。チケットを購入して入場しました。電気自動車が2台来たのです。各々が乗り込み、園内を回ったのです。パンダが駆けているではないですか。日本のパンダは、動かずにいるのは気候が成都に比較して、熱いので夏バテて状態に何時もさらされているからなのです。
成都のパンダは、50頭ぐらい飼育され、木に登ったり、駆けずり回ったりしているのです。とっても元気で細い木に登り、木が折れそうにしなっても平気で2~3頭がじゃれあっているのです。中には〇〇して繁殖に熱中なパンダ見られるのです。
 園内を一回りして、帰る時、誰かがホッカイロを取り出し差し上げた所「きょとん」として、すぐにニッコとして「謝・謝」いったので、腰に手を当て「ペッタ」と貼るしぐをしたら「うんうん」とうなずいて喜んだのです。当時は中国ではホッカイロが普及がしていなかったので分からないみたいでした。今回のチベットの旅は、1度もお土産店によらなっかたのでお土産店に行くことに決まり、成都の飛行場に向かったのです。心に残る秘境チベットの旅でした。

教訓.旅の出会いは、ビジネスの人脈創りに活用しましょう。

まさかのトヨタ車の脱輪。危機一髪の恐怖

2017.11.13 (月)

 私たち一行の車はカローラ峠(5045m)ニンジンカンサ峰、サラマサの鋭鋒、ジェシェナラカブ(6000m)氷河のカルション(7191m)チョモカムリなどのチベットの天空の峰々を回り、また、鶴が上昇気流にのって、ヒマラヤ越えの飛翔に感動を覚えながら車窓を眺めていました。
 チベット高原の乾燥しきった大地に砂塵を上げ疾走、日本では考えることのできない景色やラマ僧の修行の、五体投地、ロバに素焼きの壺を積んでどこかの市場に売りに行くのか、遠い寺院のある市場か、数日懸けて行く姿、また、一人の老人が何処の村だかしれませんが買い物をロバに載せていく姿は、2005年のシルクローの旅でさえも、姿を消してしまった光景がどこかしこに見られたのです。
 何処だか忘れましたが、真新しい木製の鍬が(今から500年以上前まで日本でも使用)青空トイレの際に、ゾンビのヤクの近くに転がっているの見て、驚くやら、感心するやらそんな連続の秘境チベットの旅です。
 シガッツエだったか記憶が定かでないのですが、ホテルに向かう途中、思わぬ事故が起きたのです。私たちの車が、先頭を走行し後続の車が見えなくなったのです。清流の景観の良い、石畳のある広いところで待つこと40分ぐらいだったと思います。いくら待っても後続車の姿が見えません。
 今と違って、携帯電話(国際)が有りません。連絡が取れず、戻ることにしました。私たちが利用した乗用車は、日本製のトヨタ「カローラ」です。3台ともトヨタの車です。日本車、しかもトヨタです。戻ってみると左側が高低差が3mくらいの清流の淀、右側が20mに及ぶ崖のところで脱輪の惨事は起きたのです。
 タイヤがコロコロと10m以上転がり、川には落ちなくて良かったのです。500mほど行くでと幅が4mくらいに狭くなるところだったのです。すぐ目の前に無人のような小さな部落がありました。
 そこから、一人の男が出てきて、手まねで煙草を呉れという仕草をしたのです。誰も煙草を持ち合わせていなかったので「ノースモーク」といったら、何所となくスタスタと歩いて消えていったのです。
 この秘境チベットでは歩く以外に移動の手段がないのです。現在の位置から一番近い街まで車で2時間もかかるそうです。
 3人の運転手が整備士に変身、曲がったシャフトを真っすぐにと汗をかきながら奮戦、修理に3時間かかりましたが、宿泊地「シガッツエ」に何とかたどり着くことができました。良く話を聞いてみると、もしものために整備工を兼ねた運転手を雇ったそうす。中国には、車検はあるのですが賄賂の金額で永久に未整備のまま乗り続けることができるそうです。しかし、外国は何処に行っても自己責任です。日本人は、どうしても自分の責任を転嫁する癖があるのです。
 考えると恐ろしいやらでした。もしかしたら、日本のメデアがこの事実を報道していたらと思うと秘境の怖さを味わったのです。ラサまで西へ280kmです。トイレ休憩の合間に、ローターリーに莚を引いて、お店を出しているオジサンをからかいながらヤクの首につける鈴を買い求めました。日本円で10円から20円くらいの金額でした。2コ買い求め、妻は近くの商店街で孫たちにきれいな民族衣装を買ったのです。
 でも、秘境の旅はそれにもまして素晴らしいのです。あなたも旅人になってスリルと爽快感を味わってください。旅人になってください。習近平国家主席の政策でビルの狭間になってしまいます。中国の民族浄化政策で、大量の漢民族がチベット・新疆自治区に流れ込んでいるのです。無人のホテルが観光客目当てに建っているのです。

教訓:秘境なんて国家の政策であっという間に大都市に何時変貌するかわかりません。高層ビル群がが建設され故郷が消滅して、街起こしの時代です。

カルチャーショック。5体投地

2017.11.11 (土)

 私と妻は、中国が観光立国の第1歩として、チベットの観光の許可直後、山岳旅行主体の観光会社の「ラサ&秘境の旅」に2000年1月[中国のスイス]と触れ込みのツアーに参加したのです。
当時は,チベット各地で暴動が発生、ダライ・ラマ14世がヒマラヤ越えしてインドに亡命したのです。、当然ことですが、清蔵鉄道が開通に向けて工事が急ピッチで進められておりました。胡錦濤国家主席が僧侶などへの弾圧を強め、焼身自殺者が出ておりました。
 私たちは、成田から成都に向い、乗り継ぎ、ラサに向かいました。成都からの乗客はほんの少しで、「四姑娘山・ミニア・コンカ」が見え始めると空席の窓べに、右左に勝手に移動し始めカメラに収め始めたのです。眼下に見る真っ白い峰峰が南北に4~500KMも續き壮観です。
またミャンマーまで続く横断山脈が見え始めるとると「パチリ・パチリ」シャッター音が聞こえてきました。数時間後チベットの首都「ラサ」空港に降り立ちました。
まず、添乗員から、チベットは2500m以上の高地で高山病になります。行動はゆっくり行動して下さいとお教えられました。
ダライ・マラのポタラ宮殿に向かい、途中摩崖仏や凍った湖などを見ながら到着しました。
市街は真新しく、街も整然と立ち並んでおります。しかし、人影は見当たらないのです。
ポタラ宮殿の広場にも、お上りさんと見える若い家族がチベット特有の民族衣装を着け疎らにいるだけです。それも何組か観光に来庁し
はじめてみるチベット人に、カメラを向けてOKどうかの素振りをすると笑顔でOK合図でした。お子さんは、日本の仮面ライダーの格好を作りモデル気分でした。どこの国の子供も円谷アニメに恰好をつけたのです。私はでパチリとシャッター押しました。
北京などと違い「物売り」もなく、素敵な写真を納めました。人気のないラサでした。世界遺産のポタラ宮殿の撮影ポイントは、小高い丘(10mくらいの上です。)の上にガイドと行き、妻にもこの景観を見せたい一心で手を差し伸べ、登らせたまでは良かったのです。
 それからが大変、妻は3日間高山病で苦しみ、頭は痛く食事もできない状態になってしまったのです。妻は、ヤムドク湖、セチラ峠、ナルチャバル、パソン湖、サラマサなどの工程までに引きずったのです。
その中でもサラマサの鋭鋒などは驚きの連続です。チッベト高原は空気が薄く、湖水の水は何処までも美しく澄んでいました。
 井戸がないのでしょう。おばさんたちがポリタンクに湖水の水をいっぱいに汲み上げ、坂道をを上がってくるのです。大変な重労働です。また、他の場所でも小学生ぐらいの子供が、大きなヤカンに冷たい川の水を氷を割りくみ上げるのです。日本の子供では到底できない力です。
 私たちはチベット平原を疾走し、中国の自熱発電所に向かう途中の事です。2人の若者と家族の父親と思われる3人組が、大地にひれ伏しながらお経をあげ「尺取り虫」のように進むのを車窓から見たのです。初めて見る光景です。停車させてもらい、ガイドの巴波さんの言葉を劉さん(劉備玄徳の末裔、北京精華大学卒)が通訳していただくと五体投地の修行とのことでした。話しを詳しく聞くと、彼らは、不服下ながら「ぽつり・ぽつり」話し出たのです。まず、故郷からここまで五体投地の修行を積み写真を撮られたことによって功徳が半減したと立腹していたのです。
我々はそんなこと露知らず撮影していたのです。観光会社のFさんが財布からそれに見合うお金を支払い教えを請うたです。
話しによれば、1000K先の故郷から「五体投地」しながらシガツエの寺院までいくそうです。その寺院で約1週間ぐらいお祈りを捧げるそうです。奥さんが、必要な荷物を先に自転車でリヤカーを引いて行っているのです。
 この修行ができる人は、村でも少数派で我々家族はしわせ者なのです。現世は厳しくとも来世で極楽浄土に行けるのが楽しみです。
村人たちが住んでいる場所によっては、2000K以上も五体投地の修行するのだそうです。
私たちは、驚くやら日本人として、生を受けた事に感謝せずにいられなくなりました。今、チベットは、胡錦濤国家主席の迫害で、心も経済も苦しいのです。そんな言葉を残して、彼らはシガツエの寺院に向かって黙々と五体投地を続けながら去ってくのを見送りました。
私たちも次の観光地「自熱発電所」やニンチェンタングラ山脈(6000m級)に向かったのです。

青蔵鉄道開通前夜と黄河・揚子江の源流を行く

2017.11.09 (木)

  チベットの旅行を中国政府か解禁して間もないころです。まだ青蔵鉄道が建設途中で、日本人が、チベットの事情を知るには川口慧海(慶応2年~昭和20年僧侶)の著した「チベット旅行紀行」くらいでした。まだまだ未知のことが多いチベットです。
 私たちは、揚子江、黄河の源流に向かい、そこのはタルチョー(祈祷旗)と呼ばれる5色の三角の旗がバサバサと風にあおられ、ミラ峠に向かって竜の鳴くような声を上げておりました。
これが揚子江や黄河の源流と劉さんの説明でした。そのほかにもインドの大河、ガンジス川、インダス川、プラマプトラ川があります。カンボチア、ベトナム流域のメコン川そうです。
小さな黒い牛みたいな動物10匹以上動いてるのが見へ、聞くとヤクだそうですす。日本の動物園では見ることが出来ないのです。
それは、ヤクにとって平地は空気圧が高すぎて肺が破裂するのです。
我々普通の人にとっては、チベットは日本の平地の60%の空気しかないので、高地の順応に2日くらいの時間が係るのです。このヤクも、今は白黒のゾンビヤクが存在するのです。ヤクは頭よく、夕方になると親分格のヤクが動き出すと首にかけた鈴がチリンチリンとなり一緒に動き出し、牧舎に帰っていくそうです。
チベットは多数の国の灌漑、飲料水、発電に寄与しているのですが、最近の中国の温暖化で、氷河が融解する速さが増し、下流の村落の水被害が多発しているのです。もちろん鉄砲水の速さで濁流化して村ごと流しまうのです。また、そこに自生している貴重な植物の種や絶滅危惧種の動物の命が危ぶまれているのです。人間が自然を破壊し、調和の取れたサイクルがくるってきているのです。
青蔵鉄道がまだ開通してないので、ポタラ宮殿は、ダライラマ14世の不在のただの宮殿ですが世界遺産なっておりました。
 歩いているのは、お上りさんと見受けられる赤葛色のチャイナ服の上に、腰にはトルコ石のようなベルトの飾りをつけ、頭にはライトブルーの頭飾りの服装でした。
男の人は、ダライラマの茶褐色のマントのような上着に、片肌を抜いて前側にインドの僧侶ような恰好でした。きっとこれがチベット人にとって最高の衣服に感じられました。
チベットは、昼は20度くらいの気温でも、夜になるとマイナス10度以下になるのです。寒暖の差が激しいのです。それでも民族衣装は片肌を出す衣類なのでしょう。
もちろん、チベット仏教の本拠地「大昭寺」はすごい人だかりで、何日も五体投地を繰り返し勤行するのです。いろいろな店もあって、日本の浅草寺のようでした。私は黄金(塗り物)の仏像を購入しました。若い僧侶やにこやかなおばあさんの姿、たくさんのチベット人が、あるいはインド人・ネパール人ような人も入り混じっておりました。青果の露天商の青年達はイラン人とか申しておりました。大昭寺の境内、目抜き通りは人種のるつぼを感じさせたのです。

教訓:世界はどこに行っても人種の坩堝、単一民族は日本の国、日本の常識は世界から見れば異常なのです。

ストーンヘッジの巨石の謎と素敵な村コックウオルズ

2017.11.08 (水)

エジプトのピラミッドと同年代にイギリスの巨石文明ストーンヘッジは建設さたです。メキシコにもピラミットはあります。また日本も仁徳天皇のなどの巨大な古墳があります。
日本の地方にはそれよりは幾分小さな豪族の古墳が多数あります。

 どの巨石文明もなにかしらの謎を秘めております。今回エジプトのピラミッドの内部を明らかにしようと特殊な飛行ロボットにて解明する試みが計画されております。このストーンヘッジも謎だらけです。
太陽崇拝の祭祀場か暦としての天文台説、農作物の季節を占う神聖な場所、ケルト族の祈りの場所等の仮説が立てられましたが、どれも適切な説明がつきません。それは、ブルースストーンと呼ばれる、石英・長石のを含む鉱石が火山活動によって火山灰と流紋岩、当然に銅、ピライト、カルシュウムからなる粘板岩なのです。

 私は、粘板岩は水成岩と思っておりましたが、長い何万年という時間の中で火成岩が粘板岩になることを初めてり知りました。
このブルーストーンは、病気の治癒能力を持っていると言われております。そうすると、今の治療機関の様な権力者の設備だった事の仮説も立てられのです。
 このストーンヘッジに使用されて、いる巨石は、現在地より400Kmも離れた、西ウエールズのプレセリ山地のみに産出する奇石なのです。私が観光したブルーストーンの見学場所に修羅という橇状の現物が展示されておりました。
 しかし400KMもの距離をコロを敷き(丸太)詰めても、運搬不可能と思っております。
 1個の巨石が40トンもあり、その数も30個以上に及ぶのです。今の地形と違い、きっと6000年も前は地形的は湿地帯が多く大河もあったと思います。
現在の利根川のように関宿から掘割を建設し、流れを銚子の太平洋に流れを変えたのと同様に湿地帯に掘割を建設したのではないかと思われます。同様に水運で有ればいかだを汲んで運搬が可能です。
 それは、今の皇居に潮見坂といわれる場所があります。太田道灌は築城当時、釣り糸を垂れて江戸湾で釣りを楽しんだとか?。
 その後、徳川家康の時代に江戸湾に堤防を作って、干拓したのです。その結果、新田によってコメの増産を計ったそうです。現在の江戸800家町ができたのです。
干拓によって、260万石の農地の確保ができ、幕府の石高が増し食料確保が得られたと考えられます。
この仮説は、いかがですか。私はこの仮説の方が現実的かと思います。
また、このストーンヘッジの周りには幾つもの古墳が存在しておりました。現在の地形と同じで考えるとつじつまが合いませんが、6000年の時間を考慮しなければ説明がつきません。
万葉集の時代、熊谷市の隣の行田市には「小崎ヶ沼」という川の津(港)があり、武蔵の国から防人が筑紫の国へ赴いたのです。

埼玉(さきたま)の 津に居(を)る船の 風をいたみ綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね

また、映画「のぼうの城」は400年前の忍城は別名「忍の浮城」と呼ばれ、湿地帯に孤立した堅固の城だったのです。
また、埼玉の地名も前玉だったと言われております。この神社格式が高く、古事記・日本書紀などが編纂された時代に遡り「式内式」神宮として、埼玉古墳群に向かって建立されております。

 コックウールズは、古いイングランドの田舎町で貴族たちが荘園を守っていた時代の石造りの美しい村です。小川にはブラックスワンや白鳥がヒナと泳いでおり、小路に沿って花の生け垣に囲まれ、壁には蔦や苔が生え、窓べに花が垂れて下がり、窓越しに中国の兵馬俑の置物があったり、気の利いた品々が置かれて観光客の目を楽しませてくれます。
 色々な個性豊かな庭と石造りの家、そして石畳、素晴らしいガーデングッツが置かれ、何気ない気品の高さを醸し出しておりました。女性にとっては、夢心地のお伽の村に舞い込んだ錯覚に浸れることでしょう。
 私と妻で、散策してある工房が目に入ってきました。何か異国でのお気に入りの物でもと思ったのです。
もちろん、素敵なものが沢山ありました。ご主人に話しかけ「工房を見せてください」とお願いしたのですが断われたのです。
私は、持ち前の気楽さで懇願するとしぶしぶ見せてくれました。工人は奥さんとのことでした。釉掛けのツボ、登り窯、乾燥中の作品などが所狭しと並んでおりました。工人のお気に入りの釉薬は、マンガン釉のフリット(ガラス成分)使用しない無光沢の作品でした。
 私も、女性が胡坐をかいたヌードをケガイた平たい花瓶の作品を買い求めました。お店に日本で出版された作品集もあったのです。
別れ際に、みんなで思い出のショットと思いお願いいたしました。ご主人が笑った顔とても素敵でした。
 妻は子供たちにお土産を骨董屋で買い求め次の村に行きました。
中央広場の噴水と小川が流れ、犬と戯れたり、赤ちゃんを囲んで家族で春(6月)を楽しんでる微笑ましい姿が何組もありました。
 とても楽しい、イギリスの新緑とさわやかな1日を心から楽しんみました。

プラザビルからデフレの波が今の君たちをアリ地獄へ

2017.11.08 (水)

 ニューヨークのセントラルパークから見えるプラザビルで、ロン・康の会談が始まったのです。
 当時の蔵相竹下登氏が1$190円でも良いと発言から、日本は円高が始まり、国会議員の中には「良いデフレ」と喜ぶ議員もいたほどでです。このプラザビルは、近くに高級マンションが立ち並び、安田財閥の直系オノ・ヨーコとビートルズのジョンレノンが愛を交したマンションもあります。ジョンレノンはこのセントラルパークの散歩道で銃弾に倒れたのです。

 プラザビルは、リムジンがいつも何台か駐車してる高級ホテルです。このホテルで、中曽根康弘首相とカーボーイを演じていた元映画俳優で大統領になったドナルド・レーガンが会談が行われたのです。
 当時のアメリカは今と同じ経済情勢で貿易赤字と財政赤字の2重苦に苦しんでいたのです。
 レーガン大統領は1981年~1989年の大統領で、現在はアジアににらみを利かす空母にも命名されております。
 当時のは「日本は日出る国」のごとく、ジャパン№1を謳歌し、海外旅行熱が盛んで、農協、工務店など東南アジアに団体で出かけ、札びらを切ったのです。
 そして、ハワイの目抜き通リを買いあさったのです。ところがそんなこと長続きはせず、ソニーも音楽配信などを残し売却してアメリカ市場から撤退したのです。

 このデフレが、就職氷河期を迎え、多くの学生が苦しみ、また、早期退職者が排出されたのです。私の友人の森君は、人事担当でデフレの2~3ぐらい前までは、新卒の募集で苦労して、今度は、早期退職の肩たたきで苦労したそうです。
 日本経済も疲弊し、早期退職者や60歳で退職した頭脳がアジアで厚遇されて、グローバル化の前に大企業も頭脳流失の負け戦を強いられたのです。中小企業は、規制緩和の法規制の前に後継者がいなくなり、存亡の危機に立たされたんです。
 長年立ってみると日本の大企業が耐えて、今の繁栄をつくるきっかけになったのです。また、100円ショップも円高の恩恵を受けて雨後の筍のように出てきました。
 円高に絶えられない企業は、倒産の憂き目に合い潰れたのです。同様に、自殺者が30,000人の時代が20年以上も続いたのです。
 ロン・康のプラザ合意が、日本の経済界に与えた影響は計り知れなかったのです。私たち建築業界は勿論こと、経営学で言う「蓮の葉の理論」を地で行くようなハウスメーカーの下で細々と事業をつなぐ羽目になったのです。「強者の理論」の前にひれ伏したのです。
 私たち職人の後継者が、皆がサラーマン化した時に日本の家が廃屋化してしまうのです。こんなこと考えたこと有りますか。
 私たちが子供の頃、男子出生に杉の木を植え、女子出生の時、桐の木を植えよ。家は3代持たせれば、長者に成れると聞かされていました。今はローンがあって少子高齢化社会です。
 到底人不足など考えられなかった時代の潮流です。

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