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記事一覧

プラザビルからデフレの波が今の君たちをアリ地獄へ

2017.11.08 (水)

ニューヨークのセントラルパークから見えるプラザビルで、ロン・康の会談が始まったのです。
当時の蔵相竹下登氏が1$190円でも良いと発言から、日本は円高が始まり、国会議員の中には「良いデフレ」と喜ぶ議員もいたほどでです。
このプラザビルは、近くに高級マンションが立ち並び、安田財閥の直系オノ・ヨーコとビートルズのジョンレノンが愛を交したマンションがあります。
ジョンレノンはこのセントラルパークの散歩道で銃弾に倒れたのです。
プラザビルは、リムジンがいつも何台か駐車してる高級ホテルです。このホテルで、中曽根康弘首相とカーボーイを演じていた映画俳優で大統領になったドナルドレーガンが会談をしたのです。
当時のアメリカは今と同じ経済情勢で貿易赤字と財政赤字の2重苦に苦しんでいたのです。
レーガン大統領は1981年から1989年の大統領で、現在はアジアににらみを利かす空母に命名されております。
当時のは「日本は日出る国」のごとく、ジャパン№1を謳歌し、海外旅行の熱が盛んで、農協、工務店など東南アジアに団体で出かけ、札びらを切ったのです。
そして、ハワイの目抜き通リを買いあさったのです。ところがそんなこと長続きはせず、ソニーも音楽配信などを残し売却して、アメリカ市場から.撤退したのです。
このデフレが、就職氷河期を迎え、多くの学生が苦しみ、また、早期退職者が排出されたのです。
私の友人の森君は、人事担当でデフレの2~3ぐらい前までは、新卒の募集で苦労して、今度は、早期退職の肩たたきで苦労したそうです。
日本の経済も疲弊し、早期退職者や60歳で退職した頭脳が厚遇で日本流失し、グローバル化の前に、大企業も負け戦を強いられたのです。
中小企業は、規制緩和の法規制の前に後継者がいなくなり、存亡の危機に立たされたんです。
長年立ってみると日本の大企業が耐えて、今の繁栄をつくるきっかけになったのです。
また、100円ショップも、円高の恩恵を受けて、雨後の筍のように出てきました。
絶えられない企業は、倒産の憂き目に合いつぶれたのです。また、自殺者が30,000の時代が20年も続いたのです。
ロン・康のプラザ合意が、経済界に与えた影響は計り知れなかったのです。
私たち建築業界の「蓮葉の理論」ごとくハウスメーカーの下で細々と事業をつなぐ羽目になったのです。「強者の理論」の前にひれ伏したのです。

真夏のタイムズスケアは男の垂涎

2017.11.04 (土)

アメリカといえばニューヨーク、世界の人々の憧れであり、経済の中心であり、人種のるつぼです。
ニューヨークは、世界の人々の心を魅了する都市なのです。摩天楼あり、自由の女神、ブルックリン橋、カウントダウンのロックフェラーセンタービル有り、世界のミュジカルの発信地有り、ジャズ有り、黒人霊歌有り、また、世界一の夜景があるのです。
経済界においては、ウオール街、ユダヤ人が支配する金・ダイヤモンド市場が存在し、また、政治中心「国連」もあるのです。
それだけではありません。タイムズスケアやブロードウエイがあって、歓楽街も世界一を誇っています。
日本の除夜の鐘の代わりに、カウントダウンがこのタイムズスケアの巨大映像を交えて実行されるのです。
このカウントダウンの最中に、トイレに行こうものなら元の位置に帰ることは、不可能言われるぐらいすごいのです。
メリケンボーイ&ガールは、近くにいる男女とキスをするなんて当たり前です。
こんな陽気な国は何処にありますか。チョット話は違いますが、ニューヨークに向かう通勤バスは、何百台と列をなしての通勤地獄です。
また、タクシーも朝6:00から疾走しています。タクシーのカーアシェアリングは、シエアして6分以内に到着。もう地獄のようなスピード感でニューヨークが動いています。
前回は1月の冬でした。寒いってありませんでした。また、ツインテールに飛行機が突っ込んだ翌年でいたので、グランドゼロは見るも無残でした。
しかし、あれから8年ぐらいたっています。夏のタイムズスケアは、お祭り騒ぎです。コーラ・ビール・ソフトクリームを片手に大はしゃぎです
日本の神田の神輿の祭りの様そうです。歩行者天国と阿波踊りとねぶたのらっせーらっせ―をごっちゃにしたようで、観光客はキャー・キャー騒いでおります。もうハチャメチャです。
普段の日でも、タイムズスケアにスタイリストの女子大学生が、ボデイペンテイングにTバック・タンガ履いておっぱい丸出しの姿で闊歩、撮影料を取って、小使いにしているのです。オジサンたちが鼻の下を長くしてにやにやしてます。
望遠で撮影してばっちりです。そのうち日本にも小遣い欲しさに銀座の歩行者天国に現れるのも時間の問題です。今は、グローバルの時代ですから。そういえば日本でも、カーニバルのお祭りで踊っていったけ。
前回は、ミュジカルを今回は「バードランド」ジャズバンドを楽しみました。タイムズスケアの横道でおおらかな5人娘が笑っていました。
振り向くと、1.2.3で放り投げる格好をして大笑い、絵になる格好でしたのでもう一回とお願いするとヤンキー娘は喜んでお同じしぐさをして「はい、パチリ」素敵な夜を楽しみました。

モニュメント好きな日本人と歴史建造物を好む欧米人

2017.11.03 (金)

日本の天皇は、皇統一系として世界にキング(王)の中でも、皇帝として世界一の家系です。しかし日本人は、天皇家を軽んずる傾向があります。
アメリカのオバマ大統領が、平成天皇に頭を下げたということで物議を咬ましたとか、そんな記事をTVで見たのです。
また、6月のポルトガル、リスボンに行ったときのことです。街路樹のジャガランダが、紫の花を付け咲き誇っておりました。集合場所は、ホテルの近くのエドゥアド7世のライオンを従えた、銅像の見えるバス専用の集合場所でした。
バスに、ガイドさんと一緒に乗り合わせ、かって世界の海を縦横無尽に活躍した、バスコダガマがインドから胡椒をもたらし、冷蔵庫のなかった時代、肉の腐食からまたは、匂いを消すために莫大な富をもたらしたのです。
まず、最初に観光したのが、その昔、コロンブスが西インド諸島を発見した23年後、バスコダガマがインド航路を発見したのです。
それを記念して、マヌエル1世がリスボンのベレン地区に要塞を兼ねた監視塔を立てたのです。非常に緻密に作られた白亜の城です。
ジェロニモス修道院と共に、世界遺産に指定されております。また、ここは大きな公園になっているのです。ここには大西洋を3間不眠不休で横断飛行に成功した双発機(実物)が海に向かって飛び立とうと設置されています。
ここはポルトガル政府認定のガイドさんが英語・フランス語・自国語・ドイツ語、ポルトガル語、ドイツ語、スペイン語と一人で5か国語の観光客に、各国の言語で通訳説明しているのです。
日本語はありません。それで、彼の案内をミユーの私たちのガイドさんが訳して案内してくれるのです。
ところが、どうしても欧米人の方が、圧倒的に多いのです。ミユーの
のガイドさんの説明では、欧米人は歴史的建造物には興味を持つのですが、私たちが説明を受けったかった、海の勇者たちの7mにも及ぶ巨大な像は素通りするのです。海の勇者たちの像は日本のガイドブックに、大きく掲載され誰もが知っている像だからです。
このモニュメントは、エンリケ王子、没後500年を記念して、帆船の舳先にエンリケ王子、そして、バスコダガマ、そのほか海の勇者たちが15人~16人等身大で刻まれております。また、反対側には、当時の海を渡った宣教師、あるいはポルトガルの詩人、歌人、哲学者などが刻み込まれているのです。日本人にとっては、非常にわかりやすいのですが仕方ありませんでした。
また、地面にタイルで世界地図が描かれ、世界の大陸,諸島にポルトガル人が到達した年号がは記入されていたのです。
日本には1541年種子島に鉄砲が伝来した年号でした。その後、難波の堺に入港したのです。当然、そのころの日本は蝦夷(北海道)はありません。
そのタイル画も、簡単に端折って、1車両の粋なチンチン電車の走る大通りを超え、世界遺産のバスコダガマの眠るシェロニモス修道院の観光です。ここは欧米人の興味ある歴史的建造物で、ゴシック建築の粋を集めた壮麗な建物です。
この建物は、マニエル1世の偉業をたたえた建物で、マニエル様式となずけられております。
余談ですが、この公園で国際携帯電話を紛失したのです。でも、誰が拾ったか知りませんが出てきたのです。本当によかったです。
もう一つ付け加えると郵便局の事をポストオフイスでは通じなのです。CTTまたはCORREB(コレイオ)といえば通じます。日本に小包を送ろうと思って苦労しました。行って見るとコーヒーショップを兼ねたパン屋さんでした。これも驚きでした。

ローデンブルグ城のコウノトリ

2017.11.02 (木)

ローデンブルグ城は、ドイツのロマンチック街道の観光客の憧れノイシュバンシュタイン城と同じ街道筋にあります。
このローデンブルグ城の城壁に立ち、城門をくぐるとおとぎの世界に迷い込むのです。
このローデンブルグ城を守るため、命を懸けた人たちが沢山いたからこそ出来たのです。その一人が「市長の酒飲みなのです」
この戦いは、神聖ローも帝国の皇帝軍が、ドイツ国内を最も疲弊させた戦争で1618年(日本では日光東照宮が建立)勃発した戦です。新教徒側のローデングブルグは、あわや滅亡の危機にあった時、敵の将軍が市の参議たちに3リットル大ジョッキに、この地のワインを差し出し、このジョッキを飲み干すものあらば、このローデンブルグを助けても良いと宣言し、参議たちが頭を抱え、老市長ヌッシュがそのワインを受け取り、一気の飲み干しローデングブルグ城は救われたのです。
そんな実話をもとにマイスタートウルンクの歴史劇が今でも行われるのです。
この城郭都市は、1k㎡と広くはないですが、6か所のすべからく変った6か所の門と42の監視塔が守っているのです。城門には、敵を食い止める落し格子などもあって時代を感じるのです。
建物は木組みの筋交いなどがデザインされ、写真を撮影する者にとって、格好の被写体が沢山あるのです。
こんなおとぎの国に、エジンバラの兵隊さんが歩哨、隊を組んで歩いていたら、震えの来るすごさでしょう。
急傾斜の屋根、反りの入った屋根、風見鳥のもうけられた屋根、特に見ごたえがあるのが、市庁舎のマルクト広場、また、市議宴会館の仕掛け時計もお勧めです。
また、現地ガイドさんにランチタイムのなったので「日本食はないでしょうね」と聞いたところ有るのです。ちょっと小路に入ったとこで分かりにくいですが、マスターも、シェフも日本人なのです。妻はうどんを頼み、私はカキフライを食べたのですが絶品です。
また、拷問のギロチンや水責めの仕掛けもあって、一見する価値があります。ギロチンに二人で首を突っ込み、ユーモラスな写真を撮影したのです。
ところで、コウノトリの話しです。6月末から7月上旬に観光を行かれる方は、ローデングブルグの民家の屋根上を見上げてください。大きな小枝の巣は散見されます。このローデンブルグの周りに、田園の風景が広がっており、湿地帯もあるのでしょう。
コウノトリの親鳥が、ひなに餌を運ぶ光景が見られます。また、空を見上げるとコウノトリが悠々と飛翔する姿をご覧になれます。
驚いたことに、現地ガイドさんが12年もローデンブルグを案内していてご存じなかったことです。紺屋の白袴なのです。私は屋根の携わるものとして、屋根に興味があるものですから、いつも見上げているので足元の事は解らないのです。灯台下暗しなのです。
その街に根ずく歴史のすごさ、また、そこでで暮らす人々の他人に分からない努力の積み重ねがあるからこそ世界遺産になるのです。
飛騨高山の同業者に聞いた話ですが、自宅と高山の屋台に火が出ると町衆の旦那は、高山の屋台に駆け付け、自宅が焼け落ちても、屋台を守り抜くことが男の甲斐性なのです。そんな話を聞いて驚いた一人です。

モンサンミシェルは修道院か

2017.11.01 (水)

フランスとイギリスの英仏海峡にあるノルマンディーは第二次世界大戦のナチス・ドイツと米英での地上最大の作戦でした。
同じ英仏海峡のサン・マロ湾に浮かぶ、カトリック巡礼地のひとつ「モンサンミシェル」があるのです。
潮の干満が激しく、干潮の差は15mにも及ぶと言われております。潮が満ちれば、孤島に浮かぶ修道院となるのです。
モンサンミシェルに行くツアーは、途中の古い旧市街や村落を観光しながら到着地のモンサンミェルでその美しさ魅せられるのです。朝夕の陽に姿を変える美しさに見とれ、あこがれる観光地なのです。
このツアーは、女性の憧れで、日本ない歴史の重みを感じるツアーなのです。その根底にあるのが、日本の村落は木の文化であり、先の大戦で焼夷弾によって焼失させられたのです。
村落、街並みの美しさは、蔵の街や地方の角館などの奥州街道、中仙道などの妻籠、馬籠宿や飛騨の高山など欧米でも文学などを通じ、なじみの街並みなのです。
ところがイギリス、フランスその他の国々でも、ごく当たり前に美しい窓べに花の飾られた石造りの古い家々が多いのです。
そんな街のノルマンディーに近い漁村の魚さんで食した牡蠣やエビの生き造りは思い出の一つです。
このモンサンミェルは長い歴史の間に英仏の100年戦争や、火災にあい再建された途中で、諸侯が変わり、幾重にも建築様式がつも重なり、教会建築の図書館のような現在の姿になったのです。
なぜ、このモンサンミェルが巡礼の聖地になったかは理由があるのです。
百年戦争でも、敵艦が砂洲に阻まれ、近づくことができず、当時の艦砲射撃でも砲弾が届かず、その他の歴史過程で無傷に近く存在したからなのです。
その為に、世界の驚異と言われるのです。もちろん上げ潮の時は、怒涛のような急速な波が押し寄せ、小舟をひっくり返すのです。
その為の悲劇もあったのです。巡礼者が盗賊、疫病、などに悩まされながらモンサンミェルにたどり着いても、潮にのまれたり、砂洲に足を取られ帰らぬ人たちが大勢たのです。そのため、モンサンミェルに行くなら遺書を書いて行けといわれるのです。
ところで私はモンサンミェル目の前にして、これは日本の一向宗の本願寺と地形が同じと思ったのです。
信長が、天下武布を唱えて、11年もの間、攻略できず本能寺で明智光秀に攻められ、討ち死にしたことを思うと類似点が多すぎるのです。
当時は水を制したる者が富を得たのです。日本では瀬戸内海から九州の覇権を毛利と村上水軍が握り、東南アジアと貿易を得て、力を蓄えていたのです。こちら英仏はドバー海峡を挟んで地中海貿易、または北欧の国々と沿岸貿易をしていたのです。
英仏の100年戦争でも攻略できなかった尖塔に、天秤と剣を持った平和と真偽の姿、金のミカエルの像があるのです。
信長の後継者秀吉は、足利将軍の調停によって東本願寺と西本願寺に分断させ、毛利と村上水軍を破り、顕如の本願寺を打ち壊し、大阪城を築城、天下統一を図ったのです。
秀吉は、堺の港を作って、南蛮貿易によって富を蓄えたのです。その結果、大阪城を難攻不落の城となったのです。
天下が安定したのです。一つ付け加えると大阪の事を難波というのは、満潮になると波があったことに由来するのです。周辺は低湿地帯だったのです。
このようにモンサンミェルと大阪城は共通点があるのです。もちろん、モンサンミェルも一時的ではありますが城郭として使用されたこともあったのです。

ヨーロッパの看板彫金は無学に証拠

2017.11.01 (水)

イタリア旅行の行ったとき.、ポンペイの遺跡を見て、石でできた看板が街区の通り面し、誰が見てもひと目でわかるようにずらりと並んでいました。
その時は、解らなかったのですが、地中海沿岸の都市国家は、アフリカ、トルコあるいは大西洋沿岸の各国と貿易で栄えたのです。当然民族も違い、言語も違いました。カルタゴ(チュニジア)は小国だ有ったが、地味豊かな国で、海洋貿易でローマと覇権を争って、滅亡した国でした。
そのように、雑多な国が入り混じり、貿易をしていた関係で、絵をもって、何の店だかわかるように彫金看板が発達したのです。
もちろん、奴隷貿易も盛んでした。また、一般市民も、紀元前では無学の民族も多く、文字を持たない国もあったのです。
日本でも、江戸時代までは、蝦夷、アイヌ民族は文字を持つことなく、木の皮を利用し、結び目の形に依って己の意思を伝達したのです。
日本書紀、古事記は漢字が伝来した紀元4世湖ごろ、稗田阿礼が各豪族などが自己の文字記録によっていたものを統一の漢字表記にして書物を暗記させ、天皇家権威付けの必要もあり、編纂されたのが日本書紀です。
ヨーロッパの諸国も文字を持つ国、持たない国も、一応に等価の物々交換、または金のつぶで重さによって交換していたのです。
その一例として、世界最初の休戦協定に残されたエジプトはヒエログリフで石碑(レプリカ)に刻まれていたのです。アッシュリアは楔形文字を陶板(レプリカ)に残したのです。
たまたま、エジプトとアッシュリアに行く機会を得たのでどちらも見分しました。
そんなことで、ヨーロッパのローディングブルグの古城の街並みには惚れたくなるような彫金・看板が沢山ありました。
私が、雑記帳を持ち歩き、妻と二人の日本語だけの旅ができたのもそのおかげです。
絵は万国共通なのです。素晴らしいモーツアルトの故郷のザルツブルグは、マグドナルド看板まで街並みに合わせ、ライオンと繁栄のシンボル、蔦で独特のMをインコか鷲がくちばしで支えていつものでした。
その広場で毎年モーツアルトの野外コンサートが盛大に開かれそうです。
もう、ザルツブルグはモーツアルト一色です。でも、素晴らしい街並みと、緑と看板と教会の尖塔がマッチした魅惑の旧市街です。
ヨーロッパのどこに行っても古い町並みには彫金の絵文字が店の看板としてあるのです。帆船の看板、牛の看板、鶏の看板、星の看板、ピアノの看板、それは一目で子供でも分かるのです。
それも驚いたことにソープランドの看板まであるのです。
何処の旧市街、古城の廓の街並みは彫金看板と足を止めたくなるような手の込んだ看板なのです。
きっと、からくり人形がいろいろな動作をし、王家の権威つけの技術からお店の看板に発達したのでしょう。

ポンデュガールは匠・芸術家の結晶

2017.10.30 (月)

ポンデュガールは日本ではなじみの無い遺跡です。しかし、ガール水道といえば古代のローマ水道で中学の時、社会科で写真付きのコロッセオともになじみのある遺跡です。
しかも、今回の世界一周の旅で、3代古代ローマ水道を全部見る機会に恵まれました。
1つはポルトガル、2つはイスタンブール、3つはポンデュガールです。でも、群を抜いて素晴らしいのはこのポンデュガールをしのぐものはありません。ポンデュガール、紀元前19年アウグスチヌス帝の腹心のアグリッパの命令で、ローマのガリア地方(現在のフランス)の殖民地、ニースのガルドン川に架けられた3層のアーチ式の水道橋です。
取水口の泉、とニームまでの延長距離は50KMです。
その高低差は1KMにで30CM弱でした。取り組み口からニースまでは、渓谷があり導管は曲がりくねったものでした。
石材はガルドン川の下流に産出し赤み掛かった石灰岩で、加工がしやすく、すり合わせると良く整合するものでした。
この石灰岩を、決められた定寸法のブロックに切出されたのです。ポンデュガールは橋の高さは川の水面より49m、下層のアーチの高さは、22m、6つの橋脚、中層は20mのアーチ、11の橋脚、上層は7mで35の橋脚でバランスがとれ、とても美しいものです。赤み掛かった、石灰岩の石材のブロックもガルドン川に映えて、夕日、朝日に真っ赤に染まったことでしょう。
勾配は1/3000のため、途中,用水のマスを設け、トレッドウィール・クレーン(人力の大きな水車の輪のようなもの)でくみ上げたりしながら5000人の住むニームの街へ導水したのです。
1日の水道は200,000㎥の水を27時間かけて、ニームまで運んだのです。
蒸発や汚泥、植物の根などから導管を守るために地下に埋設したのです。
古代ローマ人の建造物の技術は、600年にわたって給水を守ったのです。いかに優れた技術だったかお分かりになると思います。
この工事は500人の人で50年かかったと言われております。その工事を6年で完工させたのです。
また、石の各ブロックの漏水を防ぐために、消石灰にブタの血または脂身を使って、それをイチジクの粘液で混合し、練った特殊な漆喰を作り出したのです。
また、コの字型の導水管内部にタイルを張って、水を流れやすくしたのです。
しかも、開口部分には、ブロック状に切り出された、蓋に勾配をつけ、雨水などのゴミが入らないようにしてあるのです。もちろん、接続部分は漆喰で接着したのです。
また、ポンデュガールは、人、馬車、荷車が通行できるようにしてあります。
この壮大な工事は、日本では邪馬台国の卑弥呼の時代なのです。また、切り出されたブロックの重量は6トンあるのです。
それを、木造のクレーンで持ち上げたのです。
ガルドン川の上です。台座を如何したか。考えると疑問が疑問を生むのです。多分、支流を作って川を一時的に埋めて台座設置したことでしょう。また、切り出した6トンのブロックを挟む鋏のようなものも製作したことでしょう。
ニースに運ばれた水は、四角いマスの井戸から、各家庭に給水されたのです。
給水の導管は、5mくらいの長さで100mmΦくらいの少し円錐形の丸い木に銅・鉛・青銅の板を巻き付け篏合したのです。
それをつないで給水されたのです。
石灰岩のブロックを導水した水は鍾乳洞と同じく炭酸カルシュムが解けて、流水の邪魔をしたのです。
もちろん、他の汚泥などもメンテナンスで取り除かなければなりませんでした。膨大なメンテナンスの費用だったと思います。
6トンもあるブロックの石材を修羅(そりのような運搬具)で運んだのです。
後の世のナポレオン三世(江戸末期から明治の人物)が、ポンデュガールを見て、荒廃しているの姿を、嘆き元の姿に戻したのです。
1度見た観光客は生涯、瞼の奥に焼きつくことでしょう。

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