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記事一覧

貧しさも観光資源。カンボジアのトンサップ湖         

2017.11.30 (木)

 アジア最大の湖「トンサンップ湖」そこには貧困にあえぐカンボジア人が水上生活を営んでいます。
 私が1960年代の大学生の時、海外旅行で韓国に行き、当時はまだ仏教徒が数多くいました。釜山近くの梵魚寺にって驚いたのです。仏様に土下座の恰好での礼拝しておりました。
 カンボジアのアンコールワットを旅行した時も同様でした。アンコールワットから、トンサップ湖いく途中、車窓から眺めた風景は、内戦の傷跡が残る風景と蟻塚の景観でした。ガイドさんの説明では電線が引かれている家は富裕層なのです。貧困層は、葦で日陰を作り昼間は縁台で寝転がっているのです。
 働く職場もなく、その日暮らしの生活です。また、内戦で地雷があちこちに埋められ、足のない人、手のない人が5~6人で音楽を奏でたりしながら観光客に恵んでもらって極貧の生活に耐えているのです。
 
 日本でも昭和20年前半に傷痍軍人が白衣とゲートルに軍靴姿で上野公園などでギターやアコーディオン弾き、戦闘帽に小銭を恵んでもらう姿を見かけたのです。トムサップ湖までの道すがらよく見る風景でした。内戦の悲惨さがどれ程か日本の平和の大切さを感じました。。
 トムサップ湖に行ってまた衝撃を受けました。パンツも履いてない6歳くらいの子供が遊んでいるのです。しかも、小学生くらいの子供が私たちの観光船を操り大人がお金を集金していたのです。
 ネパールもチベットも同様で、小学校すら頭のよい子が一家で1人代表して行くのす。現実に働く子供が多いのです。働き手でない女の子は、医者にもかかれず生きることさへ叶わないのです。エベレストに行ったとき、女医のO女医さんがアジアの現状を教えてくたのです。そのことを思い出しました。また、カトマンズでのことです。お兄さんが路上のカーバイトの灯の下で弟に勉強を教えていたのです。
 船がランチのレストランへ行く途中です。10歳くらいの女の子が3m位の錦蛇をマフラーのように首に巻き付け、写真を撮らせチップをめぐんでもらっているのです。毒蛇でないことは解っているのですが私にはできません。このトムサップ湖には何千人という水上生活者が共存しているのです。湖の水は飲料水になったり、洗濯場であったり、トイレの役割(厠)もしているのです。
 また、水上生活者は観光客に日用品・土産物を売り生活しているのです。まさに、貧困を売り物にして、経済のサイクルがなりたっているのです。すべて内戦による被害者なのです。

 日本でも有楽町の数寄屋橋界隈(銀座)に焼夷弾で焼け野原になった戦後、水上生活者が外堀や33間堀川(現在は見えません)を行き来するタイル写真が数寄屋橋に残されています。そこには米兵が闊歩する姿が克明に写され日劇も写っておりました。
 どの国も同じ道をたどるのです。日本の戦後復興は世界に類を見ない速さで進んだだけです。日本人に生まれたこと自体が幸せなことと再認識しました。

教訓:戦後2~3年数寄屋橋の銀座にも水上生活者が存在し、日本人は知恵と労働力、女性の活躍で復興を成し遂げたのです。

アンカレッジのタワーホテルと越後屋

2017.11.27 (月)

 1964年3月27日アラスカ大地震が発生、マグニチュード9.2と計測されたのです。
 東日本大震災は、マグニチュードは9.0でした。アラスカの大震災は、人口密度が低いので被害は死者131人に止まったのです。震度では0.2上回ったのです。この大地震でさへ、アンカレッジのタワーホテルは被害がなっかたのたのです。
 私たちは、今回もインターネットで予約して、息子と連絡を取りながら宿泊したです。
 余談ですが、アラスカ鉄道は、黄色とブルーの列車で、食堂車の天井・屋根部分はガラス張りでデナリ山がよく見えるのです。しかも、車掌さんは揃えたようなハンサムです。女性なら一目ぼれをするほどです。
 この列車は1日1往復のためにデナリ山がよく見えるところで30分以上も写真撮影のため停車するのです。
 話は変わりますがアンカレッジのタワーホテルはキッチン用品や電子レンジがあって自炊ができるのです。しかも、照明用のキャンドルがあらゆるところにあって、北極のホテルの雰囲気がとっても良く演出されているのです。
 しかも徒歩5分位のところに越後屋という日本のスーパーがあって、生け簀にカニや北極海の魚介類が泳いでいるのです。
 店内には箸や紙皿、醤油、みりん、お酒、お米は何種類も所狭しと並んでいるのです。生け簀の蟹、魚を指定するとその場で茹でてくれるのです。私たちは、蟹を茹でてもらいみりん、醤油などで食したのです。
 生きたカニをその場でゆでて頂いて食べるおいしさは格別です。最後に軽飛行機をチャーターし、デナリ山々や氷河、雪原そして断崖絶壁に生息するヤギの群れや海の生き物のラッコ、シーライオン、パフィン、トナカイを機上から追いかけるのです。私たち3人でアラスカの大自然を満喫したのです。息子と過ごした幸せの時間でした。

アラスカ、カトマイの豪快な鮭釣り

2017.11.23 (木)

 凍てつく大地・アラスカは、野生動物をはぐくみ、そこに繰り広げられる動物連鎖は、アリューシャン・マジックと呼ばれます。アリューシャン・マジックはプランクトンが大発生して、南の海で子育てを終えたクジラがなん百頭と集まり、またプランクトンを求めて種々の魚群が集まるのです。小魚を求めて、ハシボソミズナギ鳥が何万羽と集まり、動物連鎖の過程で最後に南鳥島から阿呆鳥が飛んでくる壮大なドラマです
 私たちが知り合ったトラッパー伊藤さんは、5月の連休にフェアバンクスの駅に降り立ち、みぞれ交じりの天候で、寒さを堪え乍ら駅のベンチで一晩明かしたのです。寒さに震えながらアリューシャン列島の付け根カトマイに向かったそうです。
 私たちも、息子とともにヒグマが鮭とる瞬間が見られる事の情報を昨年の旅行でアンカレッジの旅行案内所で聞いたのです。
 フェアバンクスから、アラスカ鉄道に乗って更に軽飛行機でカトマイに乗り継いだのです。軽飛行機を乗り継ぎながら2度目の飛行場(ただの広い空間)に降立ったときです。無数のカモメが騒いでおりました。見るとヒグマの姿を目撃したのです。突然ヒグマが湖沼の鮭の群れに飛び込んだのです。鮭を咥えて出てきました。望遠レンズで撮影できたのです。一瞬の出来事でした。
 アラスカは、ほとんどの家庭で軽飛行機(価格は中古機は250万円くらい)を所有しているのです。なぜかというと、アンカレッジから北極海に抜ける国道がブルーベイまで1本しかないのです。
 この広大な凍てつく大地と湖沼群は、東西1500kmを超える移動には飛行機に頼らければならないのです。軽飛行機はフロートのついた軽飛行機で湖が係留場所なのです。
 このアラスカは、湖沼の数のほうが人口より多いのです。湖沼が飛行場にかわるのです。私たちは軽飛行機を乗り継いで目的地のカトマイにつきました。もう、降り立った場所からクマに注意の警告板です。
 説明文には鈴や話し声でクマが近づか無いようにする旨が書いてありました。飛行場には私たちのほか3、4人が釣りの道具を持って待っていました。案内人がやってきて、ジープに乗って釣り場に行き、私たち3人もモーターボートに乗って釣り場に行ったのです。
 鮭が「早く釣って」とあちこちで跳ねていました。気持ちは早く釣りたいと焦るばかりです。私たちはポイント変えながら、2時間ぐらいルアーフィッシングをしたのです。息子は、72CMの鮭を釣り上げました。私も何度かの引きがあったのですが、ルアーフィッシングは初めてで、私と妻は失敗の連続で釣り逃がしました。
 キャビンに行き、釣り上げた鮭と一緒に撮影したのです。キングサーモンも釣れるとの事で鮭もメザシに見えてしまいました。いかに大物が釣れるかです。
 モーターボートを運転していた方が、釣り上げた鮭を3枚におろしドライアイスの発泡スチロールのボックス入れて日本まで持ち帰られるようにしてくださいました。彼は、大学教授で休みの時に趣味で案内をしたり、モーターボートの運転手をしてるそうです。私たちは、カトマイの近くのヒグマの棲息する国立公園に行ったのです。別のレンジャーの案内で、4mくらい高さの木製の展望台に行った時です。
水面すれすれの桟橋に差し掛かった時、紅サケが群れを成して泳いでいたのです。撮影しようとカメラを構えました。すると女性のレンジャーが飛んできて、その時100~150mのところでヒグマが昼寝をしていたのです。
 ヒグマは、寝ていても匂いで襲ってくるから危険です。指定されたところ以外は危ないです言ったのです。息子とレンジャーの話ではバンガロウに泊まったお客さんが、夜中にトイレに行こうとしたらドアの向こう側にヒグマがいて、一晩中トイレを我慢した話をしてくれたのです。
 当然、公園内といえどヒグマは野生の動物ですからいつ襲うかわかりませんと息子に言ったそうです。
 インホメイションセンターで聞いたヒグマの餌場に行ったのです。高低差が5mから6mくらいの滝があって釣り人がいました。鍵がかかり入れません。
 レンジャーに聞くと、鮭をを求めて朝早くクマが集まるそうです。ところが一般の人は時間でしか入場できないそうです。入場許可証が必要で、プロカメラマンなどの特殊な人以外は無理だそうです。
 でも、カトマイのあちこちでクマは見られるのです。この滝のあるカメラのポイントは諦めることにしました。帰りの時間になったので軽飛行機を乗り継いでホテルの戻りました。鮭釣りの面白さを味わった1日でした。

アラスカの大自然の白熊に消えた星野道夫さんの話

2017.11.20 (月)

 最初(2010・8月)にアラスカを旅した時、妻が足を捻挫してどうしようかを悩んでおりました。私は、[チャンスは後ろ髪のない美人だよ」ど無理やり連れだしたのです。
 成田に行ってその悩みが吹っ切れたのです。広い飛行場の中で、杖をついて歩いておりました。スチアーデスさんと思われる方が「足は大丈夫ですか。車いすをご用意させていただきます。」近づいてきました。妻に車椅子を「どうぞ」と言って、通関手続きも乗務員専用の窓口まで案内してくださたのたのです。それからアンカレッジの空港まで全部連絡行き届き、車椅子が行くところ全部手配されていたのです。
 それだけではないのです。アラスカの列車、デナリ公園内のバスまで全工程を車椅子または補助具が手配済みだったのです。先進国の旅は、何不自由なく快適に過ごすことができました。
 2人旅でしたので時間的余裕が有りとっても助かりました。
アンカレッジの旅行案内所で、どんなスケジールにしようかと立ち寄りました。
 そこには素敵な写真集が置いてありました。20万頭のカリブー(トナカイ)の移動の写真です。早春の壮大なドラマです。見てみたい。そんなたわいもないことを妻とつぶやいていると、アラスカのガイドさんのような方が「星野道夫」さんといって、命がけで白熊の写真を撮影された日本人ですと教えて下さいました。いろいろ質問すると白熊の撮影に命を落とされたそうです。
 私は、厳冬期のマッキンリー散った植村直己さんを思い出していたのです。
 日本人は、命がけで自分の人生をかけた人たちが百年も前からいたことを思い出したのです。南極点を目指した白瀬中尉もそうでした。
どうしてなんだろう。自分の脳裏にかすめたのです。遥か20万年前に日本人の祖先が、命がけで丸木舟(?)や葦船に乗って何千と言う古代人が黒潮をに乗って、あるいは、厳冬期の氷結したサハリンから海をわったって来たそうです。
 日本人のDNAが冒険心を描きたてのでしょう。アラスカには大自然が手付かずのまま残っているのです。私たちが、アラスカ鉄道に乗り、バスを乗り継いでデナリ公園に着いたのです。空がどんより曇り太陽が見えません。これは、半年前に自然発火の煙が雲のようになり曇天模様に見えるのです。
 米国人は自然に発火したものは、自然に任せ、消えた後に芽吹いた植物は、また別の生態系を作り、自然の循環に任せるのが一番良いと考えているからです。
 日本人には考えられない思考です。アラスカの広さがどれ程かわかるような気がします。アラスカには、幽霊林といわれる火災で真っ黒に焼けただれた森林地帯があるのです。
 翌朝、デナリ公園の観光に出かけました。トイレ休憩の時です。ガイドさんが面白い話をしたのです。トイレに寄った時です。ヒグマが現れ、みんな驚いて、トイレも行けずバスに駆け寄ったのです。一番先に逃げた人が男性だったそうす。もうこうなると恐ろしさが先に立って、レディーファーストどころでないそうです。「いつクマがでるかわかりません。終わった方からバスへ戻ってください」とのことでした。
 バスの車窓から、間近にグズリー、カリブ、ヘラ鹿、ドールシープいろいろな動植物を見て回りランチです。ボリューム満点のステーキでした。私たちと一緒のバスに、膝枕を持った2人のお相撲さんのようなおデブさんが乗り込んでいました。ランチの後、山小屋に着き英語での説明に意味不明でしたが、2組に分かれ3時間の自由行動です。まあいいやと思いながらついていくと、清流があって浅いざるみたいな道具を渡されました。昔、砂金が採取されたらしく、他の人の真似をしてやってみました。砂金は取れなかったけれど、採種した石をハンマーで割ると銅の混入した黄銅鉱という石でした。
 佐渡島の砂金採りと違い、大自然の中での砂金採りは豪快でした。雄大なデナリ山やコケモモの自生する景観に圧倒されました。バスで公園の出発点につき、回遊バスでキャビンに戻り、楽しかった一日の思いふけりました。
 星野道夫さんの命日は昭和42年8月8日です。なぜ、彼は、白熊に追いかけられたか。ちょうどこの頃が、冬眠をする白熊にとって脂肪を蓄えなくてならない時期なのです。白熊にとっては、人間も他の動物も餌にしか見えないのです。また、彼は写真家魂がうずいて、より感動するシャッターチャンスを狙ったのでしょう。
 自分の撮影に対する気持ちと比較して思わざるにいらません。私も写真家田村さんとケニヤに行った時のことです。朝日で輝くキリマンジャロを狙って、ホテルのゲートを出て、200mくらい行った時です。ホテルのガードマンが、駆け足で飛んできて猛獣は遠くにいても、すぐ人間に追いつき危険ですからホテルに戻ってくださいと叱られた経験があるのです。
 星野道夫さん。も、夢中になりすぎて、望遠レンズを覗いてライフルを手にする暇もなかったのだと思います。星野道夫さんのご冥福をお祈りいたします。
 また、写真家田村寛一さんが夕日で逆光なった樹木に鷲が泊まり、ジープの運転手に90cm右と指図されていた事を思い出し、プロは違う視点で撮影されたことを思い出しました。 

東條英機・ヒットラーそしてスターリン

2017.11.16 (木)

 地球1周の旅で見聞した東條英機そしてヒットラー・スターリンのポツダム会談の舞台裏の話です
 この3人ほどいろいろな情報が交錯し真実が見えてきません。私は、ポツダム、モスクワ、サンペテロスブルグ、ベルリン、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ミュヘン、パリ、ロンドン、ウイーン「ゼーグロッテ」の地底湖を旅してみて、私は昭和天皇、東條英機がいかに戦争回避に努力したか知ったのです。
 日本の官僚の悪弊は責任を誰かに擦り付ける印象があり、その策にはまったのです。東條英機の東京会談での大東亜共栄圏の構想は、インドのチャンドラポーズを初め、アジアの植民地の首脳が戦争のさなかに植民地解放を願って参集したのです。
 東條は、近衛内閣の総辞職と天皇の依願受け組閣を引き受けざるを得なかったのです。私は社会の授業でドイツがヨーロッパの列強国から第一時世界大戦の賠償額が天文学数字で学校の学費さえも、ボストンバックに一杯に詰めこまなければ払えない状況を歴史で学んだのです。
 イタリアは、植民地がなく世界恐慌のインフレに経済が破綻していたのです。日本も満蒙を属国にしなければならないくらい経済が破綻寸前でした。石原莞爾、板垣征四郎が1個師団で1月足らずで満洲国を併合したのです。2人の構想は、日ソ不可侵条約の下で黒竜江の国境を越ず、日本の併合国朝鮮から満洲を侵攻したのです。しかし、日本陸軍は、タブーを破って超えてしまったのです。
 その為、スターリンは昭和20念8月8日、ポツダム宣言を受諾した日本に野村大使通じ宣戦布告したのです。その前の事ですが、ヒットラー率いるドイツ軍が破竹の勢いでモスクワに侵攻したのです。
 日本陸軍は、有頂天になってドイツ軍はシベリアの黒龍江省まで攻め入ると誤認したのです。ところがスターリンは、モスクワ市に火を放ち3日3晩で街のすべてを焼き尽くしたのです。
 ドイツ軍が厳冬中で食糧補給を絶たれ、凍死するもの相次ぎナポレオンの二の舞をしたのです。戦意、戦力をなくたドイツ軍は、おそらくナポレオン軍と同じく10分の1の戦力になりベルリンに敗退したのです。
 日本軍は、そのことを知らず国境の黒竜江を超えてしまったのです。
この事実は、宣戦布告なしにソ連を侵害し戦争の緒を作ってしまったのです。
 また、スターリンはレーニンを追い落とし独裁体制を引き、戦時中の食糧不足、また、反スターリン派を殺し100万人以上といわれる人命を奪ったのです。
 ヒットラーもまた何百万人といわれるユダヤ人、ホローコーストをアウシュヴィッツやビルケナウの殺人工場で毒ガスによる殺害したのです。
 話は変わりますが、日本軍は南京事件の南京城の解放の時、中国人を1人も殺害してないのです。
しかし、中国の捏造記事は30万人以上中国人を虐殺したと中国国民と世界のメディア騒ぎ立てているのです。
それどころか、日本軍は南京市民に対し食料を分け与えたのです。
 これは、昭和天皇の御心と東條英機そして松井大将「皆同胞」の寛容と慈悲の現れだったのです。南京の市民は、数日のうちに20万市民が25万人膨れ上がのです。この南京大虐殺は、外国の従軍記者の間にさへも虐殺の記録がないのです。
 杉原千畝氏は、ユダヤ人を満洲に安住地を与えたわけです。そこには天皇、東條英機もビサ発給に協力していたのです。
 ところが陸軍が暴走し、黒竜江を越境をしてしまい、東條・杉原・松井大将の努力を水泡に期したのです。ヨーロッパ戦線で、ヒットラーが第2次世界大戦の発端を作ったのです。
ドイツは古くからユダヤ人・ホローコーストを国家レベルで、異常なほど罪のない人々まで迫害したのです。
 東條はいま語られている人物像でなく、近衛内閣、天皇の推挙があって内閣を組閣したのです。東條は、最後まで戦争回避に尽力したのです。しかし、米国大統領ルーズベルトがハル・ノートといわれる日本国の飲めない条件を出したのです。しかも日米開戦を一番望んだのはイギリスのチャチールです。
 答えは、当時のロンドンは、ドイツ・メッサーシュミットの空爆に陥落寸前であったのです。しかし、アメリカはモンロー主義を貫き、他国に対し干渉せず、干渉されずの思想でした。ウオール街に始まった世界恐慌はニュデリー政策で解消に向かっていたのです。ヨーロッパ各国も植民地支配のよってどうにか切り抜けていたのです。
 ところがドイツは天文数字の賠償金で、国民はインフレに喘いでいたのです。日本はハル・ノートを突き付けられて、石油・ゴムの禁輸政策によって生存権さえも奪われかねない状況下でした。
 まして、日本の暗号は解読され、尾崎・ゾルゲの国際スパイ事件によって真珠湾攻撃までソ連を通じて、米国大統領に報告されていたのです。
 また戦勝国はポツダム会談でソ連は北海道の分割(釧路、留萌の北側)望んでいたのです。
 アメリカのルーズベルトはこれを拒否しアメリカ1国の占領下に日本を置たのです。
 ミュヘンは、ヒットラーの若かりし頃、画家を志したか場所で軍事参謀本部があったところです。今、観光客や市民に時を知らせるからくり人形があります。ベルリンも第2次世界大戦のベルリンの壁などの遺跡がたくさんあります。
 パリは、ヒットラーによってすぐ陥落したためフランスは戦勝国から外されたのです。私たちが行ったゼーグロッテの地底湖は、戦況悪化した時にメッサーシュミットの秘密工場として利用されたのです。
 余談ですが、イタリアのムッソリーニは同盟国のヒットラーを信用してなっかたのです。ヒットラーまた、日露戦争で勝利した日本人を黄禍(黄色い猿)として信用していなかったんです。
あの有名な極東軍事裁判は、皇太子の誕生日に東条英機7人の絞首刑が確定し昭和天皇の誕生日に4月29日(現みどりの日)に絞首刑が執行されたのです。
しかも、交際法上は全員無罪ですが、アメリカによって見せしめの極東軍事裁判だったのです。

火鉢を抱いて仮面劇、走るパンダ(成都)

2017.11.13 (月)

チベット旅を終え、明日は日本です。今、成都のホテルに戻ってきました。最後のお別れパーティーの豪華な薬膳料理の晩餐会(?)です。F女子の提案で仮面劇を見ることになりました。
とっても素晴らしそうです。ガイドさんにチケットをお願いして、全員で出かけることになりました。
成都の空は、澄み切って、星が煌めいております。天の川が、東西に大河のごとく悠々流れ、私たちの子供の頃の星空でした。
懐かしく見入り、他の旅人も同じ思いで見ていたことでしょう。
真っ暗な劇場について、チケットを渡し、中に入って驚きました。屋根がないのです。中国の独特の音楽が流れ、人影が少なく、最前列の椅子に一団になって座りました。
成都は日本の長野市の高度と同じ600mくらいの高さです。冬の1月初旬の気温を考えてください。屋根がないことは、外気温と同じなのです。
まして、高度があり、北緯40度の秋田県の位置に相当し、寒く、まして中国大陸の三国志の都です。です。劇場の従業員が火鉢を運んできたのです。3人に1個の割合です。手と顔が温まる程度です。私たちは、高校生ぐらいまで暖房器具といえば、火鉢とコタツの時代でした。今では、すっかり慣れてしまった、エアコンとフアンヒーターです。
それでも、屋根があって囲まれた部屋です。想像してください。
客がぞろぞろ入ってきました。少しは、体温の温もりで増しになってきたのです。
待つこと40分位、独特のドラと音楽で、少しざわめき始めました。やっと開演です。口上が流れ、開幕です。大股で飛びながらの入場です。いろいろな演目で、楊貴妃と三国志が演じられたのです。
T女子の言葉道理、目を見張るものでした。写真をカシャカシャとシャッター音を鳴らしながらやっているうちに寒さも忘れ、見入ってしまいました。
演目を披露しながらの衣装と顔の変化の速さに驚きの連続です。もちろん、説明はあるのです。
言葉は理解できませんが、動作でわかります。まして、日本におなじみの楊貴妃と玄宗皇帝です。それと、三国志です。劉備玄徳、魏の曹操、諸葛孔明、関羽、張飛の演目です。
成都では必然的の演目でしょう。世界的に知れわったてることです。最後は、総出演のヒナーレです。万雷の拍手中で終了でした。
皆、寒い火鉢の暖房に耐えてのでしたが、名残惜しいそうでした。
満足感に浸りながら、夜道をホテルに戻ったのです。
朝の食事を済ませ、フライトは午後の時間です。誰ともなしに、どこか手軽に観光できるところを思案しておりました。
パンダでも見に行くか。と誰かがいいだし、「成都熊猫(パンダ)繁殖基地へ行くことにしました。
バスに乗っていったのです。チケットを購入して入場しました。電気自動車が2台来たのです。各々が乗り込み、園内を回ったのです。パンダが駆けているではないですか。日本のパンダは、動かずにいるのは気候が成都に比較して、熱いので夏バテて状態に何時もさらされているからなのです。
成都のパンダは、50頭ぐらい飼育され、木に登ったり、駆けずり回ったりしているのです。とっても元気で細い木に登り、木が折れそうにしなっても平気で2~3頭がじゃれあっているのです。中には〇〇して繁殖に熱中なパンダ見られるのです。
園内を一回りして、帰る時、誰かがホッカイロを取り出し差し上げた所「きょとん」として、すぐにニッコとして「謝・謝」いったので、腰に手を当て「ペッタ」と貼るしぐをしたら「うんうん」とうなずいて喜んだのです。当時は中国ではホッカイロが普及がしていなかったので分からないみたいでした。今回のチベットの旅は、1度もお土産店によらなっかたのでお土産店に行くことに決まり、成都の飛行場に向かったのです。
心に残る秘境チベットの旅でした。

教訓.旅の出会いは、ビジネスの人脈創りに活用しましょう。

まさかのトヨタ車の脱輪。危機一髪の恐怖

2017.11.13 (月)

 私たち一行の車はカローラ峠(5045m)ニンジンカンサ峰、サラマサの鋭鋒、ジェシェナラカブ(6000m)氷河のカルション(7191m)チョモカムリなどのチベットの天空の峰々を回り、また、鶴が上昇気流にのって、ヒマラヤ越えの飛翔に感動を覚えながら車窓を眺めていました。
 チベット高原の乾燥しきった大地に砂塵を上げ疾走、日本では考えることのできない景色やラマ僧の修行の、五体投地、ロバに素焼きの壺を積んでどこかの市場に売りに行くのか、遠い寺院のある市場か、数日懸けて行く姿、また、一人の老人が何処の村だかしれませんが買い物をロバに載せていく姿は、2005年のシルクローの旅でさえも、姿を消してしまった光景がどこかしこに見られたのです。

 何処だか忘れましたが、真新しい木製の鍬が(今から500年以上前まで日本でも使用)青空トイレの際に、ゾンビのヤクの近くに転がっているの見て、驚くやら、感心するやらそんな連続の秘境チベットの旅です。
 シガッツエだったか記憶が定かでないのですが、ホテルに向かう途中、思わぬ事故が起きたのです。
 私たちの車が、先頭を走行し後続の車が見えなくなったのです。清流の景観の良い、石畳のある広いところで待つこと40分ぐらいだったと思います。いくら待っても後続車の姿が見えません。
 今と違って、携帯電話(国際)が有りません。連絡が取れず、戻ることにしました。私たちが利用した乗用車は、日本製のトヨタ「カローラ」です。3台ともトヨタの車です。日本車、しかもトヨタです。戻ってみると左側が高低差が3mくらいの清流の淀、右側が20mに及ぶ崖のところで脱輪の惨事は起きたのです。
 タイヤがコロコロと10m以上転がり、川には落ちなくて良かったのです。500mほど行くでと幅が4mくらいに狭くなるところだったのです。すぐ目の前に無人のような小さな部落がありました。
 そこから、一人の男が出てきて、手まねで煙草を呉れという仕草をしたのです。誰も煙草を持ち合わせていなかったので「ノースモーク」といったら、何所となくスタスタと歩いて消えていったのです。
 この秘境チベットでは歩く以外に移動の手段がないのです。現在の位置から一番近い街まで車で2時間もかかるそうです。
 3人の運転手が整備士に変身、曲がったシャフトを真っすぐにと汗をかきながら奮戦、修理に3時間かかりましたが、宿泊地「シガッツエ」に何とかたどり着くことができました。
 良く話を聞いてみると、もしものために整備工を兼ねた運転手を雇ったそうす。中国には、車検はあるのですが賄賂の金額で永久に未整備のまま乗り続けることができるそうです。しかし、外国は何処に行っても自己責任です。日本人は、どうしても自分の責任を転嫁する癖があるのです。
 考えると恐ろしいやらでした。もしかしたら、日本のメデアがこの事実を報道していたらと思うと秘境の怖さを味わったのです。ラサまで西へ280kmです。トイレ休憩の合間に、ローターリーに莚を引いて、お店を出しているオジサンをからかいながらヤクの首につける鈴を買い求めました。日本円で10円から20円くらいの金額でした。2コ買い求め、妻は近くの商店街で孫たちにきれいな民族衣装を買ったのです。
 でも、秘境の旅はそれにもまして素晴らしいのです。あなたも旅人になってスリルと爽快感を味わってください。
 日本人は井の中の蛙です。世界が広いことを味わって下さい。早く行ってください。習近平国家主席の政策でビルの狭間になってしまいます。中国の民族浄化政策で、大量の漢民族がチベット・新疆自治区に流れ込んでいるのです。無人のホテルが観光客目当てに建っているのです。

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