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記事一覧

世界への旅は、金持ちの第1歩

2018.04.02 (月)

 今「リア充」が人をねたみ事件が起きております。そんなことより、勇気と決断で人は富を得ることができるのです。「ナポレオン・ヒルの巨富を得る13の条件」この13の条件を実行できれば富は必ず自分の手元によって来るのです。昔から「お金は寂しがりや」と言われるゆえんです。
 アパホテルの「私は社長です」の元谷芙美子さんは高校卒業後福井県の信用金庫に勤務して、組合活動を通じて結婚し、今では日本の第4位のお金持ちです。彼女曰く、運とは軍隊が運んでくるのです。「力づくでも掴み取らなったければ逃げてしまう」ものだといっておりました。彼女と懇談する機会があって、お金持ちになる方法を聞かせいただきました。
 私は、旅が大好きです。カメラが好きです。好きこそもの上手なれ。小学校卒の母から教えられた言葉です。自分のやっていることを、天職だと思い、一所懸命頑張る。コツコツとお金をため、あるまとまった金で旅をする。ここがまず、私にとって金持ちへの第一歩と考えているのです。
 旅は道連れ、世は情け。旅をしている間にいろいろな人と出会いがあります。アンコールワットに行ったときに、日展作家のT氏は天皇陛下と美智子妃よりお褒めの言葉をいただきデナー時に隣席を賜り今でも賀状のお付き合いがあり電話を掛けたばかりです。

 ケニアに行った時、東京都知事の小池百合子氏が環境大臣の諮問機関を務めるT氏、チベットに行ったときの筑波大のI氏、自称キャプテンクック氏、郵政省幹部のK氏、南極に行ったとき第33次越冬隊長のF氏、エベレストに行ったときは写真家H氏、カトマンズの空港でお会いしたいI氏、遭難をして九死に一命を取り留めた著名な登山家と話す機会がありました。
 しかし、海外旅行という特別な時間の中で親しく会話が弾むのです。著名人は、会話の中で自分の人生に示唆してくれるものが存在し、それをくみ取る最高の時間なのです。著名人も気さくで、親しみやすく包容力があるのです。このことを、自分なりにかみ砕きビジネスにヒントを得るのです。
 また、今はネット社会です。ネットの上で大いに活用して、世の中から対価を得ればよいのです。自分の仕事の話だけでは、ブログの話題に困る時があるのです。旅のブログは、大勢の人に共感得られるのです。旅も秘境へ行けば行くほど旅の話しが面白くなり、出会いも小人数の事が多いのです。 その対価が大きければ大きいほどお金持ちへの道が速くなるのです。また、フランチャイジーの北京、上海の旅でユニバーサル・ホームのK氏、オートバックスのK氏、いすゞのH氏、T氏、CITYVOKのK氏、ダスキン&ミスタードーナツのK氏、キリンビバレッジのK氏、ミニストップのK氏、日本フランチャイズ協会のU氏、ジェトロのS氏、最も印象的だったのが北京イトーヨーカ堂の麦倉氏でした。麦倉氏の話の大きさに同行の皆さんも度肝抜かれた様子でした。また、北京の経済産業省事務方の人にもお会いし名刺を交わしたのです。
 海外旅行でなければお会いすることもできない人たちばかりです。
ゴビ砂漠に行ったとき、人のいない所ではビジネスは存在しないことを気づかされたり、砂漠の高速道路では「水あります」もちろんその国の言語で書かれております。車のヒーターが過熱して、その冷却水を売っているのです。飲料水ではないのです。
 人のいない所ではビジネスは不可能なのです。金持ちになりたかったら、その道で鍛え上げた方たちとお会いできるのが旅なのです。
色々な人と会い、会話をして名刺をかわし、自分でかみ砕いて「新規事業」を立ち上げるのです。それが不可能であれば、自分から知恵をだし道を選べばよいのです。
 平成29年8月17日の日経新聞に掲載されていたのですが、がん患者は、収入が30%以上減る記事がありました。私は、癌が何だ。まず、出発点から考えを変えたのです。68歳の時に埼玉がんセンターで胆管癌の手術をし生き返ったのです。助けられたこの命、生ある限り頑張ろと思い、3ケ月程で屋根工事の重労働に復帰し、太陽の恵みを受けて健康体になったのです。
 まず、好きなこと始めましょう。頑張れるのです。ネットで調べれば方法論は出てきます。しかし、フランチャイズに入ることはお勧めできません。儲かるのが本部だけです。
 お父さんよりお小遣いの前払いとして100万円をもらった金で勉強して、4000億円を動かした村上氏、ファンドで事件を起こしましたが、不死鳥のようによみがえったのです。金額ではなく、己の中に存在する臆病風を吹き飛ばすことから、金持ちへの執着を持ち続けることです。
 金持ちへの第一歩を踏み出してください。「願うは叶う」です。必ずです。まず、気分転換に旅へ出てください。私は11月に手術して、孫たちと翌年のゴールデンウークに立山のゴールデンルート、雪の大谷に連れ出したのです。N氏は星空を撮影したら後塵を許さない旅の友です。そのご夫婦がホテルにまで来て歓迎してくれ、談笑のひと時を息子夫婦と孫たちと過ごしました。旅に出たら、自分から異国人であろうが、日本人であろうと自分で相手の懐に飛び込み交流してください。耳から知識を得るのです。

 教訓:旅に出たら臆せず誰にでも話しかけよ。会話は武器です。知識に勝るものなし。旅人は師です。   

第2次世界大戦で解読された日本の暗号とアメリカの暗号

2017.12.12 (火)

日本も戦争終結から70年が経過し、戦争の痕もなくなり経済も豊かなりました。太平洋戦争も日本は緒戦のみ華々しい戦果を挙げたのですが、実は米国は開戦前に真珠湾攻撃を知っていて、ルーズベルト大統領は不意打ちを装ったのです。
 当時の日本の経済は破綻寸前だったのです。石油が枯渇し、当時は石油採掘やトラッキングする技術がなかったのです。また、陸軍と国民は米国の物量と経済の豊かさを知らなかったのです。そのため、インドネシアの原油と満蒙の豊かな開拓地が欲しかったのです。
しかし、フイリッピンを植民地支配するアメリカが、海上封鎖をし、インドネシアの原油を採掘できず、日本は世界恐慌後の経済の立てができず、米国の和解案の最後通告の「ハルノート」は日本人として、受け入れらない条件でした。松岡洋介大使も国際連盟を脱退する意見に傾いたのです。
 もちろん、天皇も東條英機首相も戦争回避を模索したのですが、チャーチルとルーズベルトの密約に米国も舵を切った事実を知らなかったのです。そして、日本の連合艦隊は、陽動作戦と穏密行動で真珠湾攻撃を決意したのです。ヒトカップに集結し、北南へと別れ、その後は一切打伝せず、緒戦での攻撃は大成功に終わったのです。
 私たちがラスベガスからモニュメントバレーに行ったときに、インデアンの村の記念館に立ち寄ったのです。アメリカの暗号がインデアンのナホバ族の言語を乱数表にし、文字は英語を使用していることとは思いもしなかったのです。
 日本では今でも知られていないことです。日本軍の暗号は開戦7日前に解読されていたのです。ヒトカップ湾を出港した連合艦隊、および南仏印(ベトナム、カンボジヤ)の陸軍にも連絡取れず、解読されたまま大東亜戦争に突入したのです。これでは、経済的格差だけでなく負けるべきして負けた戦争だったのです。
 これも、アメリカのルート66に行って解ったのです。個人旅行だったから知りえた事実です。通常のツアー旅行では行くことのない小さな記念館に立ち寄ったからです。もし、日本軍もアイヌ語を乱数表にしてら、でも、日本は敗戦によって、平和憲法でき、貿易の振興と湾岸地帯に経済の拠点、工業地帯を設けることが今日の発展につながったのです。

マサイ族の知られざる日本人

2017.12.05 (火)

 マサイ族はケニア・タンザニアに20~30万人が住んでおります。もともとは、タンザニアに住んでいた先住民族をことを言うのです。
 私たちが、2010年8月にアフリカ専門のツアー会社[道祖神」でケニアに行った時です。ジープで国道らしき道路をマサイ・マラの国立公園に向けて飛ばし、原っぱに座って雑談している女性たちにカメラを向けて撮影したのです。そうすると怒ったように、手を横に振ってお金をせびる振りをしたのです。撮影代をよこせと言っているのでしょう。車は疾走し、どうにもならないとあきらめた様子でした。
 ホテルにつきました。コーテージにプールまであるのに驚きました。お洒落なホテルです。花壇にはサボテンの花が大小植木の様に一面に植えられ、花をつけて日本の豪華なホテルを想像させるのです。
各コーテージには風呂まであるのです。
 夕方6時ごろサファリの時間になったので香港で合流した5人が迎えのジープに便乗し出発です。ジープの中で宇都宮市の田村さんの話を聞くうちに、この人は何だと思ったのです。国会議員や都の職員人々を、彼らは馬鹿者揃いとか曲者と「けなす」のです。
 自分は天才と自慢するのです。それも我々は初対面同志なのです。恐る恐る田村さんに探りを入れたところ、小池百合子さんが環境大臣時代に諮問機関の1人だったそうです。
 栃木県で8社を経営している社長さんで、日本カメラ協会の副校長も歴任していることが解り納得したのです。
 そんな話をしているうちに、シマウマ、ダチョウ、オリックス、インパラが目の前に姿を現し妻と二人で驚きの連続でした。ジープは屋根が開閉式でカメラの撮影に恰好です。ケニアは国全体が2000mくらいの高地にあって、8月というのに風を切ると寒いのです。乾燥していて、気候は快適そのものです。
 チーターが現れたのです。運転手があそこあそこと指をさすのですが妻が双眼鏡を覗いても見えません。木の上に2頭いて、周囲を見渡しているのです。驚くことにマサイ族は裸眼で4.0の視力だそうです。これには驚きました。やっと見つかりましたが、400mmの望遠レンズで撮影できる距離です。田村さんはコネクターをつけて撮影です。
 撮影ができジープが移動しました。象の群れが通り過ぎようとした時です。ヌーの群れの1頭が突然走り出したのです。時間が止まり、あたりの空気が一変したのです。周りのインパラ、ダチョウ、オリックスなども金縛りにあったように、呼吸を止め一瞬周り全体に静寂の時間が過ぎたのです。
 ヌーは安全な場所に行って止まり、チーターは、ブッシュに肩を落とし元の時間に戻ったのです。象の群れは、何もなかったように小象を囲み元の隊列のまゝ森に消えていったのです。日が暮れ、今日のサファリを終え興奮冷めやらぬまゝホテルに帰りました。
 ロビーにアフリカの画集が何冊かおかれており、パラパラと除きました。そこにはマサイ族の戦士と結婚した永松真紀さんの写真集がありびっくりしました。彼氏はマサイ戦士でジャクソンというのです。真紀さんは、一目惚れしたそうです。
 マサイ族は、ほとんどの人が誕生日を知らないそうです。時間の感覚がなく、子供、戦士、大人、長老そんなくらいの時間感覚なのです。彼らは、牛、ヤギの所有頭数で貧困が決まり、また、どれだけ高く飛べるか、戦士になってライオンの脳天割をどれだけしたかで男の価値が決まるそうです。
 マサイ女性のファッション感覚は、素晴らしくびっくりするぐらいです。また、子供たちは目が済んでいて無邪気です。驚くことに英語が日常会話なのです。西欧の帝国主義の影響受けたのでしょう。
 マサイ族も、豊かな生活を求めて英語と営業力で青年がホテルにて営業をし、多くのマサイ部落から自分の村に観光してもらいたく促すのです。入村料や撮影代、むしろに広げたお土産を女性たちが売っているのです。しかも、ホテルで契約が決まると携帯電話で村の長老とやり取りするのです。
 村では、太陽光発電で携帯電話を充電するそうです。豊かな村は1件に1枚のソーラーがあるのです。貧しい村は、歩いて1時間程かけて充電所に行って充電するのです。
 各家庭に電気はなく、土と牛糞を練り固めた1戸建てに10畳くらいの広さの住まいで5~7人ぐらいが一緒に住んでいるのです。
 また、ホテルに勤務するマサイ族の「アケミさん」と日本女性の名前に似た女の子が私たちに食事を運んで来たのです。彼女に日本語で話しかけ、すぐに日本語を覚え翌朝に日本語で語りかけてきたのです。凄いと驚き日本のTVで見たのですが、この名前の由来は明治・大正の文豪川端康成氏が小説に西洋の名前を日本人流に使用したのが始まりとか聞いたことあり、その時も驚くやら納得するやでした。旅をして分かったことです。旅は知識の泉です。

教訓:文豪川端康成の小説の女性は欧州人の名前でクルミを表現しているのです。多い地方はアルバニア地方です。

貧しさも観光資源。カンボジアのトンサップ湖         

2017.11.30 (木)

 アジア最大の湖「トンサンップ湖」そこには貧困にあえぐカンボジア人が水上生活を営んでいます。
 私が1960年代の大学生の時、海外旅行で韓国に行き、当時はまだ仏教徒が数多くいました。釜山近くの梵魚寺にって驚いたのです。仏様に土下座の恰好での礼拝しておりました。
 カンボジアのアンコールワットを旅行した時も同様でした。アンコールワットから、トンサップ湖いく途中、車窓から眺めた風景は、内戦の傷跡が残る風景と蟻塚の景観でした。ガイドさんの説明では電線が引かれている家は富裕層なのです。貧困層は、葦で日陰を作り昼間は縁台で寝転がっているのです。
 働く職場もなく、その日暮らしの生活です。また、内戦で地雷があちこちに埋められ、足のない人、手のない人が5~6人で音楽を奏でたりしながら観光客に恵んでもらって極貧の生活に耐えているのです。
 日本でも昭和20年前半に傷痍軍人が白衣とゲートルに軍靴姿で上野公園などでギターやアコーディオン弾き、戦闘帽に小銭を恵んでもらう姿を見かけたのです。トムサップ湖までの道すがらよく見る風景でした。内戦の悲惨さがどれ程か日本の平和の大切さを感じました。。
 トムサップ湖に行ってまた衝撃を受けました。パンツも履いてない6歳くらいの子供が遊んでいるのです。しかも、小学生くらいの子供が私たちの観光船を操り大人がお金を集金していたのです。
 ネパールもチベットも同様で、小学校すら頭のよい子が一家で1人代表して行くのす。現実に働く子供が多いのです。働き手でない女の子は、医者にもかかれず生きることさへ叶わないのです。エベレストに行ったとき、女医のM女医さんがアジアの現状を教えてくたのです。そのことを思い出しました。また、カトマンズでのことです。お兄さんが路上のカーバイトの灯の下で弟に勉強を教えていたのです。
 船がランチのレストランへ行く途中です。10歳くらいの女の子が3m位の錦蛇をマフラーのように首に巻き付け、写真を撮らせチップをめぐんでもらっているのです。毒蛇でないことは解っているのですが私にはできません。このトムサップ湖には何千人が村落を経営し、学校まで船の上で、市場も船上です。湖の水は飲料水になったり、洗濯場であったり、トイレの役割(厠の起源)もしているのです。
 また、水上生活者は観光客に日用品・土産物を売り生活しているのです。まさに、貧困を売り物にして、経済のサイクルがなりたっているのです。すべて内戦による被害者なのです。
 日本でも有楽町の数寄屋橋界隈(銀座)に焼夷弾で焼け野原になった戦後、水上生活者が外堀や33間堀川(現在は見えません)を行き来する庶民の生活がタイル写真が数寄屋橋に残されています。そこには米兵が闊歩する姿が克明に写され日劇も写っておりました。
 どの国も同じ道をたどるのです。日本の戦後復興は世界に類を見ない速さで進んだだけです。日本人に生まれたこと自体が幸せなことと再認識しました。

教訓:戦後2~3年数寄屋橋の銀座にも水上生活者が存在し、横浜は、昭和・平成の初期まで水上生活者が存在し、見慣れた風景でした。しかし、日本人は知恵と労働力、女性の活躍で復興を成し遂げたのです。

アンカレッジのタワーホテルと越後屋

2017.11.27 (月)

 1964年3月27日アラスカ大地震が発生、マグニチュード9.2と計測されたのです。
 東日本大震災は、マグニチュードは9.0でした。アラスカの大震災は、人口密度が低いので被害は死者131人に止まったのです。震度では0.2上回ったのです。この大地震でさへ、アンカレッジのタワーホテルは被害がなっかたのたのです。
 私たちは、今回もインターネットで予約して、息子と連絡を取りながら宿泊したです。
 余談ですが、アラスカ鉄道は、黄色とブルーの列車で、食堂車の天井・屋根部分はガラス張りでデナリ山がよく見えるのです。しかも、車掌さんは揃えたようなハンサムです。女性なら一目ぼれをするほどです。
 この列車は1日1往復のためにデナリ山がよく見えるところで30分以上も写真撮影のため停車するのです。
 話は変わりますがアンカレッジのタワーホテルはキッチン用品や電子レンジがあって自炊ができるのです。しかも、照明用のキャンドルがあらゆるところにあって、北極のホテルの雰囲気がとっても良く演出されているのです。
 しかも徒歩5分位のところに越後屋という日本のスーパーがあって、生け簀にカニや北極海の魚介類が泳いでいるのです。
 店内には箸や紙皿、醤油、みりん、お酒、お米は何種類も所狭しと並んでいるのです。生け簀の蟹、魚を指定するとその場で茹でてくれるのです。私たちは、蟹を茹でてもらいみりん、醤油などで食したのです。
 生きたカニをその場でゆでて頂いて食べるおいしさは格別です。最後に軽飛行機をチャーターし、デナリ山々や氷河、雪原そして断崖絶壁に生息するヤギの群れや海の生き物のラッコ、シーライオン、パフィン、トナカイを機上から追いかけるのです。私たち3人でアラスカの大自然を満喫したのです。息子と過ごした幸せの時間でした。でも、このアラスカの大地を軽飛行機の足元から冷気が侵入するのを見ている翼をの隙間から見たり、風防を通してみる冬のデナリ山(マッキンリー)人間を飲みこむ牙を持っていることが、夏山を見ても納得するくらい恐ろしいほど、翼をぶるぶる震わせ、もぎれるような音を立てて稜線すれすれに接近するのです。
 アッツと声を上げたくなるぐらいのパイロットはこれでもかと3人を冷や冷やさせるのです。我々が驚く様を喜んでいるようでした。アラスカのパイロットの腕前は世界一でそうです。飛行機が操縦できないと買い物にも行けないのです。

アラスカ、カトマイの豪快な鮭釣り

2017.11.23 (木)

 凍てつく大地・アラスカは、野生動物をはぐくみ、そこに繰り広げられる動物連鎖は、アリューシャン・マジックと呼ばれます。アリューシャン・マジックはプランクトンが大発生して、南の海で子育てを終えたクジラがなん百頭と集まり、またプランクトンを求めて種々の魚群が集まるのです。小魚を求めて、ハシボソミズナギ鳥が何万羽と集まり、動物連鎖の過程で最後に南鳥島から阿呆鳥が飛んでくる壮大なドラマです
 私たちが知り合ったトラッパー伊藤さんは、5月の連休にフェアバンクスの駅に降り立ち、みぞれ交じりの天候で、寒さを堪え乍ら駅のベンチで一晩明かしたのです。寒さに震えながらアリューシャン列島の付け根カトマイに向かったそうです。
 私たちも、息子とともにヒグマが鮭とる瞬間が見られる事の情報を昨年の旅行でアンカレッジの旅行案内所で聞いたのです。
 フェアバンクスから、アラスカ鉄道に乗って更に軽飛行機でカトマイに乗り継いだのです。軽飛行機を乗り継ぎながら2度目の飛行場(ただの広い空間)に降立ったときです。無数のカモメが騒いでおりました。見るとヒグマの姿を目撃したのです。突然ヒグマが湖沼の鮭の群れに飛び込んだのです。鮭を咥えて出てきました。望遠レンズで撮影できたのです。一瞬の出来事でした。
 アラスカは、ほとんどの家庭で軽飛行機(価格は中古機は250万円くらい)を所有しているのです。なぜかというと、アンカレッジから北極海に抜ける国道がブルーベイまで1本しかないのです。
 この広大な凍てつく大地と湖沼群は、東西1500kmを超える移動には飛行機に頼らければならないのです。軽飛行機はフロートのついた軽飛行機で湖が係留場所なのです。
 このアラスカは、湖沼の数のほうが人口より多いのです。湖沼が飛行場にかわるのです。私たちは軽飛行機を乗り継いで目的地のカトマイにつきました。もう、降り立った場所からクマに注意の警告板です。
 説明文には鈴や話し声でクマが近づか無いようにする旨が書いてありました。飛行場には私たちのほか3、4人が釣りの道具を持って待っていました。案内人がやってきて、ジープに乗って釣り場に行き、私たち3人もモーターボートに乗って釣り場に行ったのです。
 鮭が「早く釣って」とあちこちで跳ねていました。気持ちは早く釣りたいと焦るばかりです。私たちはポイント変えながら、2時間ぐらいルアーフィッシングをしたのです。息子は、72CMの鮭を釣り上げました。私も何度かの引きがあったのですが、ルアーフィッシングは初めてで、私と妻は失敗の連続で釣り逃がしました。
 キャビンに行き、釣り上げた鮭と一緒に撮影したのです。キングサーモンも釣れるとの事で鮭もメザシに見えてしまいました。いかに大物が釣れるかです。
 モーターボートを運転していた方が、釣り上げた鮭を3枚におろしドライアイスの発泡スチロールのボックス入れて日本まで持ち帰られるようにしてくださいました。彼は、大学教授で休みの時に趣味で案内をしたり、モーターボートの運転手をしてるそうです。私たちは、カトマイの近くのヒグマの棲息する国立公園に行ったのです。別のレンジャーの案内で、4mくらい高さの木製の展望台に行った時です。
 水面すれすれの桟橋に差し掛かった時、紅サケが群れを成して泳いでいたのです。撮影しようとカメラを構えました。すると女性のレンジャーが飛んできて、その時100~150mのところでヒグマが昼寝をしていたのです。
 ヒグマは、寝ていても匂いで襲ってくるから危険です。指定されたところ以外は危ないです言ったのです。息子とレンジャーの話ではバンガロウに泊まったお客さんが、夜中にトイレに行こうとしたらドアの向こう側にヒグマがいて、一晩中トイレを我慢した話をしてくれたのです。
 当然、公園内といえどヒグマは野生の動物ですからいつ襲うかわかりませんと息子に言ったそうです。
 インホメイションセンターで聞いたヒグマの餌場に行ったのです。高低差が5mから6mくらいの滝があって釣り人がいました。鍵がかかり入れません。
 レンジャーに聞くと、鮭をを求めて朝早くクマが集まるそうです。ところが一般の人は時間でしか入場できないそうです。入場許可証が必要で、プロカメラマンなどの特殊な人以外は無理だそうです。
 でも、カトマイのあちこちでクマは見られるのです。この滝のあるカメラのポイントは諦めることにしました。帰りの時間になったので軽飛行機を乗り継いでホテルの戻りました。鮭釣りの面白さを味わった1日でした。
息子も今では昭和大学で准教授なり教鞭を執っておりますが 、私たちにとっては息子です。そう言えば熊は峰の30km以上離れた死体の肉をかぎ分け、死体の置き去られた場所を見つけ、その日と空腹から守るのです。それは、直線距離ですので 、我々の道路移動間隔ですと50km優に超えることです。途方もない嗅覚の動物です。麻薬犬、災害時の救助犬も人間の60倍の嗅覚で救助したり、捜索しているのです。昆虫や動物プランクトンの生態系の解明を急いで訳なのです 。

アラスカの大自然の白熊に消えた星野道夫さんの話

2017.11.20 (月)

 最初(2010・8月)にアラスカを旅した時、妻が足を捻挫してどうしようかを悩んでおりました。私は、[チャンスは後ろ髪のない美人だよ」ど無理やり連れだしたのです。
 成田に行ってその悩みが吹っ切れたのです。広い飛行場の中で、杖をついて歩いておりました。スチアーデスさんと思われる方が「足は大丈夫ですか。車いすをご用意させていただきます。」近づいてきました。妻に車椅子を「どうぞ」と言って、通関手続きも乗務員専用の窓口まで案内してくださたのたのです。それからアンカレッジの空港まで全部連絡が行き届き、車椅子が行くところ全部手配されていたのです。
 それだけではないのです。アラスカの列車、デナリ公園内のバスまで全工程を車椅子または補助具が手配済みだったのです。先進国の旅は、何不自由なく快適に過ごすことができました。
 2人旅でしたので時間的余裕が有りとっても助かりました。
アンカレッジの旅行案内所で、どんなスケジールにしようかと立ち寄りました。
 そこには素敵な写真集が置いてありました。20万頭のカリブー(トナカイ)の移動の写真です。早春の壮大なドラマです。見てみたい。そんなたわいもないことを妻とつぶやいていると、アラスカのガイドさんのような方が「星野道夫」さんといって、命がけで白熊の写真を撮影された日本人ですと教えて下さいました。いろいろ質問すると白熊の撮影に命を落とされたそうです。
 私は、厳冬期のマッキンリー散った植村直己さんを思い出していたのです。
 日本人は、命がけで自分の人生をかけた人たちが百年も前からいたことを思い出したのです。南極点を目指した白瀬中尉もそうでした。また、今も若者が南極点を単独で走破して、白瀬中尉の足跡を辿る若者の話をTV見る機会がありました。
どうしてなんだろう。自分の脳裏にかすめたのです。遥か20万年前に日本人の祖先が、命がけで丸木舟(?)や葦船に乗って何千と言う古代人が黒潮をに乗って、あるいは、厳冬期の氷結したサハリンから海をわったって来たそうです。
 日本人のDNAが冒険心がかきたてのでしょう。アラスカには大自然が手付かずのまま残っているのです。私たちが、アラスカ鉄道に乗り、バスを乗り継いでデナリ公園に着いたのです。空がどんより曇り太陽が見えません。これは、半年前に自然発火の煙が雲のようになり曇天模様に見えるのです。
 米国人は自然に発火(ブッシュ・ファイヤー)したものは、自然に任せ、消えた後に芽吹いた植物は、また別の生態系を作り、自然の循環に任せるのが一番良いと考えているからです。
 日本人には考えられない思考です。アラスカの広さがどれ程かわかるような気がします。アラスカには、幽霊林といわれる火災で真っ黒に焼けただれた森林地帯があるのです。
 翌朝、デナリ公園の観光に出かけました。トイレ休憩の時です。ガイドさんが面白い話をしたのです。トイレに寄った時です。ヒグマが現れ、みんな驚いて、トイレも行けずバスに駆け寄ったのです。一番先に逃げた人が男性だったそうす。もうこうなると恐ろしさが先に立って、レディーファーストどころでないそうです。「いつクマがでるかわかりません。終わった方からバスへ戻ってください」とのことでした。
 バスの車窓から、間近にグズリー、カリブ、ヘラ鹿、ドールシープいろいろな動植物を見て回りランチです。ボリューム満点のステーキでした。私たちと一緒のバスに、膝枕を持った2人のお相撲さんのようなおデブさんが乗り込んでいました。ランチの後、山小屋に着き英語での説明に意味不明でしたが、2組に分かれ3時間の自由行動です。まあいいやと思いながらついていくと、清流があって浅いざるみたいな道具を渡されました。昔、砂金が採取されたらしく、他の人の真似をしてやってみました。砂金は取れなかったけれど、採種した石をハンマーで割ると銅の混入した黄銅鉱という石でした。
 佐渡島の砂金採りと違い、大自然の中での砂金採りは豪快でした。雄大なデナリ山やコケモモの自生する景観に圧倒されました。バスで公園の出発点につき、回遊バスでキャビンに戻り、楽しかった一日の思いふけりました。
 星野道夫さんの命日は昭和42年8月8日です。なぜ、彼は、白熊に追いかけられたか。ちょうどこの頃が、冬眠をする白熊にとって脂肪を蓄えなくてならない時期なのです。白熊にとっては、人間も他の動物も餌にしか見えないのです。また、彼は写真家魂がうずいて、より感動するシャッターチャンスを狙ったのでしょう。
 自分の撮影に対する気持ちと比較して思わざるにいらません。私も写真家田村さんとケニヤに行った時のことです。朝日で輝くキリマンジャロを狙って、ホテルのゲートを出て、200mくらい行った時です。ホテルのガードマンが、駆け足で飛んできて猛獣は遠くにいても、すぐ人間に追いつき危険ですからホテルに戻ってくださいと叱られた経験があるのです。
 星野道夫さんも、夢中になりすぎて、望遠レンズを覗いてライフルを手にする暇もなかったのだと思います。星野道夫さんのご冥福をお祈りいたします。
 また、写真家田村寛一さんが夕日で逆光なった樹木に鷲が泊まり、ジープの運転手に90cm右と指図されていた事を思い出し、プロは違う視点で撮影されたことを思い出しました。 

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