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記事一覧

1000人風呂と酸ヶ湯湿原の散策して

2019.07.11 (木)

 ガキ大将の一人旅、日本一長い路線バス、酸ヶ湯に近づくに積雪が2m近づくいたので、室堂の雪の大谷も知らないガキ大将は驚きの連続でした。酸ヶ湯一帯は小さなスキー場です。初回の旅は、横目で見ながら浅虫に向かいました。

 光子と行った時は、湯治客の平屋の建物を左手に見ながら1000人風呂のある本館に暖簾を潜ったのです。仲居さんの差し出すお茶に渇きを潤し、ゆったりした気分を味わいながら、明日の旅路を語り、ひと風呂浴びようと手ぬぐいを肩にかけ、光子に誘ったところ、躊躇していた心を背中を押して、1000人風呂に行きました。
 湯治客は年寄りが多かったのです。しかし、心配は吹き飛んだのです。さすが1000人風呂です。湯気で入ってるおばちゃん・おじちゃんの姿が微かにわかるくらいで陽炎のごとしです。2人でくつろぎながら湯けむりを頬に感じていました。気持ちはゆったり、気分は大船に乗った人魚姫です。体中のほてりを、雪国の冷気に覚ましながら仲居さんの用意した膳に山の幸をほおばったのです。

 朝飯を平らげ外に出ると青森大学をの学生さんがボランテアで湯治客の若者を集めて酸ヶ湯の周りの八甲田湿原の散策の誘いです。私たちも加わり8人ぐらいのトレッキングです。木道を散策しながら1輪草や食虫植物のモウセンゴケを説明してくださいました。その他も説明があったのですが記憶から消えてしまいました。前方に見える八甲田山系は早春のときめきを表現しておりました。1時間ぐらい散策し、若者の好奇心をかりたってくれました。良い酸ヶ湯の思い出を残してツバメマークの路線バスに揺られながら、浅虫温泉に向かいました。

東京には空がない・・・・・・。智恵子抄とヒメマスにかけた男

2019.07.11 (木)

 千恵子は、下町の家々にはさまれた東京の空、あるいは下町の煙突から吐き出される石炭の鼻を衝く黒煙を赤城おろしや筑波降ろしさいなまれ「東京には空がない」精神的にうつになっていった・・・・。最愛の妻の千恵子の心の痛みを思う高村幸太郎は安達太良山のふもとに居を移したのです。そんな心優しい太郎でさへ、勝ち抜け大東亜戦争号「若櫻」12月号で12月8日4度来ると少年志願兵に志願のとばかりに歌い上げています。戦争中は反戦詩人では3度のご飯が食べられなかったのでしょう。

 高村幸太郎は、昭和28年十和田湖の観光に「乙女の像」建てたのです。モデルは最愛の妻、千恵子の裸婦像です。光子と私はの陸奥(みちのく)の旅で奥入瀬渓谷~酸ヶ湯~浅虫温泉に向かったのです。発荷峠より眺める真夏の十和田湖は群青色の水を称え、入道雲の白い世界に包まれていました。十和田湖畔の散策を楽しみ、滝と早瀬そして胸いっぱいに森林浴の心地よい空気をダイナミックに、そんな思いで酸ヶ湯行国鉄バスの乗ったのです。
 奥入瀬渓谷、台風の度に流れを変えていました。3里半ぐらいの少し手前に、酸ヶ湯への湯治客や行商人から金品を奪う「女盗賊の岩の室」はバスからは見ることができませんでした。流れが変わったせいでしょうか。バスの経路が違ったのでしょう。

 奥入瀬の渓流は白い波を立て、真夏でも新緑の木々の葉から、何条にも光彩を放っていました。見るものに旅情をかき立てます。

十和田湖には努力と血のにじむような努力の結果、魚の住まないカルデラ湖から魚跳ねる十和田湖に代わりm温泉旅館、ホテルが客を呼び命のある十和田湖に変化したのです。
 十和田湖は、太平洋に流れ込む河川は奥入瀬のみです。この早瀬を登りきる魚は「ヒメマス」しかいないのですが気が付くまでいろいろな魚で試してみたのですが失敗に帰したのです。海から遡上して、早瀬、滝を登らなければいけないのです。20年以上の歳月をかけて、国の許可なども取り付けたのです。和井内家は家柄がよく、津軽藩の城代家老職で、そんな苦労をする必要なかったのです。
 ヒメマスの放流に成功したのは江戸時代の1858年でした。

悲しみの鳴子のこけし

2019.07.10 (水)

 最近、野田市で父母による虐待で10歳の栗原心愛ちゃんのニュースがあり、両親は逮捕されましたが行政の対応が遅れたことに憤懣やるかたない思いと思います。

 日本の歴史の中に埋もれだけであって、子殺しは過去の歴史たくさんあるのです。鳴子のこけしもお土産として売られておりますが、東北地方は寒冷地のために飢饉に見舞われることが多く、生まれたばかりの乳児は「間引き」されたのです。
 日本は儒教精神がいきわたり、尊属殺は重罪だったことを考えれば解ると思います。特に江戸時代は三大飢饉と呼ばれているのが、元禄・宝暦・天明の飢饉です。浅間山が噴火した天明の飢饉は関東・東北に被害を出しました。

 私の推測するに、天明の飢饉の後「参勤交代」のまたは陸奥(みちのく)に往来する人、行商人などが買い求め、あるいは湯治客などがお土産として買い求め、故郷へ持ち帰って土産になったと推測します。
 鳴子のこけし「悲しみのこけし裏」にあった話と思っております。

 現代は尊属殺・卑属殺も同等になり、すべて個人として人権が守られています。そんなことを思いながら、社員旅行で鳴子温泉の湯に浸ったのです。朝起きて、下駄をしながらこけしの工房を覗きこけしを6本ほど買ってきました。桜井工房・国崎斉司氏・松子氏他3店工房のです。
 こけしの歴史は、江戸末期と言われております。天明の飢饉後と重なる気がいたします。明治は「富国強兵」列強に肩を並べる如く殖産に政治が舵を切ったのです。

岩崎弥太郎がこよなく愛した八幡平

2019.07.10 (水)

 東北一人旅は、仙台・松島から始まって、特急列車で仙台をたち平泉に立ち寄った。平泉は陸奥の王者たちの100年の栄華を築き上げ、鎌倉、京をも上回る素晴らしい都だった。北上川やその支流で産出する砂金と10万頭の馬をバックボーンに栄えたのです。

 平泉のことは、前述したので割愛させていただきます。平泉の中尊寺等を観光して、ゴールデンウイークの八幡平に向かったのです。路線バスに揺られながらテキサスの山々を見るような赤茶けた風景に初めて遭遇し、こんな無機質の大地を弥太郎はこよなく愛したのか理解できなかったのです。
 後でわかったことですが、東京駅の八重洲口付近の三菱館に行ったときです。私が見た風景でなく青々とした牧歌的な牧場の風景だったのです。私は、荒涼とした風景しか見てないので間違ったイメージの中に気が付かなかったのです。
 私の見た風景は、鉄鉱石の採掘場跡地だったのです。当時は、鉄鉱石が採掘されていたと思います。

 頂上近くまで行くとゴールデンウィークに雪景色です。スキー場があったのでリフトに乗って滑ってみました。高3の時、蔵王スキー場に行って以来の事です。もしも、捻挫したら一人旅でどうすればいいんだそんな不安に駆られ1回で辞めました。

 2回目の八幡平はやはり5月でした。雪のため、観光バスが、これ以上は通行できないということでホテルの入って昼食をとって露天風呂の入ったのです。酒好きのご人であったら、雪見酒と言いたいほど素敵な雰囲気を味わった一時でした。旅の醍醐味を堪能したのです。

 観光バスが通行止めで動けなっかたところにのですがおばちゃんがアイスを売っていたのです。物好きの私は寒い中買ったところ、それは美味しかったです。そういえば、ロシア人も真冬に暖炉の前でアイスを食べる話を聞いた記憶があります。

虎視眈々と天下を狙う正宗・・・・・。

2019.07.09 (火)

 正宗は陸奥にあって、独眼竜の奥深くに秘めた63万石の外様大名でした。
 しかし、戦国大名で陸奥で覇をとなへ、領国を拡大したのです。また、支倉常長一行を遣欧使節団として派遣したのです。バチカンの教皇パウルス5世に国書を差し出し、日本におけるカトリックの王と認めてもらい、スペイン国王と手を組み統幕計画を実行しようと計画したが、当時スペインは植民地の権益をイギリスに奪われ、国力が下降し幕府転覆計画拒絶され、計画は水泡に帰したのです。そのうえ徳川幕府は、3代将軍家光の時に鎖国令が確立し、長崎の出島にてキリスト教(耶蘇教)でないオランダ、中国、朝鮮、琉球のみ貿易を許可したのです。
 支倉常長は鎖国の最中に帰国し、蟄居させられ座敷牢に入れられたのです。
 しかし、早晩支倉家は、蟄居を解かれ、禄をもらい現在まで血筋がつながり仙台に住んでいるとのことです。
 遣欧使節団の中には現地の女性と結婚し、haponnの名前で呼ばれている人々がおります。

 話は変わりますが、高山右近は5大老の前田利家が亡くなり、家康に「耶蘇教をとる日本とるか」詰め寄られ、スペイン領のフイッリピンに住んだのです。義父宗春の慰霊の旅でのフイリッピンのマニラ市で右近の像を見てきました。

瑞巌寺は正宗の最後の戦い城?。

2019.07.09 (火)

 自分ながらよく旅に出たものと思っております。瑞巌寺は、一人旅と瓦問屋の招待で妻と一緒にの3回目すが今でブログを書きながら、牡蠣を食べに乍らに、行ってみたいと思っております。
 瑞巌寺には、長谷川等伯の虎(豹)の襖絵、欄間の根来刑部座衛門の透かし彫刻、庫裡の櫓(鉄砲の狙撃の櫓)などもう一度ジックリ見学したいと思っております。

 松嶋は、天然スレートの産地です。3/11東日本大震災で、70年ぶりの新築当時の姿に、東京駅の中央改札口の屋根を剥がしたスレートを保管していた倉庫が津波で流され、流失したのです。管理していた石巻市の熊谷産業が社員・社員の家族で70%回収し、外国産の天然スレートを追加して辰野金吾が設計した、ドーム屋根に戻し完成にこぎつけたのです。このニュースを見て、同じ同業者として感心しました。それも、会社、自宅の復旧を後にしてです。

 松島と言えば、五大堂です。五大堂は、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のため建立したのが始まりで、四獣が屋根にあるのです。門前の小僧です。最初の旅行で玄武を撮影してきました。今度の旅で、後の白虎、青龍、朱雀を詳細にまた、位置関係を確認しようかと思っております。その後、正宗が建立した五大堂は、最北で最も古い桃山建築です。

 松島の代表的岩の仁王岩です。地震、津波、台風で頭の部分が落下するのですが、2度目の時はセメントによる接続されており、素人感覚で明らかに頭だけ乗っけた感じでした。せめて、同質の岩の粉体を噴霧接着すればと思いました、
 芭蕉が見た美景絶景の姿はありません。😢

冬の摩周湖でエッジ付きのブーツ力を発揮

2019.07.07 (日)

 50年以上前の貧乏3人組で3時間ぐらい待ったのですが、とうとう霧の摩周湖でうっすらと 今回は流氷と札幌雪祭りがメインです。
 良く見えました。しかも、霧氷の木々が華を添えました。摩周湖は7000年前に爆発ででき、流れ込む川がないので、透明度は世界一です。プランクトンなども居ないため、魚も住めないのです。輪廻転生が無く、イスラエルの死海のようです。死海は濃度の高い塩湖です。

 摩周湖は年間100日以上霧が発生するのです。理由はオホーツクの寒流と太平洋の暖流がぶつかって霧の発生条件そろうのです。まして、知床半島の山々が衝立になって霧の条件を満たすのです。摩周湖のカルデラ湖は211mの深さがあって、小島は基底は大きい岩なのです。

 今回、訪れた季節は真冬のため全てアイスバンで坂道は滑ります。小樽で買ったエッジ付きブーツは滑らずに効果抜群でした。ブーツは雪国で購入しべしと心がけよと助言します。

 弟子屈町から釧路を抜け根室本線で厚岸湾に行き、8月の終わりで寒くて焚火を炊いた思い出と日東化学の肥料工場があり、日東ユニカーの三浦君(寮で同室)釧路川にシシャモが波のように上ってきたのを干物にした乾物のシシャモを食べたのです。当時はまだ流通が悪く、高級料亭でしか食べられなかったのをおすそ分けしていただきました。

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