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記事一覧

貧しさも観光資源。カンボジアのトンサップ湖         

2017.11.30 (木)

アジア最大の湖「トンサンップ湖」そこには貧困にあえぐカンボジア人が、水上生活を営んでいます。
私が大学生の時、韓国いったのです。その頃の韓国は、まだ仏教人が数多くいました。釜山の近くの梵魚寺にって驚いたのです。土下座のカンボジア人と同じく、韓国も土下座の仏教でした。
カンボジアのアンコールワットも同様でした。
アンコールワットから、トンサップ湖いく途中、車窓から眺めた風景は、内戦の傷跡が残る風景と蟻塚の景観でした。ガイドさんの説明では、電線が引かれている家は富裕層なのです。
貧困層は、葦で日陰を作り、昼間は、縁台で寝転がっているんです。
働く職場もなくその日暮らしの生活だそうです。また、内戦で地雷をあちこちに埋め、足のない人、手のない人が5.6人で音楽を奏でたりしながら観光客に恵んでもらって極貧の生活に耐えているのです。
日本でも昭和20年前半に、傷痍軍人が上野公園などに見かけたのです。
トムサップ湖までの道すがらよく見る風景でした。戦争の悲惨さを否応なしに刷り込まされのです。
トムサップ湖に行ってまた衝撃を受けました。パンツも履いてない6歳くらいの子供が遊んでいるのです。しかも、小学生くらいの子供が木造船を操り、大人がお金を集金していたのです。ネパールと同様で小学校は頭のよい子が1人代表で行くのす。現実に働く子供が多いのです。働き手でない女の子は医者にもかかれ
ず生きることさへ叶わないのです。ネパールのエベレストに行ったとき、女医の
生越さんが教えてくたのです。そのことを思い出思い出しました。また、お兄さんが路上のカーバイトの灯の中で勉強を教えていたのです。船がランチのレストランへ行く途中です。10歳くらいの女の子が3m位の錦蛇をマフラーのように首に巻き付け、写真を撮らせ、お金をめぐんでもらっているのです。
毒蛇でないことは解っているのですが、私にはできません。このトムサップ湖には何千人という水上生活者共存しているのです。湖の水は飲料水になったり、洗濯場であったり、トイレの役割(厠)もしているのです。また、水上生活者は観光客に日用品・土産まで売り物しているにです。
まさに、貧困を売り物にして、経済サイクルがなりたっているのです。内戦による被害者なのです。

アンカレッジのタワーホテルと越後屋

2017.11.27 (月)

1964年3月27日アラスカ大地震が発生、マグニチュード9.2と計測さえたのです。
東日本大震災は、マグニチュードは9.0でした。アラスカの大震災は、人口密度が低いので被害は死者131人に止まったのです。震度では0.2上回ったのです。この地震で、アンカレッジのタワーホテルは被害がなっかたのたのです。
私たちは、今回もインターネットで予約して、息子と落合い、宿泊したのえす。
余談ですが、アラスカ鉄道は、黄色とブルーの列車で、食堂車は、ガラス張りでデナリ山がよく見えるのです。
また、車掌さんは、カッコよくて、ハンサムで女性なら一目ぼれをするほどです。
1日1往復のためデナリ山がよく見えるところで30分も写真撮影のため、停車するのです。
アンカレッジのタワーホテルはキッチン用品や電子レンジがあって自炊ができるのです。また、キャンドルがあらゆるところのあって、北極のホテルの雰囲気がとっても良いのです。
また、徒歩5分位のところに、越後屋という日本のスーパーがあって、生け簀にカニや北の海魚介類泳いでいるのです。
店内には箸や紙の皿、醤油、みりん、お酒、お米は何種類も所狭しとあるのです。
生け簀の蟹、魚を指定すると料理や茹でてくれるのです。私たちは蟹を茹でてもらい。みりん、醤油などで食したのです。
生きたカニをその場でゆでて頂いて食べるおいしさは格別です。
最後に軽飛行機をチャーターし、デナリ山々や氷河、雪原また、断崖絶壁に生息するヤギの群れや点のような海の生き物のラッコ、シーライオン、パフィン、トナカイを機上から垣間見たのです。
3人で、アラスカの大自然を満喫したのです。
息子と過ごした幸せの時間でした。

アラスカ、カトマイの豪快な鮭釣り

2017.11.23 (木)

凍てつく大地アラスカは、野生動物をはぐくみ、そこの繰り広げられる植物・動物の連鎖は、アリューシャン・マジックと呼ばれます。
アリューシャン・マジックはプランクトンが大発生して、南の海で子育てを終えたクジラがなん百頭と集まり、また魚群集まるのです。
小魚を求めて、ハシボソミズナギ鳥が何万羽と集まり、最後に南鳥島から阿呆鳥が飛んでくる壮大なドラマです
私たちが、知り合ったトラッパー伊藤さんは、5月の連休にフェアバンクスの駅頭に降り立ち、みぞれ交じりの天候で、寒さを堪え乍ら駅のベンチで一晩明かしたのです。それでカトマイに向かったそうです。
私たちも、息子とともに、ヒグマが鮭とる瞬間が見られると、昨年の旅行でアンカレッジの旅行案内所で聞いたのです。
フェアバンクスから、アラスカ鉄道に乗って、さらに軽飛行機でカトマイに乗り継いだのです。途中の軽飛行機を乗り継ぎ、2度目の飛行場に降立ったときです。無数のカモメが騒いでおりました。見るとヒグマがいたのです。
突然ヒグマが、湖沼の鮭の群れに飛び込んだのです。鮭を咥えて出てきました。望遠レンズで撮影できたのです。一瞬の出来事でした。
アラスカは、ほとんどの家庭で軽飛行機(価格は中古機は250万円くらい)を所有しているのです。
なぜかというと、アンカレッジから北極海に抜ける国道が1本しかないのです。
この広大な大地で、1500kmを超える東西の移動は、飛行機に頼らければならないのです。軽飛行機はフロートのついた軽飛行機です。
また、湖沼の数のほうが人口より多いのです。湖沼が飛行場にかわるのです。
また、乗り継いでカトマイにつきました。もう、降り立った場所からクマに注意
の標識があるのです。説明文には鈴や話し声でクマが近づか無いように書いてありました。
飛行場には私たちのほか3、4人が釣りの道具を持っていまた。案内人がやってきて、ジープに乗って釣り場に行き、私たち3人もモーターボートに乗って、ポ
イントに行ったのです。
鮭があちこちで跳ねていました。気持ちは早く釣りたいと焦るばかりです。ポイ
ント変えながら、2時間ぐらいルアーフィッシングをしました。息子は、70CMくらいの鮭を釣り上げました。私は何度かの引きがあったのですが、ルアーフィッシングは、初めてで取り逃がしました。
キャビンに行き、釣り上げた鮭と一緒に撮影したら、キングサーモンも釣れるので72cmの鮭もメザシに見えてしまいました。いかに大物が釣れるかです。
モーターボートを運転していた方が、鮭を3枚におろしドライアイスを発泡スチ
ロールのボックス入れて日本まで持ち帰られるようにしてくださいました。
彼は、大学の教授で休みの時に、趣味で案内をしたり、モーターボートの運転手
をしてるそうです。私たちは、カトマイの近くのヒグマのいる国立公園にいった
のです。レンジャーの案内で、4mくらいの木製の展望台に行ったのです。
桟橋に差し掛かった時です。紅サケが、群れを成して泳いでいたのです。
撮影しようとカメラを構えました。すると女性のレンジャーが飛んできて、100
~150mのところでヒグマが昼寝をしていたのです。
ヒグマは、寝ていても匂いで襲ってくるから危険です。指定されたところ以外は
危ないです。」言ったのです。息子とレンジャーの話ではバンガロウに泊まったお客さんが、夜中に、トイレに行こうとしたらドアの向こうにヒグマがいて、一晩中トイレを我慢した話をしてくれたのです。
公園内といえど、ヒグマは野生の動物ですからいつ襲うかわかりませんと息子
言ったそうです。
インホメイションセンターで、聞いたヒグマの餌場に行ったのです。高低差が5
mから6mくらいの滝があって、釣り人がいました。鍵がかかり入れません。レ
ンジャーに聞くと、鮭をを求めて朝早くクマが集まるそうです。ところが一般の
人は、時間でしか入場できないそうです。入場許可証が必要で、プロカメラマン
などの特殊な人以外は無理なそうです。
でも、カトマイのあちこちで.クマは見られるのです。この滝のあるカメラのポ
イントは諦めることにしました。帰りの時間になったので軽飛行機を乗り継いで
ホテルの戻りました。鮭釣りの面白さを味わった1日でした。

アラスカの大自然の白熊に消えた星野道夫さんの話

2017.11.20 (月)

最初(2010・8月)にアラスカを旅した時、光子は足を捻挫してどうしようかを悩んでおりました。私は、[チャンスは後ろ髪のない美人だよ」ど無理やり連れだしたののです。
成田に行って、その悩みが吹っ切れたのです。広い飛行場の中で、杖をついて歩いておりました。スチアーデスさんと思われる、美人の方が「足は大丈夫ですか。車いすをご用意させていただきます。」近づいてきました。光子に車椅子を「どうぞ」と言って、税関の通関を、乗務員用の窓口まで案内してくださたのたのです。それからアンカレッジの空港まで全部連絡行き届き、車椅子が行くところ、全部手配されていたのです。
それだけではないのです。アラスカの列車、デナリ公園内のバスまで行所は全部、車椅子または補助具が手配済みだったのです。先進国の旅は、何不自由なく快適に過ごすことができました。
2人旅でしたので時間的余裕が有りとっても助かりました。
アンカレッジの旅行案内所で、どんなスケジールにしようかと立ち寄りました。
そこには、素敵な写真集が置いてありました。20万頭のカリブー(トナカイ)の移動の写真です。
早春の壮大なドラマです。見てみたい。そんなたわいもないことを妻とつぶやいていると、アラスカのガイドさんのような方が「星野道夫」さんといって、命がけで白熊の写真を撮影された日本人ですと教えて下さいました。いろいろ質問すると白熊の撮影に命を落としたそうです。
私は、厳冬期のマッキンリー散った植村直己さんを思い出していたのです。
日本人は、命がけで自分の人生をかけた人たちが、百年も前からいたことを思い
出したのです。南極点を目指した白瀬中尉もそうでした。
どうしてなんだろう。自分の脳裏にかすめたのです。遥か20万年前に日本人の
祖先が、命がけで丸木舟(?)や葦船に乗って何千と言う古代人が黒潮をに乗っ
て、あるいは、厳冬期の氷結したサハリンから海をわったって来たそうです。日
本人のDNAが冒険心を描きたてのでしょう。
アラスカには大自然が手付かずのまま残っているのです。私たちが、アラスカ鉄
道に乗り、バスを乗り継いでデナリ公園に着いたのです。
空がどんより曇り、太陽が見えません。これは、半年前に自然発火の煙が雲のよ
うになり、曇天模様に見えるのです。
米国人は自然に発火したものは、自然に任せ、消えた後に芽吹いた植物は、また、別の生態系を作り、自然の循環に任せるのが一番良いと考えているからです。
日本人には考えられない思考です。アラスカの広さがどれ程かわかるような気が
します。
アラスカには、幽霊林といわれる火災で真っ黒に焼けただれた森林地帯があるの
です。
翌朝、デナリ公園の観光に出かけました。トイレ休憩の時です。ガイドさんが面
白い話をしたのです。
トイレに寄った時です。ヒグマが現れ、みんな驚いて、トイレも行けずバスに駆
け寄ったのです。一番先に逃げた人が男性だったそうです。もうこうなると恐ろ
しさが先に立って、レディーファーストどころでないそうです。「いつクマがで
るかわかりません。終わった方からバスへ戻ってください」とのことでした。
バスの車窓から、間近にグズリー、カリブ、ヘラ鹿、ドールシープいろいろな動
植物を見て回りランチです。ボリューム満点のステーキでした。
私たちと一緒のバスに、膝枕を持った2人のお相撲さんのようなおデブさんが乗
り込んでいました。ランチの後、山小屋に着き英語での説明に意味不明でした
が、2組に分かれ3時間の自由行動でした。まあいいやと思いながらついていく
と、清流があって、浅いざるみたいな道具を渡されました。昔、砂金が採取され
たらしく、他の人の真似をしてやってみました。砂金は取れなかったけれど、採
種した石をハンマーで割ると銅の混入した黄銅鉱という石でした。佐渡島の砂金
採りと違い、大自然の中での砂金採りは豪快でした。雄大なデナリ山やコケモモ
の自生する雄大な景観に圧倒されました。バスで公園の出発点につき、回遊バス
でキャビンに戻り、楽しかった一日に思いふけりました。
星野道夫さんの命日は昭和42年8月8にです。なぜ、彼は、白熊に追いかけられ
たか。ちょうどこの頃が、冬眠をする白熊にとって脂肪を蓄えなくてならない時
期なのです。白熊にとっては、人間も他の動物も餌にしか見えないのです。また、写真家魂がうずいて、より感動するシャッターチャンスを、狙っていたも
のと自分と比較して思わざるにいらえません。
私も写真家田村さんと、ケニヤに行った時のことです。朝日で輝くキリマンジャ
ロを狙って、ホテルのゲートを出て、200mくらい行った時です。ホテルのガードマンが、駆け足で飛んできて猛獣は遠くにいても、すぐ人間に追いつき危険で
すからホテルに戻ってくださいと叱られた経験があるのです。星野道夫さは、夢中になりすぎて、望遠レンズを覗いてライフルを手にする暇もなかったのだと思
います。
星野道夫さんのご冥福をお祈りいたします。
また、写真家田村寛一さんが夕日に逆光なった樹木に鷲が泊まり、ジープの運転手に90cm右と指図されていた事を思い出し、プロは違う視点で撮影されたことを思い出しました。

東條英機・ヒットラーそしてスターリン

2017.11.16 (木)

東條英機そしてヒットラー。スターリンのポツダム会談の舞台裏。
この3人ほどいろいろな情報が交錯し真実が見えてきません。
私は、ポツダム、モスクワ、サンペテロスブルグ、ベルリン、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ミュヘン、パリ、ロンドン、ウイーン「ゼーグロッテ」の地底湖を旅してみて、わたしは、昭和天皇、東條英機がいかに戦争回避に努力したか知ったのです。
日本の官僚の悪弊が、責任を誰かに擦り付ける印象があり、その策にはまったのです。
大東亜共栄圏の構想は、東京会談でインドのチャンドラポーズを初め、植民地の首脳が戦争のさなかに、解放を願って参集したのです。
東條は、近衛内閣の総辞職と天皇の依願で引き受けざるを得なかったのです。ヒットラーは当時のドイツはヨーロッパの列強国から第一時世界大戦の賠償額が天文学数字で、学校の学費さえも、ボストンバックに一杯に詰めこまなければ払えない状況を歴史で学んだのです。
イタリアは、植民地がなかったので、世界恐慌のインフレで経済が破綻していたのです。日本も満蒙を属国にしなければならないくらい経済が破綻寸前でした。
石原莞爾、板垣征四郎が1個師団で半月足らずで満洲国併合したのです。2人の構想は、当時、日ソ不可侵条約の下で、黒竜江の国境を越えなかったのです。しかし、日本陸軍は、タブーを破って超えてしまったのです。その為、スターリンは昭和20念8月8日、日本の野村大使通じ宣戦布告したのです。
また、ヒットラー率いるドイツ軍が、破竹の勢いでモスクワに侵攻したのです。
日本陸軍は、有頂天になって、ドイツ軍はシベリアの黒龍江省まで攻め入ると誤
認したのです。
ところが、スターリンは、モスクワ市に火を放ち、3日3晩で街のすべてを焼き
尽くしたのです。
ドイツ軍が厳冬の食糧補給を絶たれ、凍死するもの相次ぎ、ナポレオンの二の舞
をしたのです。戦意、戦力をなくたドイツ軍は、おそらくナポレオン軍と同じく
10分の1の戦力になり、ベルリンに敗退したのです。
日本軍は、そのことを知らず、黒竜江を超えてしまったのです。
また、スターリンはレーニンを追い落とし独裁体制を引き、また、戦時中の食糧
不足、また、反スターリン派を殺し100万人以上といわれる人命を奪ったので
す。
ヒットラーも何百万人といわれるユダヤ人、ホローコーストをアウシュヴィッツ
やビルケナウで殺害したのです。
日本軍は南京事件で中国人を殺害してないのです。中国が捏造記事として騒ぎ立
ててるのです。それどころか、日本軍は南京市民に対し、食料を分け与えたので
す。
これは、昭和天皇の御心と東條英機そして松井大将「皆同胞」の寛容と慈悲の現
れだったのです。
南京の市民は、数日のうちに20万市民が25万人膨れ上がのです。この事実は、外国の従軍記者さえも虐殺の記録がないのです。
杉原千畝氏だけが、ユダヤ人を満洲に安住地を与えたわけではないのです。天皇、そして、拝命を受けた東條英機もビサ発給に協力していたのです。
ところが陸軍が暴走し、東條・杉原・松井大将の努力を水泡に期したのです。
ヨーロッパ戦線で、ヒットラーが第2次世界大戦の発端を作ったのです。
ドイツは古くからユダヤ人・ホローコーストは国家レベルで、異常なほど罪のな
い人々を迫害したのです。
東條はいま語られている人物像でなく、近衛内閣、天皇の推挙があって、内閣を
組閣したのです。
東條は、最後まで戦争回避に尽力したのです。しかし、米国がハル・ノートとい
われる日本国の飲めない条件をだし、日米開戦を一番望んだのは、イギリスの
チャチールです。答えは、ロンドンは、ドイツ・メッサーシュミットの空爆に
陥落寸前であったのです。当時、アメリカはモンロー主義を貫き、他国に対し干
渉せず、干渉されずの思想でした。世界恐慌はニュデリー政策で解消に向かって
いたのです。ヨーロッパ各国は植民地支配のよって、どうにか切り抜けていたの
です。
しかし、ドイツは天文数字の賠償金で、国民はインフレに喘いでいたのです。日
本はハル・ノートを突き付けられて、石油・ゴムの禁輸政策によって、生存権さ
えも奪われ状況下あったのです。
まして、日本の暗号は解読され、尾崎・ゾルゲの国際スパイ事件によって、真珠
湾攻撃はソ連を通じて、米国トルーマン大統領に報告されていたのです。
そして、ポツダム会談は戦勝国の会談の場で、ソ連が北海道の分割(釧路、留萌
の北側)望んでいたのですが、アメリカのルーズベルトは、拒否しアメリカ1国
の占領下に置かれたのです。
ミュヘンは、ヒットラーの若かりし頃、画家を志したか場所で軍事参謀本部が
あったところで、今、観光客や市民に時を知らせるからくり人形があります。
サンペテロスブルグは、ソ連時代レーニングランドと呼ばれ、コミュンテルンの
盛んな市でした。ベルリンは、第2次世界大戦の遺跡がたくさんあります。
パリは、ヒットラーによってすぐ陥落したため、フランスは戦勝国から外された
のです。
ゼーグロッテは、戦況悪化して来たときに、地底湖の洞くつで、メッサーシュ
ミットの秘密工場として利用されたのです。余談ですが、イタリアのムッソリー
ニはヒットラー信用してなっかたのです。
また、ヒットラーは、ロシアに勝った日本人を黄禍として信用してなかったんで
す。
また、天皇の(当時、皇太子の誕生日に7人の絞首刑が確定・昭和天皇の誕生日
に刑が執行)誕生日に執行されたのです。交際法上は全員無罪ですが、アメリカ
によって見せしめの極東軍事裁判だったのです。

火鉢を抱いて仮面劇、走るパンダ(成都)

2017.11.13 (月)

チベットの旅の旅を終え、明日は日本です。今、成都のホテルに戻ってきました。最後のお別れパーティーの豪華な晩餐会(?)です。F女子の提案で仮面劇を見ることになりました。
とっても素晴らしそうです。ガイドさんにチケットをお願いして、全員で出かけることになりました。
成都の空は、澄み切って、星が煌めいております。天の川が、東西に大河のごとく悠々流れ、私たちの子供の頃の星空でした。
懐かしく見入り、他の旅人も同じ思いで見たことでしょう。
真っ暗な劇場について、チケットを渡し、中に入って驚きました。屋根がないのです。中国の音楽が流れ、人影が少なく、最前列の椅子に一団になって座りました。
成都は日本の長野市の高度と同じ600mくらいの高さです。冬の1月初旬の気温を考えてください。屋根がないことは、外気温と同じなのです。
まして、高度があるのです。寒い事この上なしです。劇場の従業員が火鉢を運んできたのです。3人に1個の割合です。手と顔が温まる程度です。私たちは、高校生ぐらいまで暖房器具といえば、火鉢とコタツの時代でした。今では、すっかり慣れてしまった、エアコンとフアンヒーターです。
それでも、屋根があって囲まれた部屋です。想像してください。
客がぞろぞろ入ってきました。少しは、体温の温もりで増しになってきたのです。
待つこと40分位、独特のドラと音楽で、少しざわめき始めました。やっと開演です。口上が流れ、開幕です。大股で飛びながらの入場です。いろいろ演目で、楊貴妃と三国志が演じられたのです。
T女子の言葉道理、目を見張るものでした。写真をカシャカシャやっているうちに寒さも忘れ、見入ってしまいました。
演目を披露しながら、衣装と顔の変化の速さに驚きの連続です。もちろん、説明はあるのです。
言葉は理解できませんが、動作でわかります。まして、楊貴妃と玄宗皇帝です。それと、三国志です。劉備玄徳、魏の曹操、諸葛孔明、関羽、張飛の演目です。
成都では必然的の演目でしょう。世界的に知れわったてることです。最後は、総出演のヒナーレです。万雷の拍手中で終了でした。
皆、寒い火鉢でしたが、名残惜しい気持ちでした。
満足感に浸りながら、夜道をホテルに戻ったのです。
朝の食事を済ませ、フライトは午後の時間です。誰ともなしに、どこか手軽に観光できるところを思案しておりました。
パンダでも見に行くか。と誰かがいいだし、「成都熊猫(パンダ)繁殖基地へ行くことにしました。
バスに乗っていったのです。チケットを購入して入場しました。電気自動車が2台来たのです。各々が乗り込み、園内を回ったのです。パンダが駆けているではないですか。日本のパンダは、動かずにいるのは気候が成都に比較して、熱いので夏バテて状態に何時もさらされているからなのです。
成都のパンダは、50頭ぐらい飼育され、木に登ったり、駆けずり回ったりしているのです。とっても元気で細い木に登り、木が折れそうにしなっても平気で2~3頭がじゃれあっているのです。中には〇〇して繁殖に熱中しているも見られるのです。
園内を一回りして、帰る時、誰かがホッカイロを取り出し差し上げたらきょとんとして、すぐにニッコとして「謝・謝」いったので、腰に手を当て「ペッタ」と貼るしぐをしたら「うんうん」とうなずいて喜んだのです。当時は中国ではホッカイロが普及していなかったので分からないみたいでした。今回のチベットの旅は、1度もお土産店によらなっかたのでお土産店に行くことに決まり、成都の飛行場に向かったのです。
心に残る秘境チベットの旅でした。

教訓.旅友をビジネスの人脈にしよう。

まさかのトヨタ車の脱輪。危機一髪の恐怖

2017.11.13 (月)

私たち一行の車はカローラ峠(5045m)ニンジンカンサ峰、サラマサの鋭鋒、ジェシェナラカブ(6000m)氷河のカルション(7191m)チョモカムリなどのチベットの天空の峰々を回り、また、鶴が上昇気流にのって、ヒマラヤ越えの雄姿に、乾燥しきった大地に砂塵を上げ疾走、日本では考えることのできない景色を、車窓から見て、修行のラマ僧、五体投地、ロバに素焼きの壺お積んで、どこの市場に売りに行くのか、遠い寺院のある市場か、数日懸けて行く姿、また、一人の老人が何処の村だかしれませんが買い物ロバに乗っていく姿は、2005年のシルクローの旅でさえも、姿を消してしまった光景がどこかしこに見られたのです。
何処だか忘れましたが、真新しい木製の鍬が青空トイレの際に、ゾンビのヤクの近くに転がっているの見て、驚くやら、感心するやらそんな連続の秘境チベットの旅なのです。
シガッツエだったか記憶が定かでないのですが、ホテルに向かう途中、思わぬ事故が起きたのです。
私たちの車が先頭を走行し、後続の車が見えなくなったのです。
景観の良い、石畳のある広いところで待つこと40分ぐらいだったと思います。いくら待っても姿が見えません。
今と違って、携帯電話(国際)が有りません。連絡が取れず、戻ることにしました。
私たちが利用した乗用車は、日本のトヨタ「カローラ」です。3台ともトヨタの車です。日本車、しかもトヨタです。戻ってみると左側が高低差が3mくらいの清流の淀、右側が20mに及ぶ崖のところで惨事は起きたのです。
500mほど行くで道幅が4mくらいになるところだったのです。
すぐ目の前に無人のような小さな部落があったのです。
そこから、一人の男が出てきて、手まねで煙草を呉れという仕草をしたのです。誰も煙草を持ち合わせていなかったので「ノースモーク」といったら、何所へとなくスタスタと歩いて消えていったのです。
この秘境のチベットでは歩く以外にないのです。
現在の位置から一番近い街まで車で2時間もかかるそうです。
3人の運転手が整備士に変身、曲がったシャフトをまっすぐにと汗をかきながら奮戦、3時間かかりましたが、宿泊地「シガッツエ」に何とかたどり着くことができました。
良く話を聞いてみると、もしものために整備工を兼ねた運転手を雇ったそうす。
中国には、車検はあるのですが賄賂の金額で永久に未整備のまま、乗ることができるそうです。しかし、外国は何処に行っても自己責任です。日本人は、どうしても自分の責任を転嫁する癖があるのです。
考えると恐ろしいやらでした。もしかしたら、日本のメデアが報道したらと思うと秘境の怖さを味わったのです。
ラサまで西へ280kmです。休憩の時間に、ローターリーに莚を引いて、お店を出しているオジサンをからかいながらヤクの首につける鈴を買い求めました。日本円で10円から20円くらいの金額でした。2コ買い求め、妻は近くの商店街で孫たちにきれいな民族衣装を買ったのです。
でも、秘境の旅は、それにもまして素晴らしいのです。あなたも旅人になって、スリルと爽快感を味わってください。
日本人は井の中の蛙です。世界が広いことを味わって下さい。早く行ってください。ビルの狭間になってしまいます。
習近平国家主席の政策で、大量の漢民族が流れ込む前に。無人のホテルが観光客目当てに建っているのです。

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