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アラスカの大自然の白熊に消えた星野道夫さんの話

2017.11.20 (月)

最初(2010・8月)にアラスカを旅した時、光子は足を捻挫してどうしようかを悩んでおりました。私は、[チャンスは後ろ髪のない美人だよ」ど無理やり連れだしたののです。
成田に行って、その悩みが吹っ切れたのです。広い飛行場の中で、杖をついて歩いておりました。スチアーデスさんと思われる、美人の方が「足は大丈夫ですか。車いすをご用意させていただきます。」近づいてきました。光子に車椅子を「どうぞ」と言って、税関の通関を、乗務員用の窓口まで案内してくださたのたのです。それからアンカレッジの空港まで全部連絡行き届き、車椅子が行くところ、全部手配されていたのです。
それだけではないのです。アラスカの列車、デナリ公園内のバスまで行所は全部、車椅子または補助具が手配済みだったのです。先進国の旅は、何不自由なく快適に過ごすことができました。
2人旅でしたので時間的余裕が有りとっても助かりました。
アンカレッジの旅行案内所で、どんなスケジールにしようかと立ち寄りました。
そこには、素敵な写真集が置いてありました。20万頭のカリブー(トナカイ)の移動の写真です。
早春の壮大なドラマです。見てみたい。そんなたわいもないことを妻とつぶやいていると、アラスカのガイドさんのような方が「星野道
夫」さんといって、命がけで白熊の写真を撮影された日本人ですと教えて下さいました。いろいろ質問すると白熊の撮影に命を落としたそうです。
私は、厳冬期のマッキンリー散った植村直己さんを思い出していたのです。
日本人は、命がけで自分の人生をかけた人たちが、百年も前からいたことを思い出したのです。南極点を目指した白瀬中尉もそうでした。
どうしてなんだろう。自分の脳裏にかすめたのです。遥か20万年前に日本人の祖先が、命がけで丸木舟(?)や葦船に乗って何千と言う古代人が黒潮をに乗って、あるいは、厳冬期の氷結したサハリンから海をわったって来たそうです。日本人のDNAが冒険心を描きたてのでしょう。
アラスカには大自然が手付かずのまま残っているのです。私たちが、アラスカ鉄道に乗り、バスを乗り継いでデナリ公園に着いたのです。
空がどんより曇り、太陽が見えません。これは、半年前に自然発火の煙が雲のようになり、曇天模様に見えるのです。
自然に発火したものは、自然に任せ、消えた後に芽吹いた植物は、また、別の生態系を作り、自然の循環に任せるのが一番良いと考えているからです。
日本人には考えられない思考です。アラスカの広さがどれ程かわかるような気がします。
アラスカには、幽霊林といわれる火災で真っ黒に焼けただれた森林地帯があるのです。
翌朝、デナリ公園の観光に出かけました。トイレ休憩の時です。ガイドさんが面白い話をしたのです。
トイレに寄った時です。ヒグマが現れ、みんな驚いて、トイレも行けずバスに駆け寄ったのです。一番先に逃げた人が男性だったそうです。もうこうなると恐ろしさか先に立って、レディーファーストどころでないそうです。「いつクマがでるかわかりません。終わった方からバスへ戻ってください」とのことでした。
バスの車窓から、間近にグズリー、カリブ、ヘラ鹿、ドールシープいろいろな動植物を見て回りランチです。ボリューム満点のステーキでした。
私たちと一緒のバスに、膝枕を持った2人のお相撲さんのようなおデブさんが乗り込んでいました。ランチの後、山小屋に着き英語での説明に意味不明でしたが、2組に分かれ3時間の自由行動でした。まあいいやと思いながらついていくと、清流があって、浅いざるみたいな道具を渡されました。昔、砂金が採取されたらしく、他の人の真似をしてやってみました。砂金は取れなかったけれど、採種した石をハンマーで割ると銅の混入した黄銅鉱という石でした。佐渡島の砂金採りと違い、大自然の中での砂金採りは豪快でした。雄大なデナリ山やコケモモの自生する雄大な景観に圧倒されました。バスで公園の出発点につき、回遊バスでキャビンに戻り、楽しかった一日に思いふけりました。
星野道夫さんの命日は昭和42年8月8にです。なぜ、彼は、白熊に追いかけられたか。ちょうどこの頃が、冬眠をする白熊にとって脂肪を蓄えなくてならない時期なのです。白熊にとっては、人間も他の動物も餌にしか見えないのです。また、写真家魂がうずいて、より感動するシャッターチャンスを、狙っていたものと自分と比較して思わざるにいらえません。
私も写真家田村寛一さんと、ケニヤに行った時のことです。朝日で輝くキリマンジャロを狙って、ホテルのゲートを出て、200mくらい行った時です。ホテルのガードマンが、駆け足で飛んできて猛獣は遠くにいても、すぐ人間に追いつき危険ですからホテルに戻ってくださいと叱られた経験があるのです。星野道夫さんは、夢中になりすぎて、望遠レンズを覗いてライフルを手にする暇もなかったのだと思います。
星野道夫さんのご冥福をお祈りいたします。
また、田村寛一さんが夕日に逆光なった樹木に鷲が泊まり、ジープの運転手に90cm右と指図されていた事を思い出し、プロは違う視点で撮影されたことを思い出しました。

東條英機・ヒットラーそしてスターリン

2017.11.16 (木)

東條英機そしてヒットラー。スターリンのポツダム会談の舞台裏。
この3人ほどいろいろな情報が交錯し真実が見えてきません。
私は、ポツダム、モスクワ、サンペテロスブルグ、ベルリン、アウシュヴィッツ・ビルケナウミュヘン、パリ、ロンドン、ウイーン「ゼーグロッテ」の地底湖、を旅してみて、わたしは、昭和天皇、東條英機は戦争回避に努力しのです。
日本の官僚の悪弊が、責任を誰かに擦り付ける印象があり、その策にはまったのです。のです。
大東亜共栄圏の構想は、東京会談でインドのチャンドラポーズを初め、植民地の首脳が戦争のさなかに、解放を願って参集したのです。
東條は、近衛内閣の総辞職と天皇の依願で引き受けざるを得得なかったのです。ヒットラーは当時のドイツはヨーロッパの列強国から第一時世界大戦の賠償額が天文学数字で、学校の学費さえも、ボストンバックに一杯に詰めこまなければ払えない状況でした。
イタリアは、植民地がなかったので、世界恐慌のインフレで経済が破綻していたのです。日本も満蒙を属国にしなければならないくらい経済が破綻寸前でした。
石原莞爾、板垣征四郎が1個師団で半月足らずで満洲国併合したのです。2人構想は、当時日ソ不可侵条約の下で、黒竜江の国境を越えなかったのです。しかし、日本陸軍は、タブーを破って超えてしまったのです。その為、スターリンは8月8日日本の野村大使通じ宣戦布告したのです。
また、ヒットラー率いるドイツ軍が、破竹の勢いでモスクワに侵攻したのです。日本陸軍は、有頂天になって、ドイツ軍はシベリアの黒龍江省まで攻め入ると誤認したのです。
ところが、スターリンは、モスクワ市に火を放ち、3日3晩で街のすべてを焼き尽くしたのです。
ドイツ軍が厳冬の食糧補給を絶たれ、凍死するもの相次ぎ、ナポレオンの二の舞をしたのです。戦意、戦力をなくたドイツ軍は、おそらくナポレオン軍と同じく10分の1の戦力になり、ベルリンに敗退したのです。
日本軍は、そのことを知らず、黒竜江を超えてしまったのです。
また、スターリンはレーニンを追い落とし独裁体制を引き、また、戦時中の食糧不足、また、反スターリン派を殺し100万人以上といわれる人命を奪ったのです。
ヒットラーも何百万人といわれるユダヤ人、ホローコーストをアウシュヴィッツやビルケナウで殺害したのです。
日本軍は南京事件で中国人を殺害してないのです。中国が捏造記事として騒ぎ立ててるのです。それどころか、日本軍は南京市民に対し、食料を分け与えたのです。
これは、昭和天皇の御心と東條英機そして松井大将「皆同胞」の寛容と慈悲の現れだったのです。
南京の市民は、数日のうちに20万市民が25万人膨れ上がのです。この事実は、外国の従軍記者さえも記録がないのです。
杉原千畝氏だけが、ユダヤ人を満洲に安住地を与えたわけではないのです。天皇、そして、拝命を受けた東條英機もビサ発給に協力していたのです。
ところが陸軍が暴走し、東條・杉原・松井大将の努力を水泡に期したのです。
ヨーロッパ戦線で、ヒットラーが第2次世界大戦の発端を作ったのです。
ドイツは古くからユダヤ人・ホローコーストは国家レベルで、異常なほど罪のない人々を迫害したのです。
東條はいま語られている人物像でなく、近衛内閣、天皇の推挙があって、内閣を組閣したのです。
東條は、最後まで戦争回避に尽力したのです。しかし、米国がハル・ノートといわれる日本国の飲めない条件をだし、それを一番望んだのは、イギリスのチャチールです。答えは、ロンドンは、ドイツ・メッサーシュミットにとって、陥落寸前であったのです。当時、アメリカはモンロー主義を貫き、他国に対し干渉せず、干渉されずであり、世界恐慌はニュデリー政策で解消に向かっていたのです。ヨーロッパ各国は植民地支配のよって、どうにか切り抜けていたのです。
しかし、ドイツは天文数字の賠償金で、国民はインフレに喘いでいたのです。日本はハル・ノートを突き付けられて、石油・ゴムの禁輸政策によって、生存権さえも奪われ状況下あったのです。
まして、日本の暗号は解読され、まして、尾崎・ゾルゲの国際スパイ事件によって、真珠湾攻撃はソ連を通じて、米国トルーマン大統領に報告されていたのです。
そして、ポツダム会談は戦勝国の会談の場で、ソ連が北海道の分割(釧路、留萌の北側)望んでいたのですが、アメリカのルーズベルトは、拒否しアメリカ1国の占領下に置かれたのです。
ミュヘンは、ヒットラーの若かりし頃画家を志したか場所と軍事参謀本部があったところで、市民に時を知らせ、からくり人形があります。
サンペテロスブルグは、ソ連時代レーニングランドと呼ばれ、コミンテルンの盛んな市でした。ベルリンは、第2次世界大戦の遺跡がたくさんあります。
パリは、ヒットラーによってすぐ陥落したため、戦勝国から外されたのです。
ゼーグロッテは、戦況悪化して来たときに、地底この洞くつで、メッサーシュミットの秘密工場として利用されたのです。余談ですが、イタリアのムッソリーニはヒットラー信用してなっかたのです。
また、ヒットラーは、ロシアに勝った日本人を黄禍として信用してなかったんです。
また、現天皇(当時、皇太子の誕生日に7人の絞首刑が確定・昭和天皇の誕生日に刑が執行)されたのです。交際法上は全員無罪ですが、アメリカによって見せしめの極東軍事裁判だったのです。

火鉢を抱いて仮面劇、走るパンダ(成都)

2017.11.13 (月)

明日は日本です。今、チッベトに別れを告げ、成都のホテルに戻ってきました。最後のお別れパーティーの豪華な晩餐会(?)です。F女子の提案で仮面劇を見ることになりました。
とっても素晴らしそうです。ガイドさんにチケットをお願いして、全員で出かけることになりました。
成都の空は、澄み切って、星が煌めいております。天の川が、東西に大河のごとく悠々流れ、私たちの子供の星空でした。
懐かしく見入り、他の旅人も同じ思いで見たことでしょう。
真っ暗な劇場について、チケットを渡し、中に入って驚きました。屋根がないのです。中国の音楽が流れ、人影が少なく、最前列の椅子に一団になって座りました。
成都は日本の長野市の高度と同じ600mくらいの高さです。冬の1月初旬の気温を考えてください。屋根がないことは、外気温と同じなのです。
まして、高度があるのです。寒い事この上なしです。劇場の従業員が火鉢を運んできたのです。3人に1個の割合です。手と顔が温まる程度です。私たちは、高校生ぐらいまで暖房器具といえば、火鉢とコタツの時代でした。今では、すっかり慣れてしまった、エアコンとフアンヒーターです。
それでも、屋根があって囲まれた部屋です。想像してください。
客がぞろぞろ入ってきました。少しは、体温の温もりで増しになってきたのです。
待つこと40分位、独特のドラと音楽で、少しざわめき始めました。やっと開演です。口上が流れ、開幕です。大股で飛びながらの入場です。いろいろ演目で、楊貴妃と三国志が演じられたのです。
T女子の言葉道理、目を見張るものでした。写真をカシャカシャやっているうちに寒さも忘れ、見入ってしまいました。
演目を披露しながら、衣装と顔の変化の速さに驚きの連続です。もちろん、説明はあるのです。
言葉は理解できませんが、動作でわかります。まして、楊貴妃と玄宗皇帝です。それと、三国志です。劉備玄徳、魏の曹操、諸葛孔明、関羽、張飛の演目です。
成都では必然的の演目でしょう。世界的に知れわったてることです。最後は、総出演のヒナーレです。万雷の拍手中で終了でした。
皆、寒い火鉢でしたが、名残惜しい気持ちでした。
満足感に浸りながら、夜道をホテルに戻ったのです。
朝の食事を済ませ、フライトは午後の時間です。誰ともなしに、どこか手軽に観光できるところを思案しておりました。
パンダでも見に行くか。と誰かがいいだし、「成都熊猫(パンダ)繁殖基地へ行くことにしました。
バスに乗っていったのです。チケットを購入して入場しました。電気自動車が2台来たのです。各々が乗り込み、園内を回ったのです。パンダが駆けているでないですか。日本のパンダは、動かずにいるのは気候が成都に比較して、熱いので夏バテて状態に何時もさらされているからなのです。
成都のパンダは、50頭ぐらい飼育され、木に登ったり、駆けずり回ったりしているのです。とっても元気で細い木に登り、木が折れそうにしなっても平気で2~3頭がじゃれあっているのです。中には〇〇して繁殖に熱中しているも見られるのです。
園内を一回りして、帰る時、誰かがホッカイロを取り出し差し上げたらきょとんとして、すぐにニッコとして「謝・謝」いったので、腰に手を当て「ペッタ」と貼るしぐをしたら「うんうん」とうなずいて喜んだのです。当時は中国では、ホッカイロが普及していなかったので分からないみたいでした。今回のチベットの旅は、1度もお土産店によらなっかたのでお土産店に行くことにしました。そして、成都の飛行場に向かったのです。
心に残る秘境チベットの旅でした。

旅友をビジネスの人脈にしよう。

まさかのトヨタ車の脱輪。危機一髪の恐怖

2017.11.13 (月)

カローラ峠(5045m)ニンジンカンサ峰、サラマサの鋭鋒、ジェシェナラカブ(6000m)氷河のカルション(7191m)チョモカムリなどのチベットの天空の峰々を回り、また、鶴が上昇気流にのって、ヒマラヤ越えの雄姿に、乾燥しきった大地に砂塵を上げ疾走、日本では考えることのできない景色を、車窓から見て、修行のラマ僧、五体投地、ロバに素焼きの壺お積んで、どこの市場に売りに行くのか、遠い寺院のある市場か、数日懸けて行く姿、また、一人の老人が何処の村だかしれませんが買い物ロバに乗っていく姿は、2005年のシルクローの旅でさえも、姿を消してしまった光景がどこかしこに見られたのです。
何処だか忘れましたが、真新しい木製の鍬が青空トイレの際に、ゾンビのヤクの近くに転がっているの見て、驚くやら、感心するやらそんな連続の秘境チベットの旅なのです。
シガッツエだったか記憶が定かでないのですが、ホテルに向かう途中、思わぬ事故が起きたのです。
私たちの車が先頭を走行し、後続の車が、見えなくなったのです。
景観の良い、石畳のある広いところで待つこと40分ぐらいだったと思います。いくら待っても姿が見えません。
今と違って、携帯電話(国際)が有りません。連絡が取れず、戻ることにしました。
私たちが利用した乗用車は、日本のトヨタ「カローラ」です。3台ともトヨタの車です。日本車、しかもトヨタです。戻ってみると左側が高低差が3mくらいの清流の淀、右側が20mに及ぶ崖のところで惨事は起きたのです。
500mほど行くで道幅が4mくらいになるところだったのです。
すぐ目の前に無人のような小さな部落があったのです。
そこから、一人の男が出てきて、手まねで煙草を呉れという仕草をしたのです。誰も煙草を持ち合わせていなかったので「ノースモーク」といったら、何所へとなくスタスタと歩いて消えていったのです。
この秘境のチベットでは、歩く以外にないのです。
現在の位置から一番近い街まで、車で2時間もかかるそうです。
3人の運転手が整備士に変身、曲がったシャフトをまっすぐにと汗をかきながら奮戦、3時間かかりましたが、宿泊地「シガッツエ」に何とかたどり着くことができました。
良く話を聞いてみると、もしものために整備工を兼ねた運転手を雇ったそうです。
中国には、車検はあるのですが賄賂の金額で永久に未整備のまま、乗ることができるそうです。しかし、外国は何処に行っても自己責任です。日本人は、どうしても自分の責任を転嫁する癖があるのです。
考えると恐ろしいやらでした。もしかしたら、日本のメデアが報道したらと思うと秘境の怖さを味わったのです。
ラサまで西へ280kmです。休憩の時間に、ローターリーに莚を引いて、お店を出しているオジサンをからかいながらヤクの首につける鈴を買いも富めました。日本円で10円から20円くらいの金額でした。2コ買い求め、妻は近くの商店街で孫たちにきれいな民族衣装を買ったのです。
でも、秘境の旅は、それにもまして素晴らしいのです。あなたも旅人になって、スリルと爽快感を味わってください。
日本人は井の中の蛙です。世界が広いことを味わって下さい。早く行ってください。ビルの狭間になってしまいます。
習近平国家主席の政策で、大量の漢民族が流れ込む前に。無人のホテルが観光客目当てに建っているのです。

カルチャーショック。5体投地

2017.11.11 (土)

中国の観光立国の第1歩として、チベットの観光が許可になった直後、山岳旅行主体の観光会社、A会社の「ラサ&秘境の旅」に200年1月[中国のスイス]と触れ込みのツアーに参加したのです。
当時は,チベット各地で暴動が発生、ダライ・ラマ14世がヒマラヤ越えしてインドに亡命したのです。、当然ことですが、清蔵鉄道が未開通で開通に向けて工事が急ピッチで進められておりました。
胡錦濤国家主席が僧侶などへの弾圧を強め、焼身自殺者出ておりました。
私たちは、成田から成都に向い、乗り継ぎラサに向かいました。成都からの乗客はほんの少しで、「四姑娘山・ミニア・コンカ」か見え始めると空席の窓べに、右左に勝手に移動し始め、カメラに収め始めたのです。
まして、真っ白い山また山の横断山脈が見え始めるとると「パチリ・パチリ」シャッター音が聞こえてきました。
それから、数時間後、チベットの首都「ラサ」に降り立ちました。
まず、添乗員から、チベットは2500m以上の高地です。行動はゆっくり行動して下さい。とお教えられました。
ダライ・マラの宮殿に向かい、途中摩崖仏や凍った湖などを見ながら到着しました。
市街は真新しく、街も整然と立ち並んでおります。しかし、人影は見当たらないのです。
ポタラ宮殿の広場にも、お上りさんと見える中国の人がまばらにいるだけです。チベット特有の民族衣装を着けた若い家族が何組か歩いているだけでした。
はじめてみるチベット人に、カメラを向けてOKどうかの素振りをすると笑顔でOK合図でした。お子さんは、日本の仮面ライダーの格好でパチリとシャッター押しました。
北京などと違い「物売り」もなく、素敵な写真を納めました。人気のないラサでした。世界遺産のポタラ宮殿の撮影ポイントは、小高い丘(10mくらいの上です。)ガイドと行き、妻にもこの景観を堪能させたい一心で手を差し伸べ、登らせたまでは良かったのですが、それからが大変、妻は3日間高山病で苦しみ、頭は痛いは食事もできない状態になってしまったのです。
それからの工程は、ヤムドク湖セチラ峠、ナルチャバル、パソン湖、
サラマサなどに行ったのです。
もう、サラマサの鋭鋒などは驚きの連続です。チッベト高原は空気が薄く、湖水の水は何処までも美しく、澄んでいました。
井戸がないのでしょう。おばさんたちがポリタンクに湖水の水をいっぱいに組み上げ、坂道をを上がってくるのです。大変な重労働労働です。また、他でも、小学生ぐらいの子供が、大きなヤカンに凍った川の水を氷を割りくみ上げるのです。日本の子供では到底できない力です。
私たちは工チベット平原を疾走し、中国の自熱発電所に向かう途中の事です。2人の若者と家族の父親と思われる3人組が、大地にひれ伏しながらお経をあげ尺取り虫のように進むのを車から見たのです。
初めて見る光景です。車を停車させてもらい、ガイドの巴波さんの言葉を劉さん(劉備玄徳の末裔、北京精華大学卒)が通訳していただくと五体投地の修行とのことでした。話しを詳しく聞くと、彼らは、不服そうに話出したのです。まず、故郷からここまで、五体投地の修行を積み写真を撮られたことによって、功徳が半減したと立腹だったのです。
我々はそんなこと露知らず、撮影していたのです。観光会社のFさんが財布からそれに見合うお金を支払い、教えを請うたです。
話しによれば、1000K先の故郷から「五体投地」しながらシガツエの寺院までいくそうです。その寺院で約1週間ぐらいお祈りを捧げるそうです。家族の奥さんが、必要な荷物を先に自転車でリヤカーを引いて行っているのです。
この修行ができることは、村でも少数で、我々家族はしわせ者なのです。現世は厳しくとも来世で極楽浄土に行けるのが楽しみなのです。
村人たちが住んでいる場所によっては、2000K以上も五体投地の修行するのだそうです。
私たちは、驚くやら日本人として、生を受けた事に感謝せずにいられなくなりました。今、チベットは、胡錦濤国家主席の迫害で、心も経済も苦しいのです。そんな言葉を残して、シガツエの寺院に向かって黙々と五体投地を続けながら去ってくのを見送りました。
私たちも次の観光地「自熱発電所」やニンチェンタングラ山脈(6000m級)に向かいました。

青蔵鉄道開通前夜と黄河・揚子江の源流を行く

2017.11.09 (木)

チベットの旅行が、中国政府か解禁して、間もないころです。まだ青蔵鉄道が建設途中の時です。日本人が、チベットの事情を知るには川口慧海(慶応2年~昭和20年僧侶)の著した「チベット旅行紀行」くらいでした。
まだまだ、未知のことが多いチベットでした。
私たちは、揚子江、黄河の源流に向かいました。そこのはタルチョー(祈祷旗)と呼ばれる5色の三角の旗がバサバサと風にあおられ、峠に向かって竜の鳴くような声を上げておりました。
それがミラ峠です。
これが揚子江や黄河の源流と巴波さんの説明でした。そのほかにもインドの大河、ガンジス川、インダス川があります。カンボチア、ベトナム流域のメコン川そうです。プラマプトラ川はインドへ流れているです。
小さな黒いもの10匹以上動いてるのが見えました。ヤクだそうです。動物園では、見ることが出来ないのです。それは、ヤクにとって平地は空気圧が高すぎて、肺が破裂するのです。我々普通の人にとっては、チベットは日本の平地の60%の空気しかないので、高地の順応に2日くらいの時間が係るのです。
このヤクも、今は白黒のゾンビヤク存在するのです。ヤクは頭よくて、夕方になると親分格のヤクが動き出すと首にかけた鈴がチリンチリンとなり一緒に動き出し、牧舎に帰っていくそうです。
チベットは多数の国の灌漑、飲料水、発電に寄与しているのですが、最近の中国の温暖化で、氷河が融解する速さが増し、下流の村落の水被害が多発しているのです。もちろん鉄砲水の速さで濁流化して村ごと流しまうのです。
また、そこに自生している貴重な植物の種や絶滅危惧種の動物まで命が危ぶまれているのです。
また、逆の現象がダム建設によって、下流の村の水源の枯渇も起きているのです。人間が自然を破壊し、調和の取れたサイクルがくるってきているのです。
青蔵鉄道がまだ開通してないので、ポタラ宮殿は、ダライラマ14世の不在のただの宮殿ですが世界遺産なっておりました。観光客もいないので、中国特有の贋物の物売り見おりません。
歩いているのは、お上りさんと見受けられる赤葛色のチャイナ服の上に、黒のチベットの片肌を脱いだダウンのような衣服に手織りの前掛け、腰にはトルコ石のようなベルトと飾りをつけ、頭には、中央に大きな飾りのついたライトブルーの頭飾りの服装でした。
男の人は、ダライラマの茶褐色のマントのような上着に、片肌を抜いて、前側にインドの僧侶ような恰好でした。きっとこれがチベット人にとって最高のデザインの衣服に感じられました。
チベットは、昼は20度くらいの気温でも、夜になるとマイナス10度以下になるのです。寒暖の差が激しいのです。それで片肌を出す衣類なのでしょう。
もちろん、チベット仏教の本拠地「大昭寺」はすごい人だかりで、何日か五体投地を繰り返し,勤行するのです。いろいろな店もあって、日本の浅草寺のようでした。私は黄金(塗り物)の仏像を購入しました。
もちろん、若い僧侶やにこやかなおばあさんの姿、たくさんのチベット人が、あるいはインド人のような、また、ネパール人ような人も入り混じっておりました。青果を扱ている青年はイラン人とか申しておりました。大昭寺の境内、目抜き通りは、人種のるつぼを感じさせたのです。

ストーンヘッジの巨石の謎と素敵な村コックウオルズ

2017.11.08 (水)

エジプトのピラミッドと同年代にイギリスの巨石文明ストーンヘッジは建設さたものです。
メキシコにもピラミットはあります。また日本も仁徳天皇のなどの巨大の古墳があって、また、それよりは幾分小さな古墳が日本にも多数あります。
どの巨石文明も、なにかしらの謎を秘めております。今回エジプトのピラミッドの内部を明らかにしようと特殊な飛行ロボットにて解明する試みが計画されております。このストーンヘッジも謎だらけです。
太陽崇拝の祭祀場か暦としての天文台か、農作物の季節を占う神聖な場所か、ケルト族の祈りの場所か仮説が立てられましたが、それでも適切な説明がつきません。
それは、ブルースストーンと呼ばれる、石英・長石のを含む鉱石が火山活動によって火山灰と流紋岩、当然に銅、ピライト、カルシュウムからなる粘板岩なのです。
私は、粘板岩は水成岩と思っておりましたが、長い何万年という時間の中で粘板岩になることを初めてしりました。
このブルーストーンは、病気の治癒能力を持っていると言われております。そうすると、今の治療機関の様な権力者の設備だった事の仮説として建てられのです。
このストーンヘッジに使用されて、いる巨石は、現在地より400Kmも離れた、西ウエールズのプレセリ山地のみに産出する奇石なのです。
私が観光した、ブルーストーンの見学場所に修羅という橇状の現物が
展示されておりました。
しかし400KMもの距離をコロ敷き(丸太)詰めても、運搬不可能と思っております。
1個の巨石が40トンもあり、その数も30個以上に及ぶのです。今の地形と違い、きっと6000年も前は、地形的にも湿地帯が多く、大河があったか、現在の利根川のように関宿から掘割をし、銚子の太平洋に流れを変えたのと同様に湿地帯に掘割を建設したのではないかと思われます。同様に水運で有れば、いかだを汲んで運搬が可能です。
それは、今の皇居に潮見坂といわれる場所があります。太田道灌は築城当時、釣り糸を垂れて江戸湾で釣りを楽しんだとか?。
その後、徳川家康の時代に江戸湾に堤防を作って、干拓したのです。結果、新田によって、コメの増産を測ったそうです。現在の江戸800家町ができたのです。
干拓によって、260万石の農地の確保ができ、幕府の石高が増し食料確保が得られたと考えられます。
この仮説は、いかがですか。私はこの仮説の方が現実的かと思います。
また、このストーンヘッジの周りには幾つもの古墳が存在しておりました。現在の地形と同じで考えるとつじつまが合いませんが、6000年の時間を考慮しなければ説明がつきません。
万葉集の時代、熊谷市の隣の行田市には「小崎ヶ沼」という川の津(港)があり、防人が筑紫の国へ赴いたのです。

埼玉(さきたま)の 津に居(を)る船の 風をいたみ綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね

また、映画「のぼうの城」は400年前の忍城は別名「忍の浮城」と呼ばれ、湿地帯に孤立した堅固の城だったのです。
また、埼玉の地名も前玉だったと言われております。この神社格式が高く、古事記・日本書紀などが編纂された時代に遡り「式内式」神宮として、埼玉古墳群に向かって建立されております。

コックウールズは、古いイングランドの田舎町で、貴族たちが荘園を守っていた時代の石造りの美しい村です。
小川にはブラックスワンや白鳥がヒナと泳いで、小路に沿って花の生け垣に囲まれ、壁には蔦や苔が生え、窓べに花が垂れて下がり、窓越しに中国の兵馬俑の置物があったり、気の利いたこ品々が置かれて、観光客の目を楽しませてくれます。
色々な個性豊かな庭と石造りの家、そして石畳、素晴らしいガーデングッツが置かれ、何気ない気品の高さを醸し出しておりました。
女性にとっては、夢心地のお伽の村に、舞い込んだ錯覚に浸れることでしょう。
私と妻で、散策してある工房が目に入ってきました。何か異国でのお気に入りの物でもと思ったのです。
もちろん、素敵なものが沢山ありました。ご主人に話しかけ「工房を見せてください。」とお願いしたのですが断われたのです。
私は、持ち前の気楽さで、懇願するとしぶしぶ見せてくれました。工人は奥さんとのことでした。釉掛けのツボ、登り窯、乾燥中の作品などが所狭しと並んでおりました。工人のお気に入りの釉薬は、マンガン釉のフリット(ガラス成分)使用しない無光沢の作品でした。
私も、女性が胡坐をかいたヌードをケガイた平たい花瓶の作品を買い求めました。お店に日本で出版された作品集もあったのです。別れ際に、みんなで思い出のショットと思いお願いいたしました。ご主人が笑った顔がとても素敵でした。
子供たちにお土産を骨董屋で買い求め、次の村に行きました。
中央広場の噴水と小川が流れ、犬と戯れたり、赤ちゃんを囲んで家族で春(6月)を楽しんでる微笑ましい姿が何組もありました。
とても楽しい、イギリスの新緑とさわやかな1日を心から楽しんみました。

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